パティシエのタルタリヤと大学の先生な鍾離のお話①ふわり、と。
鼻先を掠めた匂いに思わず顔を上げる。会話も、物音も少なく、かすかに聞こえるのは紙の擦れる僅かな音ばかりの図書館にはあまりにそぐわない、甘い匂い。それは書物へと没頭して、つい、食事を忘れがちな己の胃を起動させるには十分なものだった。壁にかかるシンプルな丸時計を見るともう昼はとうに過ぎ、どちらかと言えば八つ時に近い。なるほど、甘いものを食べるにはちょうどいいな、と。昼食すら食べてないことからは目を背け、手にしていた本を棚へと戻した。
さて何が食べたいか…足音を飲み込むカーペット素材の床を踏み締めつつ、書籍で埋まる棚の間を進む。平日の昼間なせいか自分以外の人影を見かけなかったのだが、知らぬうちにもう一人、利用者が増えていたらしい。珍しい、と。なんとなしに興味が引かれ、知らず足が向く。こちらの事など気がついても居ないのだろうその人物は、立ったまま手にした本を熱心に読んでいた。赤みの強い茶色の髪の下、スッと通った鼻筋と伏せられた目を縁取る長い睫毛。恐らく自分よりは歳若いその青年は、特に目立つ格好をしている訳でもないのに、何故か無視できない存在感があった。ここまで気になるという事は、もしかしたらどこかで会った事のある同業者か…生徒の一人かもしれない、と。記憶の中で赤毛を探すが残念ながら思い当たる人物はみつからず。知り合いでは無いのならばあまり見ていては失礼にあたる、と無理やり視線を剥いで、青年の後ろを通り過ぎた。
――その時だ。再び甘い香りが鼻腔をくすぐった。
(なるほど)
あの一瞬の香りは、この青年からのものだったか。
距離が近くなったせいか、より強く感じられる柔らかく甘く香るそれ。季節柄金木犀の匂いにも似ていたがそれよりももっと、これは己の生活の中で嗅いだことのある馴染みのあるものだ。香水や柔軟剤のような人口の香料ではなく、しかし、草花のようなささやかなものでもない。青年から香るには些か違和感のあるそれは、確実に覚えがあった。が、どうにも喉元で引っかかって答えが出てこない。あと少し、匂いを嗅いでいれば正体が知れる気もするが…流石に見ず知らずの人物の匂いをじっくり嗅ぐ、なんて失礼すぎるだろう。人と感覚がずれていると知り合いにはよく言われるが、それくらいの常識は持ちあわせてはいるのだ。まぁ、それにこの甘い匂いにすっかり反応してしまった胃が訴えてくる空腹感の方もそこそこ問題で、現に今にも鳴り出しそうだった。仕方なく彼の正体を探ることは諦めて、荷物をまとめ図書館をでる。
「さて、何を食べるか」
時間的にはおやつか軽食が丁度いいだろう。帰りがけにコンビニでおにぎりやサンドイッチを手に入れてもいいが…今はあの匂いのせいで猛烈に甘いものが食べたかった。それならばと、思いついたのは職場である大学の近くにあるたい焼き屋だった。確か季節限定の芋あんのたい焼きが美味しいのだと、生徒たちが話していた…それを思い出してしまえば、もう胃が騒ぎ出すのを止められず、無意識に歩く速度が上がるのだった。
※ ※ ※
そんなことがあって数日。
すっかりと夏から秋へと季節がめぐり、日が落ちるのも早くなってきた頃。それを見たのは、全くの偶然だった。
表通りから一本入り、ポツンポツンと街頭の立つ住宅街の真ん中。そこだけぽっかりと光が灯る場所にどこかで見かけた赤みの強い茶色の髪の青年が立っていた。小さな箱を女性へと手渡し、ありがとうございました、と人好きのする笑みを浮かべるその姿は、あの時の本を真剣に読む姿とは全く別の表情だ。が、それでも、あの髪の色と横顔は、確実にあの甘い匂いの主だった。
「――ん?お客さん?」
まさかこんなところで見つけるなんて、と思わぬ再会に驚いていたせいだろう。女性を見送ったその深い青色の目が今度はこちらを捉え、緩く首を傾げる。
「もうあと数分で閉店なんだけど、良かったらどーぞ」
突然の声掛けに返事すら出来ずにいた俺に、何を思ったのか彼はにこりとさっき女性に向けたのと同じ笑顔を浮かべ、後ろにあった扉を開く。きぃ、と軽い音を立てて開く扉。迷ったのは一瞬だった。誘われるまま足を向け、白い木製の扉を潜ると、そこはあの日の彼と同じ匂いで満ちていた。
「これ、は」
ふわふわのスポンジにたっぷりの生クリーム。艷めくチョコレートの飾りと、まぁるく可愛らしいマカロン。クルクルと巻かれた黄色が鮮やかなモンブランの隣にはリンゴがたっぷりと入ったアップルパイが並ぶ――扉を潜った向こうにあったのは、色とりどりのケーキたちが並ぶ、ガラスケース。
つまりここは、ケーキ屋だった。
「貴殿はパティシエだったのか」
「うん?おにーさん、オレのこと知ってるの?」
「……あぁ」
何となく言うのが躊躇われたが、ぱちぱちと不思議そうに…しかし興味津々といった様子で向けられる目に、隠し事は出来ず。「図書館ですれ違った」と答えると、少し考えた後に、あー前に行った!と青年は手をぽんと打ち鳴らしカラカラと笑った。
「よく覚えてたねー。オレ、そんなに目立つ?」
「記憶力には自信があるんだ。それに、男性が纏うには珍しい甘い香りがしていたからな」
「あー、カスタードクリーム仕込んだ後だったから、バニラビーンズの匂いがついてたのかな…」
「そうか、バニラだったか。あの匂いは」
どこかで嗅いだ事のある匂いなわけだ。ようやっと謎が解け、スッキリとした気分の俺に、青年はそんなに匂うの?オレ…と、自分の衣服――白い調理服の袖を鼻に寄せた。自分じゃわかんないけど、まぁ臭くないからマシ…かな?と少し不安そうに眉を寄せる姿が、何となく面白くて。思わずくく、と喉を震わせてしまったのに気がついた青年が、ムーと頬をふくらませた。
「大丈夫だ。甘い、美味しそうな匂いだったからな」
「美味しそう…ならいいか。パティシエにとっては褒め言葉だね」
「おかげで俺の胃は大騒ぎだったが」
そう、自らの腹を撫でると「あはは!それはごめんね」と笑う彼は、コロコロと表情が変わって大層可愛らしい。おそらく成人しているだろう青年に『可愛らしい』と言うのは失礼な気もするが、彼を表すにはそれ以外が浮かばなかった。
「ふーん、じゃあ、今日もこの匂いでお腹すいた?」
ころり。口を開け笑っていたのにまた表情が変わる。今度は少し甘えるように、ゆるりと唇に弧を描き目尻を緩める。オマケに同じくらいの身長だと言うのに器用に上目遣いまで使って来るのだから、彼は『自分』の使い方をよく分かっているらしい。
「良かったら買っていってよ、おにーさん?」
美味しいよ、と。少し潜めた声で囁くのに、断る理由なんてなかった。
「では、貴殿のオススメを貰おう」
「やった!えーと、オレが好きなのはアップルパイとガトーフレーズと、レアチーズケーキとショコラかなー」
「…ほぼ全部じゃないか」
「あ、あとシュークリームね。だってオレが作ったんだもん。全部オススメさ」
もうあまり残っていないガラスケースの中のケーキたちを、ほとんど全て取り出して。自慢の子達です、と言わんばかりににっこりと笑う青年に、仕方ないと溜息を着く。ここまで言われて断る程、空気が読めなくはない。それに確かにどれも美味しそうだった。甘いものは嫌いではないし、この数ならば問題なく食べられるだろうと、懐からカードを取り出した。
「では、支払いはカードで頼む」
「あ、」
箱に一個ずつ丁寧にケーキを並べていた彼の手が止まる。うん?と今度はこちらが首を傾げると、どこか気まずげに視線をさ迷わせた青年が、ごめんね?と眉を下げた。
「カード使えなくて、ここ現金のみなんだ」
「…電子マネーもか」
「あー、うん」
「ふむ…それは困ったな」
生憎、現金は持ち歩いていなかった。こうなったら一度店を出て、どこかで下ろすか…?いや、銀行のキャッシュカードがないな、と。思わぬ問題に頭を悩ませていると、とん、と目の前に白い箱が現れた。
「確認しなかったオレが悪いし、ケーキ残っても困るから、ここはオレが奢ってあげる。まぁオレの店だから奢るってのも変な話だけど」
そう、差し出される箱。しかしそれを受け取るのはなんだか申し訳なくなかなか手を伸ばせずにいた俺に、「そのかわり」と青年は人差し指を立てた。
「また来てよ。その時はちゃーんと、お金もってきてね?」
で、今よりいっぱいかってよ、と。そう青色の目に楽しそうに細める彼に、分かったと頷く。
「必ずまた来よう。あぁ、俺の名前は鍾離、という。覚えておいてくれ」
せめて、名前だけでも残しておこうと懐の名刺入れから一枚、名刺をだし渡す。受け取った青年は「鍾離…さん?あ、大学の先生なの?じゃあ鍾離先生だね」と楽しそうに俺の名前を繰り返した。
「オレはね、タルタリヤ。公子って店では呼ばれてるけど」
「何故公子なんだ?」
「んー、店長みたいな意味、かな?ま、気にしないで」
「そうか」
手渡されたケーキの詰まった箱を、落とさぬようにとしっかりと持ち、店の扉を潜る。外はひんやりとした空気が満ちていたが、何故か今の自分には全く寒さは感じられなかった。
「では公子殿。また来る」
「うん、まってるよ。鍾離先生」
ばいばい、と手を振るのに目線だけで返事を返し、名残惜しいが彼に背を向けた。さて、店のと公子殿の甘い匂いのせいでまた胃が大騒ぎを始めている。早く帰って公子殿自慢のケーキたちを楽しむとしよう。