『小さなわがまま』 普段よりもゆっくり進めていた足は、駅前のロータリーでピタリと止まった。それが合図のように、こちらを向く青灰色の表情は見えない。つい数分前まではあんなに笑顔でアレコレと楽しそうに話していたのに、駅に近づくほどに静かになっていくネロは言葉は素直でないのに、態度はこんなにもわかりやすい。今日は早めに帰るから引き留めてくれるなと、待ち合わせのときに言っていた男の行動とは到底思えなかった。このまま帰したくない気持ちを押し込め、ブラッドリーは努めて明るく送り出した。
「じゃ、気をつけて帰れよ」
「……おぅ」
そう言ったは良いが、ネロはそのまま動かない。どこか戸惑うように、別れがたいと全身で伝えてくる。これも無意識なのだろうか。思わず抱きしめたい衝動に駆られるが、公衆の面前でそんな事をすればどうなるかくらいはブラッドリーにも分かっていた。今すぐ動き出してしまいそうな手が勝手なことをしないように、コートのポケットの中で強く握りしめる。
「ネロ」
「ん」
「顔見てぇ」
せめてと声をかければ、そろそろと上がった顔は、どこか落ち着かず、泳ぐ目はすぐに逸らされた。
「ネロ。そんな顔すんな。すぐ会える」
「分かってっけど……」
まるで今生の別れのようだが、たった一ヶ月、研修で離れるだけだ。電波の通じないところへ行くわけでもない、電話もメッセージも今までと代わりなくやりとりできる場所だ。今までだって毎日会っていた訳じゃないのだからさほど変わらないはずだった。
「なぁ……」
「ん?」
ネロはうつむいたまま、小さく、言いよどむ。
長く白い指がブラッドリーのコートの裾をわずかに掴んで握りしめた。
「今日……、帰りたくない……」
「でもお前、明日朝早ぇからって」
「そう、だけど、お前ん家にも着替えあるし、早く起きればそんなん距離変わんねぇし……」
のぞく耳を赤く染めながら、ぼそぼそと続く言葉は、滅多に欲を口にしないネロの、まだ一緒にいたいという小さなわがままだ。
「別に、俺が寂しいわけじゃないし、お前が迷惑なら帰るけど……」
「迷惑なわけあるかよ」
「ぉわ」
既にマイナスへ入って行きそうな思考にストップをかけると、ネロの首に腕を回して肩を組む格好になった。人目を極端に気にするネロにもこのくらいなら許される範囲だろう。そのまま離せと文句を言う男の耳元へ、小さく囁く。
「滅多に聞けねぇ可愛い恋人様のわがままだからな」
「っ!」
一気に大人しくなったネロの頭を乱暴にかき回すと、裾を掴んだままだった手を絡め取って歩きだす。
デートは続行だ。案外さみしがりなネロが、少しだけ素直に言えた分、恥ずかしがってもいやがっても、一ヶ月分、思いっきり甘やかしてやると決めた。
手はふりほどかれることなく、コートのポケットの中で強く握られた。
終