海底ランデブー「あーしたーはーまべーをーさぁまーよえーばー」
浜辺へと続く防波堤の階段を童謡を口ずさみつつも足取り軽く登っていく。この浜辺は幼少時のお決まりの散歩道で、だからか成人した今でもこの道を通るときはついつい祖母とよく歌っていたこの童謡が口をついて出る。
夏だというのに周囲に人影はない。観光客で賑わっているのは山を回ったところにある海水浴場だ。ここは駐車場もないので、地元の人間しか来ない。その地元の人間も軒並み高齢化していてわざわざ泳ぎに来る物好きは自分一人くらいなもの。なので、気にせず口ずさんでいた。
「むーかーしのーこーとーぞしのばるるー……」
大学進学を機に一人暮らしを始めた青年――名を水木という――のもとに、梅雨が明ける頃に実家から電話が入った。なんでも鳥取で一人暮らしをしていた祖母が倒れたというのだ。幸い、すぐにご近所に気付いてもらえたそうで、命に別状はない。しかし入院が必要になり、リハビリを含めると夏の間は家が無人になりそうなので、家守りをしてもらえないかとのことだった。
祖母には可愛がってもらっていて、長期休みになるとよく遊びに行っていた。車がないと買い物にも不便するようなところだったが、海岸が近く、夏は思う存分泳ぎを楽しめた。中学校に進学してからは部活動もあり、足が遠のいていた。
家を清潔に保って、時々祖母のお見舞いに行けば十分らしい。バイト代は出るとのことだし、久々に泳ぎたいし、いわゆるリゾートバイトのようなものと思えばいいかと思い二つ返事で引き受けた。
泳ぐのは朝早くか夕方からのおよそ一時間程度。そうでないと日差しがきつすぎて体がしんどい。日よけ代わりの長袖シャツにショートパンツ型の水着を履いて、シュノーケルと水分補給用のペットボトルだけ持って出かけるのが日課だ。
波にさらわれない場所にペットボトルと履いてきたつっかけを放ると、軽く筋肉をほぐしてから海へ入る。うだるような暑さなのに、海水は冷えていて汗があっという間に引いていく。濡れた服がぺとり肌に張り付いたが、水に潜ってしまえば気にならない。シュノーケルを装着し、水木は海へ潜った。
陽光が海底の砂に模様を描いている。少し泳げば岩場もあるためか、大小さまざまな魚もいる。
(あ、またいる)
水木の視線の先には真っ黒いタツノオトシゴがいた。波に揺れる海藻につかまって、小さな背びれをぴるぴる動かして泳いでいた。警戒心が薄いのか、水木が近寄っても逃げようともしない。大きさは目測で三十センチメートルほどあるのではなかろうか。どこもかしこも真っ黒いと思っていたが、横っ腹に黄色い横筋のような模様がある。
タツノオトシゴは暖かい海に住んでいるものばかりだと思っていたから初めて見つけたときには驚いた。
ただ、ほかに仲間はいないらしい。最初のうちはよくいるな、繁殖しているのかなと思っていたが、観察するうちにその個体の左目が潰れていることに気付いた。それから気にしてみるようにしたら、いつも左目が潰れている個体しか見かけないので、同じ個体だと判断したのだ。
怪我をしているくらいだから天敵がいるのではないか。そんなに見つけやすいところにいて大丈夫なのだろうか。なんだかやけに気になってしまって、このタツノオトシゴの生存確認のために海に日参するようになってしまったというわけだ。
とはいえ野生生物であるし、捕獲したいわけでもないし、とりあえず生きていることを確認できれば満足なので、特に近づくようなことはしなかった。逃げられても悲しいし。
とはいえここまで通って逃げるそぶりも見えないとなると、もうちょっと構ってみたくなるものが人情というもの。端的にいうと触ってみたい。なんか調べたらタツノオトシゴを触れる水族館もあるらしいし、優しくタッチするくらいなら弱らせることもないのではないだろうか。
タツノオトシゴが逃げないようにそろそろと近づくが、タツノオトシゴは大人しく海藻につかまって揺られていた。むしろなんだか近寄ってきて欲しがっているような気さえする。肘を伸ばせば触れられるところまで近づいたところで、海藻を掴む尻尾をそうっとつついた。案外固く、カニの甲羅に近い感触だった。
感触がわかって満足したところで水木が手を引っ込めようとした瞬間、タツノオトシゴの尻尾が水木の人差し指に絡みついてきた。海藻と間違えてしまったのだろうか。
離れる様子もないので、好機とばかりに顔の前にタツノオトシゴを持ってきた。やはり左目は潰れているようだ。怪我の痕がないのでもしかしたら生まれつきなのかもしれない。残った右目は赤色……いや、真紅色だ。
――俺はこの瞳を知っている?
他人から聞いたならば、何を馬鹿なと一笑に伏すだろう。タツノオトシゴを見てそんな乙女のような感想を抱いたのかと。
ただ、相手はただの坂だというのに、そのはずなのに、不思議と視線が絡み合っているような気がする。目が離せなくて、動けなくて。
そのときタツノオトシゴがついと動いた。金縛りにも似た状態から我に返り、逃げてしまうのだろうかと少し残念に思った。
だが違った。逃げるかと思ったタツノオトシゴは、瞬きの間に水木の眼前に迫っていた。ぶつかってしまうと、目をつむりそうになったその時、水木の唇につんとした感触が当たった。
――ぼふん!
効果音がついたならばきっとそんな音だったに違いない。目の前が急に泡立ったかと思うと、ぬっと白い手が泡の中から出てきた。
(えっ)
泡の幕が途切れた先には若い男がいた。白い頭髪に、抜けるような白い肌で、血色感がなく生きている感じがしない。ただ揺蕩う髪の下、右目はぱっちり開いているのに、左目は瞑ったままだった。いや、左目は潰れているようだった。
あのタツノオトシゴだ。後から振り返っても不思議な話だが、なぜか直感的にそう理解した。
同時に水木の口から大量の空気が抜けた。驚きのあまり咥えていたシュノーケルが外れてしまったらしい。海水を吸い込んでしまって、息苦しさに手足を掻いて水面に上がろうとしたときだった。
頬を挟まれ、口が何か柔らかいものでふさがれた。目の前にはゆらゆら揺れる白髪と伏せられた瞼が目いっぱいに映っていた。
(あ、眉毛もまつ毛も白いのか)
あまりに現実感がなさすぎて、目の前の光景しか処理できていなかったが、キスをされていることに気付いたのは送り込まれた空気で肺が膨らんだからだ。
「――ぶはあっ!」
水面に浮かび上がってげほげほ咳き込む。くそう、鼻にまで水が入った。ツンとして痛い。
「あの、大丈夫ですか」
痛みに滲む涙を親指で拭いながら声をした方に顔を向ける。するとさっきの男が水木を抱きかかえるように浮いていた。
夢でも幻でもなく現実だと気づくや否や、水木は慌てて男を押しのけようと腕を突っ張ったが、「危ないですヨ」と難なく抑え込まれるてしまう。なんだこいつ、怪力すぎやしないか。
「あ、あんた一体何者なんだ。いや、それはいいから早く離してくれ」
「嫌です」
水木は思わず絶句した。嫌ってなんだよ嫌って。
「僕は田中ゲタ吉ってモンです。故あってタツノオトシゴに身をやつす羽目になりましたが、あなたのお陰で元の姿に戻れました。いやはや幸甚の至りってこういうことを言うんですネ」
「は、はあ?」
「つきましては、交際を前提に結婚してください」
ちう。口を吸われた水木は限界に達した。有体にいうと気絶したのだった。
これから自分の身に降りかかる、波乱万丈奇々怪々奇想天外吃驚仰天の恋愛騒動が始まるとも知らずに。