ジャズパロ 木漏れ日が心地よい、初夏の季節だった。
公園のような広場に作られた小さなステージで、制服を着た三人の学生たちが音楽を奏でる。さすがに中学生ではないだろうから、きっと当時の俺と同じ、高校生であったはずだ。そこそこ集まった人だかりから上がる手拍子に合わせて紡がれる、小気味良いアップテンポな曲。その中、俺の視線は引き寄せられるように、ただ一箇所から動かすことができないでいた。
エレクトーンの上を滑っていく細長い指先。伏し目がちな瞳。染めたこともないであろう真っ黒い髪は、着ている制服と相まって、まるでモノクロフィルムのように視界へと映り込む。
あぁ、でも、わずかに覗き見える瞳の色は、どこか薄いような、黒とはまた違う色をしているようであった。睫毛が影になって見えないその色だけが、モノクロの中でやけに鮮やかに映るようで。
あれははたして何色だったのだろうか。その答えは見つからないまま、気がつけば俺もまた、そいつと同じように鍵盤を叩き続けていた。
それはさながら、フルオーケストラのコンサートのようであった。
もちろんここはコンサートホールなんかじゃないし、キャパだってこれ、多分百かそこらくらいしかいないだろうと思う。もっと言ってしまえば俺はオケコンなんて聞きに行ったことすらないから、これは完全なる想像の産物である。
だけど、そう。例えば真上から降ってくる照明の明るさだとか、熱さだとか。弾いた音がスピーカーを通して耳の中で反響する感覚だとか。普段弾いてるものより何倍と値段がするのであろう、ヤマハのグランドピアノだとか。それらの環境が全部、映画の中で見たような豪華絢爛なコンサートそのもののように思えて、ふとそんな例えが思い浮かんでしまったのだ。
奏でた最後の一音はわずかに震えていた。バレないように鍵盤から指を離したけれど、きっと耳の良い奴なら気がついただろう。現に、視界の端に映る傑の表情は面白いぐらいに笑みを浮かべていた。畜生、今日は反省会コースだな、きっと。
ただ、傑のその顔を見て、ようやく俺は全身に入っていた力を抜くことができた。震えていた指先も、しっかりと自分の意思で握り、動かすことができる。らしくもなく緊張していたらしい自分に苦笑をしながらも、俺は椅子から腰を上げ、ピアノの前で真っ直ぐに立つ。そのまま小さく頭を下げると、ワッと上がる拍手に全身が包まれていった。
始めたきっかけはまごうことなき下心だった。あの日見かけたピアニストに一目惚れして、同じ場所に立ってみたい、欲を言えば近づきたい、そんな思いのままに傑と硝子を巻き込んで始めた音楽活動だ。
それは今でも変わらないし、なんならあいつを探すために地方のフェスにも顔出さないかなんて提案するぐらいガッツリ下心は続いているけれど。でも今、この瞬間だけは、あの時見たピアニストの顔がぼやけてしまうくらい、このステージの余韻に思考が満たされていた。
自分の弾いた一音一音が、二人の奏でるベース音に合わさって空間中に響き渡る。もし音が目に見えるのなら、きっとこの部屋はいっぱいの四分音符と休符に埋め尽くされているだろう。なんてことのない、普段からよく練習して、他のステージでも演奏してきた馴染み深い曲だった。そのはずなのに、今の俺はこんなにも高揚感に満たされている。
あぁ、そっか。
俺、ピアノ好きだな。
まるで子供みたいな、単純な気づき。単純で、だからこそ変わることのない事実。そこに気がつくのに、こんなに時間がかかってしまった。
あぁ、そうだ。袖にはけたら真っ先に二人に伝えよう。俺、ピアノが好きだって。変な顔をされるだろうか、それとも呆れ顔だろうか。浮かんでくる表情はどれもやれやれと言った声が聞こえてくるようで、だけどその後できっと笑ってくれる。笑いながら、このステージに戻ってくるのだ。
あぁ、早く。はやくまた弾きたい。早く舞台袖へとはけてアンコールの準備をしよう。一気に逸る鼓動に促されるまま、俺は勢いよく下げた頭を持ち上げ、爪先を舞台袖へと滑らせる。そのまま体は真っ直ぐ、袖へと向かって歩みを進める──はずだった。
「……は」
顔を上げた直後、偶然向けた視線の先。客席のちょうど真ん中か、少し後ろあたりの席に座る青年の姿がパッと視界に入った。パシャリ、と、まるでカメラのシャッターを切ったかのような音が鼓膜の内側で鳴り響く。
たったその一瞬で、俺の世界が息を止めた。全てが止まり、音も消え、先ほどまで感じていた高揚感だって消えていく。ただ、視界に映るその人だけが鮮やかに脳内へと焼き付いた。
「え?」
「あっ」
後ろから聞こえてくる二人の声で、ようやく俺の聴覚が元に戻っていく。戻ると同時に、大きなざわめきと戸惑いの声が一気に俺へと襲いかかってきた。そりゃそうだろう、ステージから突然演奏者が飛び降りてきたのだ。楽器の持てないピアニストが突然謎の行動に出たのだから、ざわつくのも当然である。
だけどそんなこと、知ったこっちゃない。俺の視線は一箇所から決してブレることなく、ただ真っ直ぐにそこへと向かって足を動かす。客席の合間を縫って必死に小走りして、そんな俺の視線の先で、その人は拍手しかけた手をその場で止めたまま、どこか驚いたように目を見開いていた。あぁ、そのまま動くな。逃げてくれるな。ようやく見つけたんだ。
──彼だ。
「っ、え?」
目の前にたどり着いた俺の右手は、無意識にそいつの手首を掴んでいた。急いだせいで息が上がり、肩が上下する。戸惑ったような声が上がるのを認識しつつも、俺の意識はその指先から逸れることがない。
あの日見た、鍵盤の上を器用に滑る細長い指先が思い出される。
日差しを受けて白く輝いていたその指先が、今、目の前にあった。
「え? あ、ちょっ……」
掴んだ手首をそのまま引っ張ると、彼の体は面白いほど簡単に椅子から持ち上がった。よろめくようにして立つそいつが真正面に来て、そこでようやく俺はその顔を視界に映すことができる。
深く色づいた、エメラルドグリーン。
ずっと知りたかった答えが、ようやく見つかった。
「なぁ、これって運命だよな」
「……は? いや、いきなり何──っは え」
紡がれた声音は想像していたものよりも低かった。想像してたってなんだよ、乙女か。そんなツッコミが自分の中でやってくるけど、今はそれすら笑えてしまいそうだ。
掴んだ手首を引っ張って出口まで歩こうとする俺に、そいつはただ混乱の声を上げてくる。
なに。どうして。説明しろ。
うるさい、そんなの俺が知るか。だってようやく見つけたのだ。出会ったのだ。俺も、こいつも!
「そんなの、弾くに決まってんだろ!」
だから絶対に、この運命を離すまいと、俺は掴む手に力を込めた。