蜜月予行練習・番外編 コーヒーハウスを出ると、西の空ではオレンジを溶かしたような陽が傾き始めていた。
そろそろホテルへ戻る時間だ。
大通りに向かって歩道を数メートル進んだところで、俺は隣を歩くミオリネの歩き方がぎこちないことに気がついた。たくさん歩いたので疲れたのかなと思ったけれど、どうやらそうではないようだ。ひょこひょこと左足をかばうような歩き方が気にかかり、歩みを止める。
「な、何よ、急に立ち止まらないでよ」
「ごめん。――ね、ミオリネ。ちょっと足を見せて」
「え」
歩道の端へ寄り、俺はミオリネの足もとに膝をついた。不思議の国のアリスが履いているようなエナメル素材のストラップシューズは髪飾りのリボンとおそろいの黒色で、のぞき込む俺の輪郭を表面に映し出すほど滑らかだ。
「やっぱり」
「やっぱりって何よ」
「靴擦れしてるよね」
「あ……」
図星だったのだろう、ミオリネは頬を強ばらせた。
「とりあえず靴を脱ごうか」
近くの縁石にタオルハンカチを敷き、座ってと促す。
「シャディクのハンカチ、汚れちゃうわ」
わたしの足なんてどうだっていいのよと、ミオリネは首を縦に振ろうとしなかったけれど、
「どうでもいいことなんかじゃないよ。ハンカチは汚れたら洗えばいいんだし、俺にはハンカチよりも君の足の方がずっと大事だ。ほら、座って」
諭すように、ミオリネをタオルハンカチの上に座らせる。
「触るよ」
ミオリネが頷くのを確認してから俺は彼女の左足に手を添え、ストラップのボタンを外した。なるべく刺激を与えないように注意しながら靴、靴下と続けて脱がす。
「……っ!」
ミオリネが唇を噛みしめる。あらわになったつま先が震える。
「ひどいな……」
お人形みたいに小さな足の甲とかかとが真っ赤になっていた。血こそ出てはいないものの、かたいもので擦ったような痕が痛々しい。
大変、すぐに車を手配しますねと、付き添いのひとがスマホ片手に大通りの方へ駆けていくのを横目で見送って、俺はミオリネに向き直った。
「痛いのを我慢していたのかい?」
「そんなんじゃないわ」眉を下げて、ミオリネがかぶりを振る。「痛いなって思ったのはお店を出てからよ。ついさっきよ。美術館でも平気だったし、さっきまでちっとも痛くなかったわ。本当よ」
少なくとも半分は本当じゃないな。擦れたところを見た感じだと、どんなに遅くても美術館を出る段階で痛みがあったはずだ。
「責めているわけじゃないんだ。そう思わせてしまったのならごめん。もっと早く気づいてあげられたらよかったね」
「そんな……。あんたのせいじゃないわ。確かに赤くなってるけど、新幹線もお昼ごはんも美術館もタルトタタンを食べているときも、すごくすごく楽しかったから、痛いなんて思わなかったの」
楽しいことに集中しているときは、痛みの感覚が鈍くなるって何かで読んだことがある。足の痛みを忘れてしまうほどミオリネはこの旅行を楽しんでいたのだろう。だから――
「嘘だなんて思っていないよ」
俺はただ、朝からずっと一緒にいたのに、君の不調にまったく気づかなかった自分に腹を立てているだけだよ(君との旅行にそれだけ浮かれていたってことに他ならないけど、意識から抜けていたことに変わりはない)。
「新しい靴を履いてきたんだね」
「うん……」
「旅に出るときは新しい靴よりも慣れた靴の方がいいそうだよ」
ああ、もっと早くにアドバイスできていたら……と、俺は唇を噛んだ。そうしていたら、君が靴擦れを起こすのを防げたかもしれない。
ふいにミオリネが、膝の上で拳を握りしめた。
「ダメ」
「え?」
「歩きやすくても慣れていても、いつもの靴じゃ、ダメなの」
俺は首を傾げる。「どうしていつもの靴じゃダメなんだい?」
「だって……」
ミオリネがくしゃっと顔を歪ませる。大きな目の縁にぷくりと盛り上がった涙が大粒の雫になってぽろぽろこぼれ落ちた。
「だって……、今日、は……あんたと……シャディクと一緒の旅行だから……、おしゃれしたかったの……」
ひっくとしゃくりあげながら両手で目を擦るミオリネを前に、俺はしばし言葉を失った。
俺と一緒の旅行だからおしゃれしたいと思った――それはつまり、俺に可愛いと思ってほしかったということだろうか。そんなふうに考えるのは思い上がった行為だろうか。
「ミオリネ……」
心臓がぎゅっと絞られる。
泉のように想いがあふれる。
思わず弛んでしまいそうになる口もとを、そんな場合じゃないと、どうにか引き締める。
ミオリネの隣に腰を下ろすと、俺はそっと腕を伸ばし、ミオリネの震える肩を抱き寄せた。
「ごめん。泣かないで。君の気持ちも考えないで無神経なことを言ってしまったね」
「ふゅ……」
風が出てきた。自分のパーカーを脱ぎ、ミオリネの肩に掛ける。
ミオリネの涙が落ち着くのを待って、俺はゆっくり口を開いた。
「ね、ミオリネ。朝からずっと言いたかったことを言ってもいいかい?」
「なによ……」
「水色のワンピース、君によく似合っているよ。すごく可愛い」
ミオリネが顔を上げる。涙で潤んだ目で俺を見つめる。彼女の色素の薄い瞳に映り込む俺の顔は、自分でも驚いてしまうほどすっかり弛緩していた。
「ほんとう?」
「うん。不思議の国のアリスみたいだなって思った。可愛くてドキドキした。ていうか、いまでもドキドキしているよ」
「……おそい」
拗ねた目で俺をにらみつけたのも束の間、ミオリネはすぐに顔をぐしゃぐしゃにした。
「そういうことは、朝いちばんに会ったときに言いなさいよぉ……」
もう一度「遅いのよぉ」とつぶやくと、ミオリネは泣き笑いの顔で俺の胸にすがりついた。
「ほんとうだ。ドキドキって。ふふっ。シャディクの心臓の音、すごくはやいわ」
俺の左胸に耳を当てて、のどを鳴らす子猫みたいにうっとり目を閉じる君が可愛い。
と、少し離れた場所から自分の名前を呼ばれた気がした。声がした方へ視線を向けると、数十メートル先、横断歩道の手前で付き添いのひとが「あちらへ車を回しています」とでもいうふうに両手を振っているのが見えた。
「車の準備ができたみたいだよ」
言うが早いか、俺はミオリネを背負い上げた。ついでに靴と靴下とタオルハンカチを回収する。
「ひゃっ!」俺の背中でミオリネが小さな悲鳴を上げる。「お、おろして! ひとりで歩けるわっ」
「その足で? 無理すると傷が悪化して、明日は外出禁止にされちゃうかもしれないよ。へたすりゃ帰宅時間までずっとホテルの部屋で療養だ。そんなの、つまらないだろ。俺は……」
こんなときにこういう言い方をするのは卑怯かもしれない。だけど、正真正銘俺の本音なのだから仕方ない。
割合にすると九対一の自覚と自嘲を込めて、俺は言葉を継いだ。
「俺は明日も君と一緒に京都観光したいけどな。ミオリネは違うの?」
「違わないっ!」
俺の背中でミオリネがぶんぶん首を横に振る気配を感じた。
「わたしもシャディクと一緒に観光したいわ。明日もシャディクと一緒においしいものを食べるの! お土産も見るの!」
「抹茶パフェとか豆大福とか?」
「そうよ。虹色のゼリーも金平糖も縁結びのお守りもオオサンショウウオのぬいぐるみもよ」
ミオリネが声をはずませる。可愛いなあ。俺はくすっと笑う。
「じゃあ、いまはおとなしく俺に背負われてほしいな。君が痛いままなのは俺も嫌だし」
「うん。もう『おろして』なんて言わないわ」
「ホテルへ戻ったら、ちゃんと手当てしてもらおうね」
「分かった。……ね、シャディク」
「ん?」
「おんぶもパーカーもありがと……。あんたの背中、あったかくて安心するわ。――すきよ」
くすぐったそうな、だけど、心のこもったミオリネの声に、俺の胸も熱くなる。
「それは光栄だ」
歩道の先で、付き添いのひとが遠目でも分かるほどやきもきしながら手を振っている。これ以上待たせたら、さすがに悪いよね。
「そろそろいこうか」
「うん」
「しっかりつかまってね」
「こう?」
「そう。ぎゅうって」
「わたし、重くない?」
「ちっとも。羽根が生えてるみたいに軽いよ」
いまの言葉は半分本心で、半分本心じゃない。
なぜなら俺は、君を――ミオリネ・レンブランという人間の存在を、『軽い』という言葉で括りたくないからだ。
ねえ、ミオリネ。
もしも幸福に質量があるとしたら、君の体重とぴたりと一致するだろう。
もしも幸福に温度があるとしたら、君の体温とぴたりと一致するだろう。
俺はそう思うんだ。
俺はいま、誰とも分かち合いたくない『幸福』を――独り占めしたい俺の『幸福』を自分の背中に背負っているんだ。
「明日も晴れるといいね」
「晴れるに決まってるわ」
上機嫌にミオリネが答える。明日は快晴に違いない。
ミオリネが好きだと言ってくれた背中に、心地よい重みと熱を伴う彼女の存在を感じながら、いまも明日もその先も続く幸せな時間に向かって、俺は一歩を踏み出した。