① 微睡みながら視界の端から端を瞬く間に走り去っていく景色を眺めていれば、汽笛の音で目が覚めた。途中で脱いだ外套を傍に抱え長時間揺さぶられた為に悲鳴を上げている腰を宥めながら降車する。重いトランクがさらに腰を虐める。これでも減らした方なのだ。改札を過ぎればもう何度見たか判らない町並みが広がっていた。
駅があるくらいだから本当に何もないと云う訳ではないけれど、それでも辺鄙なところだ。目印になる様な建物があるわけでもなく初めてこの土地に足を訪れた時は大層迷ったものだ。けれど、邸宅から行き来する回数が百を過ぎる頃には景色の変化を楽しむ程の余裕が生まれた。
けたたましく鳴く蝉が気温を一層上げているようだった。煌々と照りつける日差しが、後ろへ撫で付けた髪を湿らせる。それでも自らの足で向かうのは愛しい男が終の住処としたこの場所を、光景を何より自分が感じたかったからだった。道のりは長い。途中茶屋などに立ち寄って、いくばかの休息を挟めば目的地はもうすぐそこだった。
こじんまりとした家屋。おおいと一声掛けるが返事がない。月島ぁ?裏庭の方へ周れば私が寄越した座椅子でうたた寝をしている月島がいた。嬉しくなって荷物を放って駆け寄る。足元には読みかけであろう文庫本が落ちている。それを拾ってやり月島を注視する。殆ど白くなってしまった坊主頭や目尻に寄せられる皺がこの男が老いたことを物語る。じんわりと汗ばむ季節だと云うのに肌襦袢を着た月島を見ると酷く苦しくなった。最近は耳も遠くなった様に思う。
こちらの気持ちも知らず、すやすや寝息を立て穏やかに眠る月島に腹が立つやら愛おしくなるやらで、少しかさつく頬をつねってやればやっと瞼を開いた。
「随分と寝坊助になったな。鬼軍曹も形なしだ。」
「鯉登さん、いらしてたんですね。お構いも出来ずすみせん。」
慌てて立ちあがろうとする月島を制止する。
「いい、いい。そう云うのは。連絡なしに突然来た私が不作法だった。すまん。それより土産を沢山持ってきた。一緒に食べよう。」
縁側から家に上がっても何も言われなくなったのはいつからだろう。家族として認められている様で、とても嬉しい。久方ぶりの畳の匂いを肺に溜め込めば、やっとこの場所にいる実感が湧くのだった。
「西瓜を冷やしておいたのでこれも一緒に食べましょう。今年のは中々良い具合です。」
そう云って毎年食べる少し瓜臭さの残った甘い月島の西瓜が好きだ。この男は農家にでもなるつもりなのか、と思えてしまう程に家庭菜園に打ち込んでいる。最初こそ庭の一角に収まっていた畑も今ではその大部分を陣取っていた。角ついた月島の字で野菜の名前が書かれた札が五、六個刺さっている。中には私が昨年贈った種で出来たものも。水出しされた茶を碗啜りながら外を眺めつつ軽い近況報告をする。
「月島は大事ないか?」
「はい。そういうあなたは……。変わらずお元気そうで何よりです。」
「勿論。退役こそすれ、そこらの若僧にも劣らん気概だ。困ったことがあればなんでも云え!」
扇風機のボタンを押すと少しぎこちない動きを見せながら、風が髪を撫でる。ちりんとなった風鈴がより一層涼しげで。体裁など気にせず西瓜に齧り付いた。
「それより月島、この暑い季節に肌襦袢なぞいらんだろうに。」
「そうですね。」
寂しげな声色を聞き発言を後悔する。ずっと生きて欲しいとどうしようもなく願ってしまう自分の我儘だった。改めて月島を見れば姿勢の良さは変わらずとも布の合間から覗く手足の細さや体温調節のままならない様子を目の当たりにしてしまうと心臓がギュッと苦しくなって、思わず抱きついた。体重をかけてもぶれぬ体幹の良さ、温もりや鼓動に安堵する。けれど同時に感じる、かつての男の体よりも明らかに薄い体躯。何も言えなくなってしまう代わりにきつくきつく抱きしめる。そうすると「加減してください。」と赤子をあやす様に背中を叩かれた。
「もっと飯を食べてくれ。これ以上おはんを抱きしめっ腕が余ってしもてはかなわん。」
「はい。」
「そろそろうちに越してけ。わいが知らん間にけしまれて(死んで)しもうては悔しゅうてたまらん。なあ月島。」
「……。今際を悟った時は必ず、一番に知らせますから。」
昔から頑固な男だった。
「本当か。」
「本当です。」
肩口に顔を埋める。背中に熱を感じたので抱き返されているのだと知った。包まれた時の、絶対的な安心感は変わらない。
こうして会いにいく度に湿っぽい話をしてしまうのは自分もまた、老いたせいかもしれない。
あと何度同じ季節を過ごせるか分からない。不安は燻り続けるだろう。けれど今はただ、月島の腕の中で新品将校の頃に戻るだけだった。