三十九度の、とろけそうな日高専の敷地内にある、二十五メートルのプール。
それの惨状を見て、白色のTシャツに短パン姿でプール掃除にやってきた傑は呆然と立ち尽くした。
「これ、業者呼ぶレベルだろ…。」
彼女が思わずそうこぼした通りに、一年近く使用されていなかったプールは随分な有り様だった。
七分目ほどまで溜まった水は苔のような藻のようなものが繁殖して緑色に濁り、その水面には大小を問わず虫の死骸がいくつも浮いている。底にどんなものが沈んでいるかなど、考えたくもなかった。
現在の時刻は朝七時であったが、今日の東京の予想最高気温は三十九°C。既に太陽はギラギラと輝き、地上のあらゆるものを射殺さんばかりに照りつけている。
傑は目眩がしそうな心地だった。
傑がプール掃除を言い付けられた原因は、昨日の悟との喧嘩であった。特級の二人が互いに本気を出し、グラウンドに大きな穴を空けて校舎の一部を壊してしまった。その懲罰である。
半分責任がある悟も、当然一緒に罰を受けねばならないのだが、あのお坊ちゃんはここには来ていなかった。彼は傑のことを「親友!」と言って憚らないくせにこれだ。すっぽかされて少し寂しい気持ちになったのを、傑は認めたくはなかった。
「やっぱりサボりか…。しょうのない奴。」
溜め息を一つ吐いてから、傑はおぞましいプールと対峙した。文句を言うより、さっさと始めてしまった方がいい。
まず最初に、全身が目玉だらけの蛸のような呪霊を呼び出した。生きている蛸よりもぶにょぶにょとしているそれに、プールの栓を抜くように指示をする。それから大きな芋虫型の呪霊を出現させて、プール内のゴミや異物を飲み込んでもらった。
「掃除機みたいなことをさせて悪いね。」
傑がそう言って体を撫でてやると、彼女が『クソデカニャッキ』と名付けている青緑色の芋虫は「ギ…!」と返事をした。クレイアニメの芋虫と違って顔らしい顔がないので表情は分からないが、まんざらでもなさそうである。
そして水かさが膝下くらいにまで下がるのを待ってから、小さな羽が生えた黄色い呪霊を数体呼び出した。小型犬くらいの大きさでチューチューと鳴いているそれに、傑は笑顔でデッキブラシを渡す。彼らにプールの底を磨くのを手伝ってもらう算段であった。
「よろしくね。」
呪霊を飲み込むのはとても辛いし、自分の術式が呪霊操術で良かったと思うことなどはほとんどない。けれども、こういうときは便利でいい。同級生の男子は「雑魚なんていらなくね?」と馬鹿にするが、低級呪霊にだって使い道があるのだ。勤勉な労働力として。
「おっ、もう水抜いてあんじゃん!すげぇな!」
そこへ、例の同級生がやってきた。
サングラスをかけた彼は無地の動きやすそうなTシャツにハーフパンツを着用していて、一応はやる気があるように見える。しかし、遅刻したことに対する反省はなさそうであった。
「あ、来たんだ。てっきりサボりかと思ってた。」
汗を拭った傑がそう言うと、悟は「お前俺のこと何だと思ってんだよ」と分かりやすく唇を尖らせた。
「ワガママボン」と言いたいのを飲み込んで、傑は「不真面目なクラスメイトかな」と言って悟にもデッキブラシを渡した。
「私はホースを取ってくるからさ。悟もプールに下りて、あの子達と一緒に底を磨いてて。」
へいへい、と返事をしながら悟がプールの方を見ると、『あの子達』と呼ばれた黄色い呪霊達が小さな手でせっせとデッキブラシを動かしていた。そしてその数メートル先では、何度か見たことのあるクソデカニャッキが底にこびりついた藻だか苔だかをもぐもぐ食べている。
(呪霊操術って何でもできるんだな…。)
そう感心したが、口には出さない。
傑の才能もセンスも認めているし、それに驕らない清らかな精神も陰で努力している姿も知っている。彼女が強いのは、分かり切っていることだった。
「よし、あった。」
傑は雑然とした倉庫の中から青色の長いホースを見つけ出し、抱えて出てきた。それを手際良く古びた蛇口に繋ぐと、思い切りハンドルを捻って全開にする。途端に、ホースは大蛇の如く暴れ出した。
「あははっ!」
傑は楽しそうに笑いながら、びしょ濡れになるのも厭わず大蛇を捕まえた。そして右手でホースを掴み直すと、「それ!」と何の躊躇いもなく悟めがけて水をぶちまけた。
虚を突かれた悟は無下限のバリアも間に合わず、頭からずぶ濡れになってしまったのだった。
「てっめ!傑っ!!」
「遅刻した罰だよ!」
「暑いからちょうどいいだろ」と舌を出した傑は、水が滴るTシャツをばっと脱いだ。悟は「お、おい!」と慌てたような声を出したが、その下から飛び出してきたものは若く瑞々しい裸体……などではなく。
水色の生地に鮮やかな緑色の葉と、黄色のハイビスカスが描かれたホルターネックのビキニであった。
南国を閉じ込めたような柄の水着は、健康的でグラマーな傑によく似合っていた。
突如として現れたEカップのバストに釘付けになっている悟を他所に、傑は手早く短パンも脱ぎ捨てる。
「こんなこともあろうかと下に着込んできたんだ。去年買ったけど着れなかったやつ。」
悟は「へぇ…」と曖昧に頷き、サングラスの下に隠れている美しい蒼色の瞳をかっ開いて傑の全身を舐めるように見つめた。「六眼でどうにか水着を透かせないか?」などと考えながら。
その熱っぽい視線を体の上から下まで浴びる傑は、どうにも悪くない気分であった。
「もっと近くで見てもいいんだよ?」
ちょっぴりだけ恥ずかしいと感じる気持ちを押し殺して、傑はプールに下りて悟に近付いた。
マシュマロのようなおっぱいとむちむちの太ももが間近に迫ってきて、悟は声にならない悲鳴を上げてビャッと猫のように後ろに飛び退いた。
「うわっ!?」
しかし着地した瞬間、除去し切れていなかった底のぬめりで悟がバランスを崩してしまったのだった。
「悟っ!!」
傑は彼に両手を伸ばしたが、悟の体を支え切ることはできずに一緒に倒れてしまう。
咄嗟にふよふよと浮かぶマンタのような呪霊を呼び出し、悟が頭や体を打たないようにそれで受け止めた。その弾みで悟のサングラスが外れ、プールの底に落ちてカツンと音がした。
呪霊のお陰で二人共無事であったが、その上に抱き合ったまま倒れ込む格好になり悟と傑の間には妙な空気が流れた。
Tシャツや水着越しとは言え、傑の濡れた柔らかい胸が自分の胸板とくっついて形を変えている。転んだときに絡まった足もそのままだ。
その事実に、悟の脳細胞は活発に動くのをやめてしまったのだった。「憎からず思っている同級生を離すな」と、そう命令を下すのみであった。
密着し無言で見つめ合っている二人を、デッキブラシを手にした黄色い呪霊達が取り囲む。そして「チュー?」「チュウ?」「チューチュー?」といつもと違うイントネーションで鳴き、そのうちの一体が「チュ〜ウ!」と言って傑の頭を押した。
すると、
「「んっ!?」」
たやすく二人の唇と唇がくっつく。
それを見た呪霊達は、一斉に「チュ〜♡」と嬉しそうに鳴き、デッキブラシを放り出して傑と悟の頭部や肩をぐいぐい押し付け合ったのだった。「もっとチューしろ!」と言わんばかりの行動である。もちろん主である傑は、そんな命令などしていない。
どうやら彼女の呪霊達も、くっつきそうでくっつかない二人にヤキモキしていたらしい。のろのろとやってきた半透明の蛸型の呪霊も、悟と傑の体が離れないように彼らに絡みついた。
呪霊に取り囲まれるようにしてその身を重ね、深く口付け合う男女の姿は非常に淫靡で官能的であった。
「…っ、やめろっ!」
先に呪霊達を払い除けたのは傑であった。マンタ型の呪霊から飛び降り、唾液で濡れた唇を手の甲で拭う。
その顔は、熱中症になったのかと思うほどに真っ赤であった。
「ごめん、悟…。わ、私、こんな……っ。」
今もマンタもどきの上から降りてこれない悟の方を見ると、彼も傑と同じくらいに顔を赤くしていた。悟は色が白いので、耳まで真っ赤になっているのがよく分かった。
「…あ、いや、俺こそ……。その…悪かった……。」
またしても何とも言えない空気が二人を包む。
次に行動を起こしたのは、地上五十センチほどを浮かんでいるマンタであった。彼(?)は体を反らせて背中に乗っている悟を無理やり立ち上がらせると、その背をどんと押した。
「おわっ!」
突き飛ばされてたたらを踏んだ悟は、その勢いのまま傑にぶつかるようにして抱きついた。
「さ、悟っ!?ちょっと、離して…っ!」
腕の中で傑は抗議の声を上げたが、悟に彼女を解放するつもりはなかった。これ以上呪霊に世話を焼かれるのは情けない。
傑の潤んだ瞳をじっと見つめる。
「あ、あのさ……。俺、お前のことすごい奴だとずっと思ってて…。呪霊操術なんて珍しい術式を完璧に使いこなしてる上に呪力なしの殴り合いでもめっちゃ強ぇし…。てか、体術だけの勝負なら俺が負けるかも知んないしさ。なのに偉ぶらずに補助監督とか非術師とかにも優しいし…。えぇっと…何つーか……その、尊敬、してる。そ、それから…っ、お前と一緒にいるとすっげー楽しい!」
悟は恥ずかしくて仕方がなかったが、言葉を尽くして傑に好意を伝えた。
「今まで俺についてこれる奴なんて一人もいなかった。お前が一緒だと息がしやすくて、すごく楽なんだ。ずっと側にいたいと思う。お前が俺以外の奴と楽しそうにしてるとイライラムカムカして、悲しい気持ちになるよ。」
そう言って一呼吸分だけ黙ってから、悟はこつ、と軽く額同士をぶつけた。
「これって、お前が好きってことなんだと思う。傑は、俺のこと……好き?」
悟の一世一代の告白に、傑は数回瞬きをしてからゆっくりと頷いた。
二人とも、泣きそうな気持ちだった。
「へへ、嬉しい。」
「…うん、私も。」
悟は傑の桜色の頬に触れると、「さっきのノーカンな」と言った。
「さっきの?」
傑がそう鸚鵡返しにして首を傾げると、悟は照れくさそうに言いにくそうに唇をむにむにと動かした。
「……さっきのキスだよ。呪霊共に無理やりさせられたからノーカン。」
今からするのが、俺達の初めてのキス。
そう言われて、傑は躊躇うことなく目を閉じた。
炎天下でぎゅっと抱き締め合い夢中でキスをする二人を、黄色い呪霊達がどこかうっとりした目で見守っていた。蛸型の呪霊も主人の恋の成就を喜んでいるのか、ダンスをするようにぬたぬたと動き回っていた。
そうして悟と傑がいちゃついている間…と言うより二人や呪霊達が騒ぎ始めた頃からずっと、クソデカニャッキだけが真面目にプール掃除に勤しんでいたのであった。お陰でプールはぴかぴかになり、様子を見にきた教師の夜蛾からも「文句なしにきれいになってるな。やればできるじゃないか」と褒められた。
あとで悟は働き者の巨大芋虫に、「呪霊に口直しとか必要なのか分かんねーけど」と甘いチョコレートアイスを買い与えたのだった。
「お前、今日のMVJ(モースト・バリュアブル・呪霊)な!」
「ギィ〜!」
恋人になったばかりの男と手持ちの呪霊が仲良くしているのを見て、傑は小さく笑った。
しかし楽しそうな悟が
(これから傑とキスやハグ以上のことをするってなったときに、またこいつら手ぇ貸してくんねぇかなぁ。特にあの蛸、エロくて良かったな…。)
などと恐ろしいことを考えているとは、彼女は知る由もなかった。