予約制なのだとの事で数日後に訪れたその店は通りを入った目立たないところにあった。どぜうの看板を掲げた店構えは質素なものでこぢんまりとしている。まるでその当たりの蕎麦屋と区別がつかず、予約が必要な店には見えなかった。
中へ入ると仲居が出迎えて奥へと案内される。
「お二階のお部屋でございます、どうぞ」
間口は狭く感じたが店内は存外に広く、奥に長い造りのようだった。客室は座敷のみのようで、廊下とを隔てる障子戸越しに酔っぱらいの笑い声が漏れ聞こえる。その中を給仕が忙しなく行き来していた。
通された部屋には既に鶴見が座っていた。
急に緊張感が増した鯉登だったが、月島もいることを認めるといくらか安堵して促されるまま鶴見の向かいへ腰を下ろした。
室内も決して派手さは無く、どちらかといえば落ち着いた地味な内装であったが、二階と言うこともあり窓の外に流れる牛朱別川からの分流を見下ろす眺望があった。
よく見れば調度品もさり気なく高級品が置かれている。なるほど、これは確かにその辺の安店とは違うのだろうと感じさせた。
「今日こうして呼んだのは他でもない。我々が夕張へ行っている間、こちらでの事はお前に任せたいのだ」
今度の夕張へは月島に加え、前山も連れて行くという。旭川のほうが手薄になる状況で、アイヌの娘や杉元という男の動向も気になる。今信頼して事を任せられるのはお前しかいないと言われて鯉登はのぼせた。
鶴見に信頼できると言われて嬉しくないはずがない。どうぞお任せくださいと勢いに任せてまくし立て、通じず慌てて月島を手招いた。
「「お任せください。もしも旭川へ杉元一味が来たならば、必ず仕留めてみせます」」
鯉登はにじり寄った月島の耳元へ、それを月島が鶴見に伝言する。今度こそ語弊なく伝わり、満足そうな顔をして鶴見に向き直たが、鯉登の思いに反して鶴見はハア、と大きなため息をついた。
「鯉登ォ、殺してしまっては意味がないだろう。アイヌの少女は生け捕りにするのだ。のっぺらぼうの娘だ、 なにか知っているかもしれん。それで無くとも奴との交渉には必要な材料になるからな」
まったく、と頭を振る鶴見に、鯉登の顔から血の気が引く。
やってしまった。鯉登は逸る気持ちを抑えきれずに先走ってしまった己の浅はかさを恥じた。すいもはん、すいもはんとその場で手を付き捲し立てるが、薩摩弁では横で静かに座っている月島にすら伝わらない。
落ち着きなさいと言われてどうにか座り直したものの、それでも鯉登はあまりの情けなさでいっぱいだった。
「果敢なのはいいが、勇み足では困る」
「……もす」
返す声も消え入りそうなか細さになる。穴があったら入りたい。
その様子にやれやれと息を吐いた鶴見はそれでも辛抱強く鯉登に言い聞かせる。
「こんなことでへこたれてもらっては困るぞ」
はっとした鯉登はその通りだと、姿勢を正した。月島のように鶴見の信望を得る為には動じない強い心を持たなければならない。
「淀川達中央の動きにも目を光らせていて欲しいんだ。できるか」
「……もす!」
鶴見の計画を嗅ぎ回っている連中がいるのだ。二人が夕張へ言っている間の鯉登の仕事はそちらが主となるだろう。こちらもまた、責任の重大な任務だ。気を引き締めなければならない。鯉登の返事に力強さが戻った。
「定期の連絡は欠かさないように。何かあればこちらからも連絡する。鯉登少尉、お前には期待している。うまくやれるな」
もちろんです、と鯉登は精一杯に応える。必ずや、鶴見中尉の思い通りに働いてみせようと心に誓った。
鶴見はいい子だと大きく一つ頷くと、さて、とおもむろに手を叩いた。
「真面目な話はここ迄だ。さあ」
それを合図に廊下に控えた中居が障子をすっと開き、食事が運ばれた。
熟練の女達が無駄のない動きでどんどん料理を配膳する。
先付から始まり串焼に揚げ物、南蛮と、あっという間に膳の上を泥鰌づくしの料理が埋めつくした。
「では、私はこれで」
女達が下がるのを見計らって月島が立ち上がったので、鯉登は思わずえっと声を上げた。
月島に出ていかれてはまた鶴見とふたりきりになってしまう。会話も通じない。まさか置いていかれるとは思っていなかった鯉登は焦った。
そもそもあれから暫く経つが、あの話はどうなったのだろうか。月島は中尉殿に絞られたのだろうか。それにしては心を改めたような様子もなく、今もでは、と言ったきり鯉登を見向きもせずに立ち去ろうとしている。
「ああ、頃合いを見て迎えをよこしてくれ」
「はい」
どうしよう。鯉登がどうすることも出来ずに二人のやり取りを眺めている間に、月島は小さく会釈して障子の向こうに消えていった。
「さあさ、鯉登。食べよう」
鯉登は喉を迫り上がってくる緊張と重圧に震えながら箸を取った。
「飲みなさい」
見れば鶴見が徳利と猪口を手に差し出してくる。
「いいから、いいから。私は飲めないのだからその分お前が飲みなさい」
まさか下戸の上官を差し置いて自分だけ酒を飲むなど以ての外と、鯉登がいいえ、私は、と言いかけたところで猪口を手に押し付けられる。そのまま注ごうとするものだから鯉登は失礼を承知で慌てて猪口に手を翳して蓋をした。
しかし鶴見は気分を害した様子もなく、むしろ鯉登の反応を面白がっているようだった。
「まあ、まあ、そう堅くなるな。最初の一杯だけだ、注がせてくれないか」
迫られて蓋をする手をするりと撫でられる。脂汗の滲む指を一本ずつ外しにかかられてとうとう鯉登の猪口に温かな酒が注がれてしまった。
こうなっては飲まないわけにもいかず、鯉登はそれをぐっと一口に煽ると、鶴見がお代わりを注ごうとするのだけはどうにか固辞した。
北海道の泥鰌は苦味が少なく脂が乗っている。春を前にしたこの時期は骨も柔らかく、特に食べやすくてうまいのだと目の前の上官は饒舌に話しながら美しい仕草で料理に舌鼓を打っている。
対して鯉登は鶴見を前にして不作法がないかと気が気ではない。緊張と酔いとで既に頭がどうにかなりそうだった。
東京以来、久々に味わう泥鰌の味わいもよくわからず、鍋が来る頃には下手な酔い方をしたのか、意識が朦朧とすらしていた。
卵でとじた出汁の中を肥った泥鰌が泳いでいる。くつくつと煮える鍋から立ち上る湯気のせいか、目が霞む。
相変わらず話仕掛ける鶴見に相槌を売っているが、何を喋っているかも曖昧だ。遂に箸を取り落とした鯉登はそれを拾おうとして体勢を崩した。
「おっと、危ない」
受け身も取れず畳に倒れ込む既のところで肩を抱きとめられる。
またあの甘い香りに包まれて、鯉登は鶴見の胸に抱き止めれている事を知る。いけない、早く退かなければ。
「どうした、鯉登酔ったのか」
おかしい。こんな量で酔うはずはなかった。そう思うのに体は鉛のように重たく、指の一つも動かすのが難しい。まるで雲に抱かれているような浮遊感があり体幹が定まらない。甘い香りも相まってふわふわとした高揚があった。
「これでは帰れないな。仕方がない。奥に部屋を用意しよう。鯉登は泊まっていきなさい」
いいえ、大丈夫です。口にしたいにうまく喋れたかも解らない。
「いいから鯉登、今日はゆっくり休みなさい。ああ、そうだ、今夜は何があっても目を覚ましてはいけないよ。いいね」
耳元へ優しく囁かれて気持ちがよく、鯉登はわけもわからずに頷いた。鶴見の長い指が前髪を緩い仕草で開く。
「明日の朝に迎えを寄越そう」
せめて立ち上がりたいのにそれも出来ない。
「彼に捉まりなさい。足元に気をつけて」
後ろから誰かが恋とを抱き上げる。鶴見の声が遠くなるに連れ鯉登は意識が遠のくのを感じた。