夜をこえて ほんとうに何てことない、普段の夜だった。
残業もそこそこで家路につくと、鯉登さんから『今日は肉じゃがだぞ!』ってラインが来て、帰宅した俺は絹さやの筋をとった。
炊きたて白飯のみずみずしい甘味。濃口しょうゆと砂糖でほっくりと煮あがった肉じゃがとの組み合わせは見事で、箸がとまらくなった。
「めちゃくちゃ旨いです。けど、またいい肉を」
「鹿児島黒牛だ!」
肉じゃがなんて、そこら辺のこまぎれ肉でいいはずなのに。だがビールをあおりながら『月島に喜んでもらいたかった』と満面の笑みを見せる鯉登さんが可愛いすぎて、言葉が出ないかわりに唇を噛みしめるより他なかった。
今日は木曜日。
明日も仕事があるから、早々に風呂を済ませて寝る。それだけのはずだった、けれど。
「なぁ、月島」
鯉登さんのいるベッドに潜り込んだ俺は、予想もしなかった問いかけををうけた。
「ここ、剃ってもいいか?」
「……は?」
いつの間にか股間に添えられている手。布地の下にある陰りが強めに圧されて少し引きつれるような感覚がする。
隣に視線を向けると、思うより近くにきれいな顔があった。暗がりで息をひそめる恋人からは、えもいわれぬ熱れを感じる。
「いいですけど、理由を聞いても?」
肩を引き寄せて胸に抱く。鯉登さんは額や鼻先をひとしきり胸もとに擦り付けてから、静かに言った。
「これはだめだ、とわかるからだ」
──だめ、とは。
疑問符のついた相槌をうてば『月島が、すきだ』と子供のような声。
「気持ちを疑うわけでも、自分に自信がないわけでもない。けど、独り占めしたい気持ちがどんどん大きくなって、これでは月島を過剰に束縛してしまいそうなわたしがいる」
片腕で腰を抱き、もう一方で乾かしたばかりの髪を梳く。シャンプーの残り香に胸のざわめきを煽られながら『それで』と、つづきをもとめた。
「それで、月島がわたし以外の人間と接するのにいちいち悋気を起こしてしまいそうだから、考えた。明確に浮気といっていいのはどこからになるだろうかと」
「──裸になるまで浮気にはならないんですか?」
つい鋭い口調になってしまったことを咄嗟に反省した。けれど顔をあげた鯉登さんの表情に溜飲がさがる。
「それは……」
確かにセックスしたら本当にアウトだろうが、俺のNGならもっと手前にある。おそらくそれはこの人もなのだろう。特徴のある両眉をぎゅっと寄せ、口ごもっているってことは。
俺はふっと息をついて、つややかな唇を啄んだ。
「わかりました。いいですよ、あなたがしたいなら」
「本当か?」
『はい』と頷いて、起きあがる。寝室にまた灯りがともり、それらしい道具がベッドシェルフから取り出された。
ボトムスに手をかけられると、あっという間にそこが明るみに晒されてしまう。いたたまれなかったが、鯉登さんの真剣さな眼差しにいくらか励まされた。
「足を床に下ろせ」
「はい」
言われた通り、タオルの敷かれたベッドのへりに腰掛けると、鯉登さんは床にぺたんと座って俺の脚をひらき、あいたスペースににじり寄ってくる。
「じっとしてろ」
「はい」
そうして小さな鋏をかまえ、腹側の毛をパツリと切りとった。
切られた裾草が傍に置いた紙の上に放たれる。
ちまちま、それを摘んでは切り離す作業が繰り返されてゆく。
この人は器用だから、身の危険は心配しなくていい。気がかりなのはゆるく兆しが見えつつある自分自身についてだ。多少反応はしても、おっ勃ててしまうまではいかないようにしなければ。
鯉登さんはあっという間に恥部を覆っていた毛をほとんど刈りとってしまった。
「どうしたものか。心もとないというか、妙な爽快感がしてきました」
「ふふ……」
すらりとした左手が竿とふぐりの付け根を開き、そこに伸びる毛も捕らえられる。これに限らずなのだが、折にふれ目にするこの人の丁寧な仕草はどうにも愛らしい。真剣だなとか、大事にされているなとか。思えば思うほど、ビキビキと血が集まりそうになる腹の下を内心で叱咤した。
「うん、短くなった」
サリサリ、肌と短い毛を撫でる指先に奥歯を噛みしめる。
「月島のがより大きく見えるな」
竿に息が吹きかけられるのにドキリとして下を向き、そして見なければ良かったと後悔した。
とろんと蕩ける上目遣い。この人の美貌に自分のモノが映り込むのは何度見ても腰にくるものがあるからだ。
鯉登さんはこちらの気も知らず、左手に泡を出して俺に塗りつけた。いつも使っているシェービングクリームの匂い。それを嗅いで、なんとなく胸に炎が灯る。蘇ったのは朝の光景だった。
洗面所で歯を磨く傍ら、髭をあたる鯉登さんを見るのがすきだった。面倒だからエステに行こうかと言うのをそれとなく留めるくらいには。
自分の肌を滑る剃刀の感触に目を向ける。刃が過ぎるたびに増えてゆく肌の色。楽しそうにすら見える、可愛いひと。やっぱり朝の俺と似た感じなのかもしれない。
「鯉登さん」
声をかけると、顔をあげずに応えがあった。
「なんだか、楽しそうですね」
「ん……」
こくん、と頷くと同時に返ってきた声は恥ずかしそうでいて、喜色がにじむようでもあった。
「月島、後ろに手をついて、もう少し奥まで見せてもらえるか?」
「え……」
眉間に皺が寄る。
『嫌です』と、思ったことが直ぐ口から出てしまっていた。
鯉登さんは黙って、俺の右膝から脚をさする。
「すぐに済ませるから」
「──はぁ」
言われた通りに腕をつき、腰を前に突き出す。想像を絶すると言っていい……羞恥が、身を襲った。
強くはないが、更にぐっと脚をひらかせようとする力に反射で抵抗してしまう。
「すみません」
「んにゃにゃ、ごめんな。抵抗があるのは分かる」
少なからずバツが悪かった。いつも遠慮なく彼の足を開いているのは自分のほうだというのに。
「いえ」
腹を決めてじわじわと足を開く。と、鯉登さんは黙って奥を指で撫で、そこにある局毛をそいでいった。
受け入れがたい体勢。全てをさらけだすかたちで文字通り一糸まとわぬ姿にされるのは、想像していたよりずっと自尊心を傷つけられる。でも、この人の前でならそれも良いと思えた。そして少しうぬぼれを与えてくれるものでもあった。
俺なんかよりずっと誇り高いこの人が、いつも耐えてくれている恥に思いを馳せずにはいられなかったからだ。
「戻っていいぞ」
「はい」
そう声をかけられて、ゆっくりと戻る。本当に短い間のことだった。
「やっぱり、大きいな」
「こんなこと……されなくったって、俺は浮気なんかしませんよ」
竿に頬擦りされて思わず背中が反った。腹に力が入っているからか、思うより声が低くなる。
「うん。したら、殺してやる」
物騒なことを言う鯉登さんをそばに降りて抱きあげる。彼の体は想像したより暖かかった。眼は明るく艶めいて、柔らかく熟れている。そういう顔をされるとしたくなって困るなと思った。
「あなたになら、それもいいですね。けど、俺の方がよっぽど嫉妬深いですよ」
ただ自分の場合、相手を殴っても、この人に手をあげるかと聞かれれば答えはノーかもしれなかった。執着してるし衝動的な自覚はあるが、心からすきな人には軟派なのだ。
「わたしも浮気などしないぞ。なんなら月島にも、させてやって、も、良い」
こちらをチラチラ見上げながら、鋏を手渡されて面くらう。じっと見つめていれば、もじ……と膝をすり合わせる様が可愛いかった。
「そうですね」
俺だけにやらせるのは悪いと思ってくれたのだろうか。そういう趣味はないが、鯉登さんが言うなら一回くらいやってみるのもいいかもしれない。
「無毛同士でセックスするのはいいらしいですから──ためしてみますか?」
「きぇ……」
自分で言い出しておきながらひどく照れ、赤く染まる頬にそっと口づける。ぐんにゃりとなる身体からボトムスを剥ぎとった。
俺は、どこにでもいる普通の男だ。特別なことなど無くていい、穏やかな日常を愛する。
そんな俺にとって鯉登さんは困った存在だ。時に不安や心労をさそう。けど、一緒にいると感動も楽しさも幸せも生きがいも、すべて倍以上になる。この人の側でなければ知る事もなかったであろう、よろこびだ。
そして今日のように、何てことない普段の夜が突然、一生忘れられない夜になったりする。
明日も明後日も、願わくはずっと、そういう夜をこの人とこえて。