はじめまして、愛しています ――視界が白く霞む。何も見えない中で、大切なものが零れ落ちていく感覚があった。
「うっ…」
「ベレス!目が覚めたのか!!」
「母上!」
目が覚めると天蓋付きの寝台が目に入る。その傍らで眼帯をつけた金髪碧眼の男と、男によく似た少年が泣きそうな目で自分を見つめていた。
「良かった…お前が無事で……」
「母上…母上……」
「ははうえ…?」
状況を理解したベレスは困惑する。枕に落ちた髪の毛を見て、自分はこんな髪の色をしていただろうかと。子供を産んだ覚えもなければ、結婚した覚えもない。
「父上、すぐにお医者様の手配を。それからセテス殿にお伝えしてきます」
「ああ、頼んだ。くれぐれも弟妹たちには悟られないようにな」
「はい!」
男のことを“父”と呼んだ少年は、急ぎ足で部屋を出ていく。すると男はその巨躯に似合わず、隻眼に涙を溜めて抱きついてきた。
「ベレスっ…!」
「…苦しいのだけれど」
「す、すまない、お前はまだ目覚めたばかりだというのに。どこか痛むところはないか?」
少年がいた時との変わりようにベレスは驚きつつ、何故この男は俗に言う恋人や夫婦のような振る舞いを自分にするのだろう、と疑問を抱く。それを思い切ってぶつけてみた。
「聞きたいのだけど」
「ん? どうした、ベレス」
「君は誰?」
それを聞いた男は顔を青くする。表情は凍りつき、目が虚ろになっていた。
「その、名前以外の記憶がないんだ。誰かと傭兵として各地を回ったことは、少しだけ覚えているのだけれど…」
「……」
「あの…君、大丈夫?」
今の自分の身に起きていることを正直に話しただけだったのだが、ベレスを見つめる男の顔色はさらに悪くなっていく。先程までとは真逆で、ベレスのほうが男を心配し始めた。
――これは、大司教兼王妃ベレス=アイスナーが記憶喪失になった、もしものお話――
「おとうちゃま…おかあちゃまは…?」
「…大丈夫だ。すぐに良くなられる」
母親の異変を感じた幼い娘を慰めるディミトリだが、その力強い言葉とは裏腹に心は妻を失う恐怖に揺れていた。
(あの時、俺が守れていれば……!)
国王と王妃として視察に訪れたアンヴァル。約十年前の戦いでは決戦の地だったその場所で、ディミトリは旧帝国の暴徒に襲われかけたのだ。
戦後にアランデル公が従えていたと発覚した、肌が異様に白く黒い装束に身を包んだ闇の魔導を得意とする者たち。学生時代に事件を起こしたソロンやクロニエと同じ力を持ち、レアやセテスが“闇に蠢く者たち”と呼ぶ連中にそっくりだった。
魔法をあまり得意としないディミトリを、ベレスが身を呈して守った。それが記憶喪失の原因で今に至る。
「おかあちゃま…ひっく」
「だいじょうぶ。お母さまはつよい人だから。きっとおもどりになられるよ」
泣きじゃくる娘を息子が抱きしめながら撫でた。それを見たディミトリはベレスに似て強い子に育ったと思う一方、自身が泣きそうになっているのを情けないと自嘲する。国王ともあろう人が、今や二児の父でもあるのに、妻の記憶が失われただけで取り乱すなど、父や歴代の国王たちに笑われてしまうだろうか。
「父上」
そんなことを思ってると、いつの間にか息子が顔を覗き込んでいた。自身の幼い頃に瓜二つだと周りから言われるその表情は、記憶を失った母への不安と心配におびえている。
「お前か。どうした」
「母上は、もとにもどられるでしょうか…」
聡い息子のことだ。母親の身に何が起きているのか、それがどれだけ重大なことなのか、おおよそは理解してしまっているのだろう。隠しても悟られてしまうし、ディミトリは正直な気持ちを吐露した。
「戻って、ほしい…な」
「きおくがもどるのは、むずかしいかもしれないと。フェリクスおじさまも、シルヴァンおじさまも言っておられました」
「魔導学院や各地の有名な魔道士たちにも協力を頼んでいるが、記憶を取り戻すどころか喪失の原因すら掴めていない」
あの闇の魔導はフォドラの人々が習得できる魔法とは性質が違い、フェルディア魔導学院の優秀な魔道士たちですら、解読するのが困難らしい。それだけ人間離れした力を持っており、ベレスが記憶を取り戻すのは奇跡が起きない限り時間がかかるだろう。
「父上…」
「すまない。お前を不安にさせてしまったな」
「いいえ、わたしならだいじょうぶです。一番ふあんなのは父上でしょうから」
まだ七歳になったばかりの息子に不安な胸中をさらけ出してしまうなど、もしベレスの記憶が戻ったら『君らしいね』と笑われてしまうかもしれない。しかし今のディミトリとって、しっかり者の息子の存在はありがたかった。
「母上の様子を見てくる。妹を頼めるか」
「はい。ドゥドゥーもいますし、父上もすこし休んでください。母上がおきるまで、ずっとねむっていないのですから…」
闇魔法を受けたベレスが目覚める前から。ディミトリは仕事を他の者に変わってもらい、ずっと彼女の傍で寝ずに待っていた。眠りに落ちれば、愛しい妻が消えてしまうような気がして。
長年、悪夢にうなされ続けているディミトリは、睡眠というものをあまり必要としていなかった。だがベレスと結婚し子どもたちも生まれ、安心感を得たことで真面目に取るようになったのだ。
しかしそれもベレスが傍にいて、優しく微笑んでくれるからである。妻であることも、大司教兼王妃だということも、あの雨の日に温かい手を差し伸べてくれたことさえも、すべて忘れている状態。ディミトリはとても眠れるような状況ではなかった。
「ああ、ありがとう。ドゥドゥー、頼んだぞ」
「はっ!」
友人でもある従者に子どもたちを任せ、ディミトリはベレスのいる部屋へと向かう。
もしかしたら追い出されるかもしれない。部屋は見張らせているが、それを強行突破して逃げ出してしまうかもしれない。不安で胸が押し潰されそうになって、ベレスのもとへ向かう足は自然と速くなる。
「ベレス…」
愛する妻が無事に生きているというのに、記憶がないだけでこんなにも苦しい。
「飛竜の節、二十七日。鷲獅子戦を終えた後、皆と検討を讃え合う中、自分の笑顔が好きだと、ディミトリが言ってくれた。その後の宴では普段より豪華な食事と、勝利の美酒を嗜む。
星辰の節、二十五日。ガルグ=マク落成記念日の舞踏会で、ディミトリと想いを通じ合わせる。教師と生徒という関係上、表立って恋人らしいことはできないが、隣にいるだけで心が暖かくなる。いつかこの手を離さなければならないとしても、自分は彼のことを生涯、愛し――」
自分が書いたのだという日記をパラパラめくり、目覚めた時と同じ寝台に背を預けたベレスは声に出して読む。名前以外の記憶が全くなく、この古ぼけた日記は自分の夫だという金髪碧眼の眼帯をつけた男から渡された。何かを思い出せるかもしれないと。
【天馬の節、二十九日。聖墓で帝国軍による襲撃を受け、ディミトリが炎帝の正体――黒鷲学級・級長エーデルガルトを見て豹変する。帝国兵を怪力だけで薙ぎ払い、その目は復讐に満ちていた。
孤月の節、三十一日に帝国軍はガルグ=マクに迫ると斥候から情報が入る。防備で精一杯の状況下、ディミトリはエーデルガルトの首にしか興味がなくなった。
彼のためにできることはあるだろうか。彼が復讐を望むのなら、自分は◇♯?♪※♡★――】
自分の父からつけるように言われて書き始めたというその日記は、ある時を境に夫だという『ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド』のことで埋め尽くされている。何か激しい消耗でもあったのか、所々掠れていて読めないものの、記憶はないのにその筆跡からは懐かしさを感じた。
【星辰の節、ソティスに起こされて谷底で目覚めると、五年の月日が経っていた。大修道院は荒れ果て、盗賊の根城となっていたらしい。
再会したディミトリは荒れていた。戦闘には参加するも軍議には参加せず、瓦礫の散らばる大聖堂で亡者と思わしき人たちと話しているようだ。それを不気味に思う者も多い。帝国へ抗戦するための旗頭がこれでは、と再集結した王国軍や教団の兵から、そのような言葉がちらほら聞こえる。
けれど自分は信じている。今すぐでなくともいい。きっとディミトリは光のある方へ向かうと――】
戦争中にディミトリという人と想いはすれ違い、彼に親身になってくれていたロドリグという教え子の父を亡くした。そして過去の妄執から解き放たれたディミトリと王都を取り戻し、自分は彼と共に帝国を打ち倒して終戦へと導いたという。
それから半年ほど経ち、国王に即位したディミトリと結婚。自分も大司教という身で忙しい中、二人の子供に恵まれ――と、そこからは家族の日記が綴られていた。
「っ……」
名前以外の記憶がないのに、何故か日記を読むと涙が零れる。ディミトリという人への想いが溢れて止まらず、ベレスは彼にこの胸の内を伝えたくて堪らなかった。
「ベレス、入ってもいいだろうか…?」
ひとしきり泣いた後、部屋の扉からディミトリがそっと顔を出しているのに気づく。心配で飛びつきたくて仕方ないのに、それでいて嫌われたくないという迷子の子犬のような、そんな表情を浮かべていた。
「どうぞ」
寝台の縁をトントンと叩き、部屋へ入ることを促せば、恐る恐るディミトリは傍へ座った。膝の上で拳を握って縮こまる姿は、やはりどこか懐かしい。
「はじめまして、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド」
戦後は余裕が出てきてからかわれることも多かったから、少しくらい意地悪をしても許されるだろう。空色の隻眼は“はじめまして”という言葉に見開かれ、幾度となく包み込んでくれた巨躯がビクッと震えた。
「愛しています。世界一大切な私の旦那様」
「え、えっと、べ、ベレス…?」
「ふふっ、まずは目の下の隈を薄くしなきゃね?」
油断しているところを寝台に引きずり込み、ベレスはディミトリの体を抱きしめる。右目を覆う眼帯をそっと外し、よしよしと金糸のような髪を梳いた。
「べ、ベレス。記憶が…!?」
「さあ? 君はどちらだと思う?」
「茶化さないでくれ!」
「国王陛下はどちらがお好みかな? 記憶が戻っていてこのまま共に眠るのと、激しく抱いて記憶が戻るまで抱き潰すのと――」
その微笑みはまさに“灰色の悪魔”で。