人恋しい夜 美味しい夕ご飯を食べて、談話室やバーで魔法使いのみんなとお喋りしたりして、広いお風呂に入って。部屋で寝間着姿で乾かしたばかりの髪を梳かしているとき。ふいにそれは訪れた。
胸が締められるような、足元がわずかを残して崩れ去っているような、なのにそこにぼうっと立ってはいられない焦り。この世界にきてすでに何度か経験している。時折、こう、ずうんと沈むような重たい気持ちになる。やることがあれば気もまぎれるが大概それは夜に訪れる。それもこんな、寝る時間に。
「(しかも、今日はいないんだった……)」
前回この重苦しい状態になったときは不眠の魔法使いに、そうとは伝えず振り回してもらったのだった。しかし彼は泊りがけの任務に今日出てしまった。それを見越して昨晩はしっかり寝かしつけたのだ。
重たい気持ちを押し付ける様にベッドに突っ伏する。ごろごろ転がってみるが何も変わらない。いっそバーに行って酒でも煽ろうか。だめだ店主の話術もあって大泣きしそうだ。はああああ、とため息をつく。
「……散歩にいこうかな。誰かいるかもしれないし」
とりあえず、思いついたのがそれだった。夜に出歩くのはあまり推奨されていないが、魔法舎の敷地なら問題ないだろう。軽くカーディガンを羽織って、部屋の扉を開こうとドアノブを掴み、回す前に、勝手に扉が外側に豪快にひらいた。
「うわッ」
「それはこっちのセリフですよ。びっくりするでしょう」
想定外に軽くあいた扉に振り回されてぐら、と崩れた体を抱きとめられる。その声はここにはいないと再認識しながら落胆した魔法使いのもので晶は思わず声を上げた。
「ミスラ!? な、どうしてここに」
「それより。散歩に行くんでしょう」
そういいながらミスラはなぜかまた晶の部屋に入る。ずんずん進んで正面の両開きの窓を開け放った。出窓になっている箇所に腰掛けて長い脚を外に出し、そのまますとん、と降りた。思わず晶がえ、と声を上げたが、ミスラはそこに地面があるように立っている。
「ほら。行きますよ」
晶が応じて窓際まで行くと彼の足元には箒が浮いていた。はあ、と晶が嘆息するとミスラが諸手を差し出す。乗れ、ということだろうか。晶は半ばわざと何も考えずついていくことにした。ミスラが先ほどしたように窓に腰掛けて、足を外にそっと出す。普通に生きてきた人間にはすでにこれで結構なスリルだった。おそるおそる足を箒に下そうとする晶を尻目に、ミスラは晶を子供のように抱え上げ、立ったまま箒を滑らせた。
「いや!! ちょっと、ちょっと待ってください! 怖いですミスラ!!」
「あは、俺が怖いですか? いいですね、あなた俺のこと舐めすぎですから」
「違ッ……ミスラは全然怖くないです!!」
「はぁ??」
ミスラが着地したのは魔法舎から少し離れた丘だった。周りを囲むように川が流れていて、サラサラと涼し気な音がする。道中かみ合わない言い合いを続けたせいか晶は少し息が切れた。
「それより、ミスラ。任務は……? まさか、途中で」
「もどってやりますよ。朝になったら」
「あ、ありがとうございます。えっと、ではどうして?」
「……」
ミスラは珍しく言いよどみ、隣で同じく座りこむ晶をじ、と見て、その頬を撫でた。ひえ、と晶が声を上げるのを聞いて首を傾げる。
「あなたが、泣いてるかと思ったんですけど、泣いてないですね」
晶はどきりと心臓が鳴った。なぜ、それを。
「朝、変でしたよ。なんかじっとりしてるのが裏に張り付いてる感じです。前もそういうのあったでしょう」
「……ミスラは、すごいんですね。私自身も朝は気づいてなかったのに」
「そうですか。呪いですか? 取ります?」
「いいえ。呪いじゃなくて、今だけ私の心がちょっと後ろ向きなだけなんです」
晶は項垂れて足元の草を指でくるくる遊んだ。ミスラはそれを無感情に見てそして晶を覗き込む。
「後ろ向いてたらいいじゃないですか。俺が隣にいますし」
晶は弾かれたようにミスラを見た。厄災の光を受けてどこまでも透き通った緑の瞳が晶を覗き込んでいる。その目に引っ張られるように、晶の鳶色の瞳からほろほろと涙がこぼれ出た。反対にミスラはぎょ、と目を見開いて驚いた。
「ちょっと、今泣くんですか」
「ごめ……なさ、ちょっとだけ、なので。これで、ひぐ、…すっきり、すると思うので」
「はあ……いいですけど」
困惑の表情をうかべ、子供みたいに下から覗き込んできたり、暇そうに遠くを見たり、ほんの時折、晶の背をぎこちなくなでたり。まるで慰め方のなっていないミスラが晶は内心ちょっと可笑しかった。泣いてるかと思って来てくれたわりにこうである。それでもミスラは離れずにそばにいてくれたのだった。
「……ふう、すっきりしました」
「……そうですか」
「あれ、ミスラ疲れてます?」
「見くびらないでくださいよ」
ふん、と鼻を鳴らしたミスラがす、と立ち上がって箒を取り出す。ふわりと浮いたそれに腰掛けて晶を手招いた。
「帰りますよ」
ミスラの隣で怖くない帰り道を経て、晶は自室に戻った。ミスラはそのまま任務の地に戻ると思ったが、ミスラもまた身軽にふわりと部屋に入る。
「あれ、戻らないんですか?」
「朝になったら戻ると言ったでしょう」
珍しく目を合わせないミスラをみてもしや、と晶は思った。努めて明るく言う。
「じゃあお茶にしますか? それとも寝ますか?」
「……お茶で」
晶がキッチンに向かってお茶の支度をする間もミスラはぴったりとくっついていた。途中で宵っ張りの魔法使いにあって話しかけられてもそちらに行くことはなく、そうしてまた晶の部屋に戻ってきた。
「お茶美味しいですね」
「ええまあ。そうですね」
少し頬を緩めたミスラを見る。他愛のない話をして、あるいは何も話さないままで時間が過ぎていく。あなたと夜を過ごしたいな、そう思ったのが自分だけではなかったと晶は再度確信した。