蓋 神様とは、とにかく美しいものだと聞きました。俺は美しいものをこの世でひとつしか知りません。天上天下、どこを探してもこのひとつきりです。それならば、この世に神などおりません。こいつはただの美しい子どもで、俺の大事な友達です。
俺は思わず両手を差し出しかけました。息を呑んだ一二三の見開かれた目から、永い時を煮つめて結晶化した琥珀が零れ落ちてしまいやしないかと、莫迦なことを思ったのです。そんなに驚かなくたっていいだろう。俺は笑ってしまいましたが、いつもと変わらない様子でやってきた幼馴染みが、おまえの供物になったのだと三つ指揃えて頭を下げたら、驚くのも無理はありません。俺だったら卒倒しています。
「俺っち、友達は喰わねぇよ」
しきたりです。神の血を引く子どもが十七になると、供物を捧げて祝うと同時に、村の繁栄を願うのです。莫迦々々しい話です。出鱈目です。だって、誰も神の姿を見たことがなければ、名前さえ知らないのです。それなのに、皆信じています。愚直なまでに信じています。信心深いのではありません。彼らに信仰心など欠片もありません。皆を信じさせているものは恐怖です。皆なにもかもが恐ろしいのです。一二三の十七歳の誕生日を心の底から祝った人間が、果たして俺以外にどれだけいたでしょう。
「どうして嫌だって言わなかったんだよ」
姥捨山ってご存知ですか。ヘンゼルとグレヱテルなんて童話もありますね。俺が選ばれたのは、そういう理由です。理不尽だと言ってくれるのですか。ありがとうございます。でも、合理的で順当な選択でした。これまで味が分からなくなるほど呑み込んできた俺は知っています。理不尽とは常に最もらしい顔をしているものなのです。そして受け入れたあとは、運命というものに昇華します。皆そうやって捻じ伏せた心を納得させようとしてくるのです。仕様がなかったと、俺ではなく皆が言うのです。
「けどなぁ。このまま独歩を帰したら、村の連中になにされるか分かったもんじゃねぇし」
べつに俺じゃなくても良かったのです。身も蓋もない言い方ですが、誰でも良かったのです。自分でなければ誰だって。余所者だって構いやしなかったのです。神の血を引く子のはらを満足させることができれば、自分たちの身の安全は約束されるのですから。此処にいるのは、卑怯な臆病者だけです。俺は常々思っていました。血肉で肥えた忌まわしい土地で育まれたものなど、草一本残さずなくなってしまったほうが良いと。ただびとの俺には、どうすることもできないのですが。
嗚呼、でも、澱んだおぞましい場所に在ってさえ、美しいものはありました。愛するものがありました。その人だけが大事でした。それだけの、十七年でした。
「よし!じゃあ俺っちと遊ぼうぜ。俺っちね、独歩ちんといっぱい遊んでみたかったんだ」
俺は一二三の申し出を断りました。すると一二三は不機嫌の分だけ頬を膨らませて不貞腐れてしまいました。それきり口も聞いてくれなくなったので、途方に暮れた俺は仕事があるからずっとは遊べないのだと理由を話してやりました。供物になった身で、何を言っているんでしょうね。一二三はさっきまでの様子が嘘のように、独歩は真面目すぎるとけらけら笑いました。そして、からすが鳴いたら家に帰してやるよと約束してくれたのです。一二三は嘘をつきません。心残りがなくなった俺は、それから一二三と飽きもせず遊びました。遊んで遊んで遊んで、褥で人に言えない遊びをしている時でした。
「そうだ独歩。ひとつだけ願いごとを叶えてやるよ」
薄明かりに照り映える琥珀はとろりと流れるようでした。見つめているだけで不思議な酩酊感に包まれるので、俺はつい流されてしまいそうになりました。
「さては冗談だと思ってんな。いいからほら、言ってみろよ。本当はいくつだって叶えてやりてぇけど、ひとつっきゃ無理だな」
俺は信じておりませんが、神の血を引く者は供物を得ることで神威を蓄えるのだといいます。俺は選ばれたら自分がどうなるか理解した上で、納得して此処へ来ました。信じていないなどと言っておきながら、俺はほかの誰かが一二三の一部になるのが厭で厭で堪らなかったのです。一二三のはらのなかで幸せな夢を見たかったのです。一二三は俺を喰いませんでした。こんな莫迦な俺を友達だと言ってくれました。いつもと同じように遊んでくれました。俺は、力を蓄えられなかった神の血を引く者がどうなってしまうのか知りません。でも、一二三はずっと笑っていました。なんにも恐ろしいものなど無いかのように笑っていました。一二三が笑ってくれるのが嬉しくて楽しくて、つられて俺もずっと笑っていました。だから俺にはもう、ひとつの望みもありませんでした。
どのくらいの時が経ったのか分かりませんが、今でも俺は一二三と楽しく遊んでいます。
からすは未だ、鳴きません。
*
「ねえねえゲンタロー。カニは?温泉は?牧場は?ボクもう疲れたぁ!喉渇いたぁ!おなか空いたぁ!」
取材旅行です。いいえ、今度は推理小説です。殺人事件の舞台を探しに来たのです。寝台特急。山奥の別荘。白浪打ちつける断崖絶壁。様々なところを訪ね歩きましたが、ここぞという場所はまだ見つかっていません。しかし次が最後の候補地です。そこも駄目ならば進行に遅れが生じて自らの首を絞めることになってしまうかもしれません。そんな小生の苦悩など意にも介さず、旅の道連れたちは馬鹿騒ぎしていました。観光は小生の仕事が終わってからだと言ったでしょう。もう少し我慢して下さい。そのように宥めると、乱数は納得するどころか帝統を味方につけて余計にうるさくなってしまいました。最後の目的地へ足を向けたときからずっと、乱数は違うところへ行きたいとこんなふうに騒ぐのです。いえ、誘ったわけではありませんよ。もともと一人で訪れる予定でした。が、どこからか話を聞きつけた乱数が自分も行くと言って聞かなかったのです。乱数は物事を自分のいいように進める力を持っていますが、引き際というものも弁えています。しかし、今回ばかりは小生がなにを言っても耳を貸しませんでした。それどころか路上で迷惑な拾い物を一つして、とうとう三人での道行きになってしまったのです。
紅葉が彩る幽玄な山の中を歩いていると、不意に遠くから怒涛のごとき水の音が聞こえてきました。きっとダムの放水でしょう。そここそが、最後の目的地です。
とても立派な造りのダムでした。燃える紅葉の中で暗い水を抱いた石の要塞は迫力も趣もありましたし、悪くないと思いました。もっと近くで見てみたくて、みなもを覗き込みました。
「ゲンタロー。そんなに身を乗り出さなくても見えるでしょ」
落ちたらひとたまりもありませんし、誰にも見つけてもらえないでしょう。事件の舞台にはもってこいです。少年でしょうか。子どもたちの笑い声がするのもいいですね。随分楽しそうなので、遊んでいるのだと思います。嗚呼、羨ましいな。此処なら受け入れてくれるかもしれない。遊んでくれる者など一人も持てなかった嫌われ者でも、ここなら、彼らなら。
「幻太郎、駄目だよ」
物凄い力で袖を引かれて我に返りました。振り向くと、乱数がいつになく神妙な面持ちで着物の袖を握っていたのです。
「ボクたちと遊んだほうが楽しいよ」
乱数はいとけなく笑ってそう言うと、袖を引っ張ったまま帝統の待つ茶屋まで一度も足を止めませんでした。振り返ることも、できませんでした。
乱数には一体何が見えていたのでしょう。茶を啜りながら考え込んでいると、旅行の前に候補地のリストを見た編集に言われたことを思い出しました。此処はやめときましょう。たった一言でした。理由を尋ねても教えてはくれませんでしたし、捻くれ者の性分が首をもたげてしまい、結局ここまで来てしまったのですが。そして危うく、ノンフィクションの被害者になるところでした。旅行から帰った後、あのダムについていろいろと調べてみました。その中で、ダムが建設される前に行われた事業の記録を見つけました。
ホテル建設工事、諸般の事情により中止。
ゴルフリゾート建設工事、諸般の事情により中止。
体験型施設開発工事、諸般の事情により中止。
観光拠点開発工事、諸般の事情により中止。
中止、中止、中止、中止、中止。
これ以上深入りするのはまずいと悟りました。でも、好奇心には勝てませんでした。九生を持つ猫ですら敵わないのですから、明日の我が身も分からぬものです。しかしこの身に何かあれば、あのとき引き留めてくれた乱数に合わせる顔がありません。ですからもう少しだけ調べて分かったことをあなたにだけお伝えして、暫くは大人しくしていることにしましょう。
そこにはかつて、村があったのだそうです。しかし数十年前に起こった未曽有の大水によって失われてしまい、生存者は一人もなかったようです。直接的な関係はないのかもしれませんが、残されたわずかな記録によると、その地には口にするのも憚られるような因習が残っていました。被害者の殆どが、子どもでした。だからでしょうか。なんだかまるで、未曽有の大水が、穢れを洗い流すための水だったように思えるのです。
いくつもの事業が頓挫した中で、一つだけ何事もなく済んだものがありました。それがダムの建設です。
きっと、蓋をしたのです。その村最後の神様とやらが、穢れたものを清めたあとに。もう二度と同じことが繰り返されぬように。そしてようやく自由になった現人神が、水の底で楽しそうに遊んでいる声を、あのとき小生は聞いたのでしょう。
いつまでもいつまでも、ふたりで遊んでいるのだと思います。
たとえ日が暮れても、水に沈んだ土地では、一羽のからすも鳴きませんから。
(20211221 蓋)