夏風邪 一二三が夏風邪をひきました。だから俺は、学校につづく畦道をひとりで歩いていました。近道です。草いきれのにおいをたどり、この先にある林を抜ければ、学校の運動場に出るのです。一二三のいない通学路は、とても静かでした。ぬるい南風が夏草を撫でていく音。水田で蛙が跳ねる音。民家もないのにどこからか響いてくる風鈴の音。いままで気にもしていなかった物音が、やけにうるさく耳につきました。でも、とても静かだったのです。なんだか自分だけ、べつの世界に取り残されたような感じがしてずいぶん心細い思いがしました。それでも学校には行かなければなりません。俺はびくびくしながら畦道を抜け、やがて林に足を踏み入れました。どっぽくん、いっしょにがっこういこう。そのとき不意に背後から、声をかけてくれた同級生がいました。聞きおぼえのあるような、ないような声でした。振り返ってみると、見おぼえのあるような、ないような顔でした。薄情です。俺は同級生の顔もおぼえていなかったのです。そういうふうだから、いつまで経っても友達ができないのでしょう。俺は、とまどいつつも頷きました。うれしかったのです。俺なんかと学校に行ってくれるひとが、一二三以外にもいたことが。それからいろんな話をしていっしょに歩きました。はい。楽しかったですよ。どんな話をしたか、ですか。・・・すみません。俺、おぼえていないみたいです。たぶん、近道の林を行くあいだ、ずっと蝉の声がうるさかったせいです。うるさくて、とにかくうるさくて、思い出そうとするとなにもかもをぶつんと遮ってしまうのです。
出席を取るとき、先生は俺の名前を呼んでくれませんでした。別段おかしなことではありません。俺は引っ込み思案で何事においても消極的なので影が薄いのです。先生は一二三の名前も呼びませんでしたが、あいつの場合は休みの連絡が行われているからでしょう。一二三がいないという事実を改めて突きつけられた気がして、途方もなく寂しい思いがしました。ひふみ、どうして風邪なんかひいたんだ。ひふみ、どうしてとなりにいてくれないんだ。ひふみ、どうかこのままいなくならないでくれ。ひふみ、ひふみと、何度心のなかで名前を呼んだか知れません。そばにいるときより、いないときのほうが名前を呼んでいるなんて、おかしな話ですね。一二三のいない休み時間は退屈でした。同級生たちの話していることは全く分からなくてついていけませんでしたし、どうしても遊びの輪に入っていけなかったのです。みんな、俺を待っていてくれたのに。なんだかそこにいてはいけないような気がしたのです。仕方がないので教室で飼っているめだかに相手をしてもらうことにしました。しかし餌を用意して水槽を覗きこんでも、緞帳のように澱んだ水と生い茂る苔に覆われてよく見えませんでした。でも、なにかがいる気配はするのです。じっと見つめているとごぼごぼ水の音がしてきました。だんだん、だんだん大きくなっていきました。やがて濁流のような音にまでなったとき、ようやくそれが自分のほうに迫って来ているからだと悟り、俺は水槽から離れました。
そんな日が、つづきました。あいかわらず俺と一二三の名前は呼ばれませんでした。さすがに居心地が悪いというか、ここは俺の居場所ではないような気がしていました。一二三もずっと休んでいます。元気だけが取り柄だったのに。俺は放課後になると毎日お見舞いに行っています。宿題を届けるためです。漢字の練習は学校に来なくても書き溜めて休み明けに提出できるのですが、算数の問題は日替わりで用紙が配られるので届けてやる必要があったのです。そうやって俺は一二三の顔を毎日見ているはずなのに、どうしてこんなに寂しい思いがするのでしょう。頭が、痛かったです。眩暈も、ひどくて。蝉が、ずっとうるさくて。圧し潰すように降っては、ぶつんと遮るのです。
その日もお見舞いに行ってから帰ろうと、俺は一二三の机から宿題を取り出そうとしました。しかし指先がすべってしまい、入っていた問題用紙を落としてしまいました。いつもこうだ。なんでもかんでもすぐに失敗してしまう。簡単なこともうまくいかない。人付き合いも手先も不器用で、そのうちみんな離れて行ってしまう。見て見ぬふりをしないで、笑って大丈夫だと言ってくれたのは一二三だけでした。ひふみ。ひふみに会いたい。どうしようもなく会いたい。会いたくて会いたくてたまりませんでした。なんだかもうずっと会っていないような心地さえしていました。それから俺は、じわ、と濡れた目を拭って床にしゃがみこみ、散らばったものを拾い集めました。・・・ふと、違和感をおぼえました。宿題は算数の問題用紙が一枚きりで、この一週間のうちに日替わりで配られていたものです。俺は欠かさず一二三に届けていたので、何枚もあるはずがないのです。嫌な予感がしました。でも、数えてみずにはいられませんでした。
問題用紙は何度数えても七枚あり、すべて同じ問題が記載されていました。
このわずかなほころびから、じわじわ糸がほどけていきました。なにかがおかしい。嫌なことや、悪いことは一つも起こっていません。いつもと変わらない日常です。一二三がいないことを除いては。でも、なにかがおかしいのです。恐ろしくなった俺は、すぐに教室を出ました。外履きに履き替えて下駄箱の蓋を閉めたと同時に、背後から声をかけられました。どっぽくん、ずっとともだちでいようね。近道したとき、一緒に登校した同級生の声でした。俺は後ろを振り返らないまま、首を横に振りました。だって俺の友達はひとりだけです。誰と話しても、誰と遊んでも、誰と親しくなっても、俺が友達と呼べるのはこの世にただひとり。一二三だけなのです。それさえ分かっていれば大丈夫です。自分にとって大切なものがなんなのか、ちゃんと分かっていればなにも恐ろしくなどないのです。覚悟を決めた俺は、ゆっくりと後ろを振り返りました。
そこには、俺の知らない子どもが立っていました。
いっしょにかえろうと伸びてきた手をよけて、俺は校舎を出ました。夏天のもとでも薄暗い林を行くのは勇気がいりましたが、一刻も早くその場を離れたかった俺は近道することにしました。蝉が、鳴いていました。一際うるさく鳴き喚くので、また頭が痛くなりました。むせかえるような草いきれに眩暈もぶり返しました。このまま、またぶつんと遮られたら二度と家に帰れなくなってしまう。なぜだかそんな確信がありました。でも、耳を塞いでも聞こえてくるのです。隙間を縫って入り込んでくるのです。もう逃げられない。そう思った瞬間、俺の名前を呼ぶ声が、なにもかもを貫いて耳まで届きました。弾かれたように顔を上げると、そこには肩で息をする一二三が立っていました。ああ、ようやく会えた。会えたんだ。立ち尽くす俺の手を強く引いた一二三は、無事でよかったとふるえる声で何度も呟きました。なだめてやりたくて、きんいろの頭をぽんぽん撫でると汗でしっとり濡れていました。きっと走りまわってくれたのでしょう。病み上がりに申し訳ないことをさせてしまいました。夏風邪、もういいのか?七日も寝込んでたのに動きまわって大丈夫なのか?そう尋ねると、一二三は困惑したような面持ちで俺を見つめました。焼けるような喉に堪えかねて咳き込むと、再び眩暈と頭痛がしました。身体は熱を孕んでいるのに、寒くて寒くてたまりませんでした。これじゃあ、まるで。
ふらついた俺を抱きとめた一二三は、風邪をひいていたのはおまえだったと言いました。
後ろ髪ひかれるような思いがして振り返ると、そこには通い慣れた小学校ではなく、俺が生まれるよりずっとむかしからあるという廃校舎が佇んでいました。
(20210129 夏風邪)