失恋 キス、したくないって言われた。
息づかいが聞こえる距離でくちびるを傾けると、青い香りとともに独歩のまばたきで俺のまつげが揺れた。そして独歩は弾かれたように俺から目を逸らすと、したくないと言ったのだ。俺は午後のあわい光のつぶのなかで、いつまでも立ち止まったまま動けなくなると本気で思った。したくないときだって、ある。こうして時おり俺につきつけられる拒絶も、理解して受け入れたい。独歩のことを愛しているという気持ちにまっすぐでいるために。だけど傷つかずには持てない諸刃の思いだ。
最近の独歩は、いつも以上に調子が悪そうだった。家に持ち帰って仕事をしていることも多くて、つねにくたびれているように見えた。それでも観葉植物の世話をしている時間だけは息抜きができるらしく、気がつけばいつも緑に寄り添っていた。コーヒーを淹れても、冷めるまで気づかずにかまっていることさえあった。その植物の名前を、俺は知らない。どこにでもあるようなありふれた佇まいの植物だ。だけどじっと見つめていると、独歩の手によって育まれたみずみずしくてしなやかなからだが、だんだん恐ろしく見えてくる。この家には俺と独歩のふたりだけなのに、なじみのある緊張と焦燥を感じて吐き気がした。
そこにいるのは俺じゃだめだったのかと、すこしも思わなかったと言ったら嘘になる。でも、独歩が苦しまずに済むのなら、見て見ぬふりができるさみしさだった。そういう日々がつづいたからだろうか。なんだか、心なしかすれ違うことが増えた気がしていた。あれ以来、独歩とはいちどもキスしてない。俺がなにを言っても、独歩は絶対できないと頑なだった。俺のことが嫌いになったからなのかと尋ねると、好きだからできないこともあると言っていた。俺には分からなかった。俺にも分かるように話してほしかった。だけど独歩はそれきり口をつぐみ、観葉植物に水をやりながら、俺の目を一度も見なかった。
俺はぜんぶ独歩に教わった。くちびるの温度も。他人の肌のにおいや汗の味も。頬に降るなみだの重力も。身体のいちばん奥への触れかたも。濡れたシーツを足で蹴るときのもどかしさも。天国への行き方も。あふれるほど満たして得る罪悪感があることも。ひとりではたどりつけない深度ではじける閃光も。だけど愛するひとに触れたいと願うとき、時には快楽を越えた理由の存在があることも。俺の身体はとても素直で独歩のことが大好きだから、ひとつ残らずおぼえちまった。ほかの誰と抱き合っても忘れられないもので満ちてる。
独歩が俺の、最初で最後のひとだ。
ある日の晩。独歩が睡眠導入剤を飲んだことを、俺は知っていた。いけないと、分かっていた。独歩の意思を無視する最低のおこないだ。でも。でも。でも!なんにも分からないまま置いてけぼりになってる俺の気持ちはどうすればいいんだよ。よく晴れた夜だった。隠しごとができないくらいまぶしい月の光が、白い首筋を照らしていた。そっと指をすべらせていくと、のどぼとけがやわく肌を押しあげて生唾をのみ込んだ。このふくらみは、誘惑に負けたアダムが喉につまらせた果実の名残だという伝承があって、だからとある国ではアダムの林檎と呼んでいるんだそうだ。かじれば甘酸っぱい味がするのかもしれない。・・・俺はばかだ。なんでもいいから理由がほしいだけなんだ。逡巡の末にくちづけて、二度三度と首筋をたどっていくうちに、ふと違和感に顔を上げた。うすい肌のした。たぶん、なにかが。じっと見下ろしていると、血管とはちがう細い茎のようなものが這いだした。それは喉へ向かってすこしずつ広がりゆき、いくつかに枝分かれすると葉をつけた。なんだか最近、似たかたちのものをどこかで見た気がする。起こさないようそっとスウェットの首もとをくつろげると、見えないなにかが胸のあたりで根を張っていた。
*
病気といえば、病気だった。いつからか動悸や息切れを感じるようになって、たびたび胸が締めつけられて痛んだ。薬局で買える薬では解決しなかったが、ふだんからストレスが原因で体調をくずしがちな俺は、そのうち解決するいつもとおなじ不調だと断じた。そのせいか職場でほとんど集中できなくなり、家に仕事を持ち帰る機会が増えた。
ぐったりしながら働く俺のために、付かず離れずの距離感で気を遣ってくれる一二三のやさしさがとてもありがたかった。でも、一二三にも自分の生活があり、仕事がある。それらと俺を天秤にかけるような真似は絶対にさせたくなかった。だから距離を置いて、効きやしないと分かっている市販薬を信じて飲みつづけた。体調は悪くなる一方だった。根を詰めすぎるせいで、だんだん精神的にも立ち行かなくなってきた。なんでもいいから息抜きがほしくなった俺は、観葉植物の世話にそれを求めた。最近、とりわけかわいがっている鉢があったのだ。体調不良がつづくと同時に、草原のただなかで眠っていると錯覚することが増えた。そのくらい、吸っても吐いても青い匂いでいっぱいだった。俺はまず自分の頭を疑ったが、実感としてたしかにそれはあった。どこから香っているかも分からないものに、俺はなぜだかひどく惹かれた。それともうひとつ、不思議なことがあった。外を歩いているとき、蝶が寄ってくるようになったのだ。髪に揚羽蝶が留まったとき、一二三に「かわいい」と写真を撮られたことがある。恥ずかしいから消してくれと頼むと、俺だけの独歩にするからと余計に恥ずかしいことを言われた。あいつは「二度と撮れない瞬間かもしれないじゃん」とも言って笑ったが、さいきん外を歩けば毎日こうだとは口が裂けても言えなかった。
俺はどうしてしまったというんだろう。自分の身体が、内側から変わっていっている気がした。じわじわ侵食されているような、そんな気が。病院に行く暇はない。行けたとしても、なんと説明すればいいか分からない。寂雷先生を困らせるのも嫌だった。俺は逃げるように観葉植物にすがった。土も乾いていないのに水をあげた。液体肥料をあげた。わけもなく葉を撫でた。意味のない言葉をかけつづけた。観葉植物は俺にやさしかった。どんな俺でも物も言わず受け止めてくれた。俺にはもうこいつしかいない。そう思うまでになったとき、せきこんだ口からこぼれ落ちたものがあった。とうとう血でも吐いたかと思ったら、花びらだった。
花が、咲いたんだ。
自分の身体が、得体の知れないなにかに侵されている。確信した俺は、一二三との接触をいままで以上に避けた。あいつはなにかとすぐふれあいたがるし、キスをするのが好きだから苦労した。拒絶するたびにしょんぼりさせるのも、それでも分かったと言ってくれるのも、たまらなく胸が痛んだ。それ以上に、これが病気ならうつってしまうかもしれないことが心底おそろしかった。そのくせふれあわなくなってから、俺は一二三のくちびるや指先を無意識に目で追うようになった。いけないと、分かっているのに。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもんだ。どうしたって、まなざしはさめない微熱をまとった。真夜中の記憶があらわになって、にじむ視界のさみしい背中に重なった。触れられてもいないのに、あまくしびれて眩暈がした。最低だ。最低だ。最低だ!こんなのは最低だしあんまりにも身勝手だ。そんな俺を叱るように、俺のなかに根差した花が棘をみがいて容赦なく突き刺してきた。
観葉植物をかまう時間だけが救いになっていた頃のある晩。俺はどうしても眠れなくて睡眠導入剤に頼った。無事に眠ることはできたものの、むせかえる青さのなかで目が覚めたのはまだ暗い時間だった。俺は一二三にきつく抱きしめられていた。痛いほど込められた力は、俺がどれだけさみしくさせていたかの証明だ。抱きしめかえしてしまった手で、なだめるように背中をぽんぽん撫でた。だいじょうぶか。さみしくさせてごめんな。すると一二三は掠れた声でつぶやいた。「気づいてやれなくてごめんな。ひとりで苦しかっただろ。怖かっただろ」。どうして一二三が謝るんだ。おまえはなんにも悪くないだろ。おまえを傷つけておきながら、自力で解決できなかった俺が悪いんだ。どうにか苦く笑ってみせると、神妙な面持ちで顔を上げた一二三は、あろうことか俺のくちびるをふさいできた。微塵のためらいもなくて、一度目は拒みきれなかった。そのあとは一二三を突っぱねるのに必死になったが、不調つづきだった身体にそんな余力は残されていなかった。それならばと頑是ない子どものように首を振って拒んだ。けれども一二三は、拒んでも拒んでもくちびるをふさいできた。あきらめてくれよ。うつったらどうするんだ。俺はおまえが苦しむところなんか死んでも見たくない。もう二度とごめんなんだ。キスの合間になんとかそう伝えると、「そんときはふたりでなかよくセンセーに診てもらおうぜ」と笑った。
「たとえあの世行きでも、ふたりなら悪くないだろ」
縁起でもないことを言われたのに、俺はつられて笑っていた。そうして濡れたくちびるに開けてくれとついばまれると、もうだめだった。めいっぱいくちをあけて、とうとう一二三を招き入れてしまった。絡みあって生まれる熱が素直に気持ちよかった。息継ぎさえ惜しんでくちづけられるのが、苦しいのにうれしかった。キスしたくないと言ったのは俺だけど、ほんとうはずっと一二三とキスがしたかったんだ。
さみしさですり減った場所を埋めるように。
ひさしぶりに一晩中、おたがいの体温にくるまれたまま過ごした。
*
朝になると、独歩が最近ずっとかまっていた観葉植物が枯れていた。素っ裸のままベッドにうずくまって鉢を抱えた背中はまるで、途方もない喪失感を持て余しているようだった。枯れちゃったのか。後ろから薄いはらに手をまわすと、独歩はちいさく「俺のせいだ」と言った。いいやちがう。それだけは絶対にない。だって俺は知ってるもん。独歩の向かいにまわって、鉢を取り上げて床に置いた。そしてなにもなくなって微かに彷徨う両手を握りこんだ。一晩中握っていたからか、まだぬくもりが残っていた。「ほんとにそう思う?独歩ちん、ちゃんとお世話してただろ。土が乾けば欠かさずお水をあげてたし、葉の色が悪くなりはじめてたら液体肥料だってあげてたし、日当たりの調子を見て置き場所を変えてあげたじゃん」。俺が拗ねるくらい、大事にしてた。・・・大事にしたかったから、してたんだよな。いま思えば、俺には時どきそう見えない瞬間があったのだ。うまく言えないけど、まるでそうさせられているように見える、そんな瞬間が。この数日間、独歩を苛んでいたものはいったいなんだったんだろう。もうなんともないと言う独歩の身体には、たしかに俺がくちづけた痕しか残されていない。ゆうべ嫌われんじゃないかってくらいすみずみまで触れたから、それは俺が保証する。だけど病院には連れていく。もともと身体は丈夫じゃないんだ。謎の症状が長くつづいたせいで後遺症が残るかもしれないし。なにより、いつの日もどんなときも、愛するひとにはすこやかでいてほしいだろ。この期に及んで嫌だと言うのなら、簀巻きにして車に突っ込んでってやる。
自分の身支度を整えたあと、俺は衣装ケースを開けて独歩に着せる服を選んでいた。あったかそうなんねぇなぁ。俺のニット持ってこよっかな。てかたたんであげたやつなんでくしゃくしゃになってんだよもう。衣替えしたのに夏物まじってるじゃん。ああでもないこうでもないと夢中になっていると、なぁひふみと独歩に声をかけられた。なぁにどっぽ。
振り返ると、独歩は枯れ果てた鉢をながめてぽつりとこぼした。
この観葉植物、いつ買ったんだっけ。
(20220216 失恋)