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    ささ誕

    今日のところはひとまず 月曜への陰鬱な感情が折り混ざる電車に揺られて、簓は最寄り駅にたどり着く。ただし、自宅ではない。盧笙の家の最寄り駅だ。電車から降りる時こそ多かった人も、住宅街をとぼとぼと歩いているうちにすっかり簓だけになってしまった。
     周りには誰もいないのをいいことに深く深くため息を吐き出す。
    「ただいまぁ」
     ポケットから引っ張り出した鍵で扉を開けると、丁度台所に立っていた盧笙があからさまに眉を顰めた。
    「ただいまちゃうやろ。まだ鍵持っとったんか。出せ」
    「はぁい」
    「元気ないな。仕事キツイんか」
    「んー、まぁ」
     もぞもぞとスニーカーを脱ぐ簓に、盧笙は心配そうな声を浮かべる。
     複製した鍵を使って我が物顔で入ってきた人間に対しての態度ではないだろう。相変わらずお人好しな相方に普段の簓ならツッコミの一つでも入れていたが、どうにもそんな元気にもなれない。
    「ちょい待ち」
    「……お邪魔しますぅ」
    「いらっしゃい。食ってくやろ」
    「ええの?」
    「飯目当てに来たくせに何言っとんねん」
     盧笙の優しさが身に染みる。
     ふんわりといい香りを立てる鍋を横目にリビングへ向かう。カバンを下ろして、上着を脱ぎ、ソファに腰掛ける。
    「ビールでええか」
    「ええよぉ」
     差し出されたビール缶のプルタブをよいせと起こして、ぐびりと胃へと流し込む。ぷはぁと吐き出した息にすら疲れが混じる。
    「年末近いもんなぁ」
    「まだそれほどってもんやないけどなぁ」
     年末の番組の収録が少しずつ始まり、簓の忙しさは少しずつ身体を蝕んでいく。
     けれど、それは今更言うことでもないし、こうして忙しくさせてもらえるのは有難い。
    「寝れとんのか」
    「ボチボチ」
    「ウチ来とらんと家で寝ろやと言いたいとこやけど」
    「うん?」
    「なんやねん。言いたいことあるんやろ」
     プルタブを眺めていた視線がゆっくりと盧笙の方を向く。
     少し間の抜けた顔をする簓に、盧笙はなぜそんな顔をされなければならないと不思議そうにする。そういう盧笙だから簓も家に帰らずこちらに来たのだが。
    「…空却に会いたい」
     ぼそりと漏らした言葉。
     仕事の疲れ以上に簓を苛むのは空却のことだった。生活サイクルが合わないことも、年末はおろか年始も忙しいのは百も承知。だからこそ、いつも以上に連絡を遠慮していたが、簓の中で空却の存在は年々大きくなってしまっていた。
     これもそれも空却が簓を甘やかしてくれるからだと言ったら怒られてしまうだろうか。
    「空却をぎゅーってして、吸いたい」
    「吸う…?」
    「やっぱお寺さんの子やから、お寺さんみたいな匂いすんのやけど、その中にお日様みたいな匂いがしてなぁ、ホッとすんねん」
    「表現どうにかせぇ。吸いたいなんか波羅夷さんには言うたんなや」
    「え? 言うとるよ」
    「マジか。引かれたやろ」
    「猫みたいなもんか言うとったよ」
     いや、少し引いていたかもしれない。そのあとになんとか自分を納得させるような素振りをみせていたような気がする。
    「あー! 空却が足らん!」
    「なら、ぎゅーする? あ、吸いたいんだっけか?」
    「はえ?」
     とうとう幻聴まで聞こえてしまったのか。
     ゆるりと視線を向けた先には、タオルを首に引っ掛けて、さながら風呂上がりの空却がいた。
    「え?」
    「どうすんの? しないの?」
    「す、する…」
     指先からするりと缶を取り上げたのは盧笙だろうか。
     それを気にかける余裕もなく、空いた両手を空却に向けると、そのまま胸に飛び込んできた。風呂上がりのせいかいつもよりぽかぽかで、けれど、鼻孔を擽るシャンプーの香りは盧笙の家のものだ。
     それでも、腕の中に閉じ込め、ぎゅうと抱きしめた細い身体は間違いなく空却だった。
    「……ホンモノ?」
     腕の中の空却を見下ろす。
    「偽物だったらどうする?」
    「区別つかん程疲れとるから、マネージャーに休みを貰う。ほんで空却に会いに行く」
    「マネージャーに連絡しなくていいよ」
    「あぁ、ホンモノなんや……」
     しみじみと呟いた声に、盧笙が耐えきれず吹き出した。
    「盧笙」
    「なんや」
    「持ち帰り可?」
    「不可」
    「あかんなぁ」
    「なんでや?!」
     思考回路を介さない問いかけの答えは同時だった。隣と腕の中からの二重の否定にこれほど早いツッコミはないぐらい早くツッコむ。
    「盧笙との約束が先にあるから」
    「約束……」
    「ホラー映画を一緒に見る」
    「……なんで?」
     空却と一緒に映画もよく分からないが、盧笙はホラーが苦手なはずである。簓の頭にはいくつもの疑問符が浮かぶ。
     空却から盧笙に視線を向けても、苦笑を浮かべるばかりで、どうしてが膨らむ。
    「生徒と約束してなぁ。苦手な数学頑張るから、その代わり言うて」
    「中間の点数良かったらしい」
    「約束破るわけにもいかんし、どうしたもんかと思っとったら、波羅夷さんから連絡きてん」
    「オオサカに美味いどら焼きの店があるらしいから来た。簓に案内してもらおうかと思ったけど、仕事だろうし、盧笙に頼んだ」
    「並んだりしてたら遅くなってもうたから、明日帰ることにする言うんで泊まるついでに頼んだんや」
     なるほど。状況は分かった。
     ひとり暮らしの割に、急遽簓が来ても問題ない量の鍋は空却がいてのことだったらしい。おそらく玄関を見れば空却の靴もあるだろうが、そこまで気が回らなかった。
     風呂上がりぽかぽかの空却も、夕飯ができるまでに先に風呂に入ったからで、幻覚ではない。
     怒涛の状況説明に、いまだ混乱したままの頭では溢れる言葉は一つだけだった。
    「……俺も映画鑑賞会参加できる?」

     微かに震えるスマートフォンのアラームを止めて、簓は身体を起こす。
     二人の寝息に、物音を立てないように布団を抜け出し、身支度を整える。いつもなら盧笙を起きているだろうが、今日は創立記念とかで休みらしい。空却も遅くまで映画を見ていたせいかまだ寝息を立てている。
    「…いってきます」
     小さく呟いても返事はないが、面と向かって言えるだけで満たされるものがあった。
     自己満足な挨拶を溢して玄関へと向かう。昨日脱いだスニーカーの横には空却の靴があって、これに気付かないほどに疲れていたらしい自分に笑ってしまう。
    「気をつけて」
     降り掛かった声に振り返る。
     目をこすり、少し危なげな足取りの空却がいた。
    「起こしてしもた?」
    「いつも起きてる」
    「そうやった」
     いつものやり取りだ。何気ない会話も落ち着く。遠慮していて足りなかった空却が満たされていくような気がした。
    「簓、誕生日おめでとう」
    「…んぇ?!」
     寝起きで回りきっていなかった頭がぱちりと冴える。
     確かに誕生日ではあるが、祝ってもらえるつもりもなかった簓は不意のお祝いに目を見開いてしまう。
    「そんな驚くこと?」
    「覚えてもらってると思ってなかった」
    「拙僧そんな薄情に思われたの?」
    「思ってへんよ!」
    「まぁ、いつもは当日に言えてなかったかもね」
     焦る簓に楽しそうに笑った空却がしゃがみ込み視線が合う。
     にぃと弧を描く唇が、そっと、一瞬、簓の唇に触れて離れていく。
    「あとこれ」
     小さな紙袋が差し出される。
     せっかくだからとその場で開けると中から出てきたのはキーケースだ。
     勿論今だって持っているが、今のものは許容量を超える鍵のせいか、ボロボロになっていた。
    「なんでキーケースにしたのかは言わないでおく」
    「あはは……」
    「拙僧はともかく、あんま怒られないうちがいいんじゃない」
    「もうだいぶ怒られとるけどな」
     一つ一つ、盧笙に回収されて減っていってはいた。きっともう増やすことのない鍵。
    「っと、もう行くわ。これありがとう。またゆっくり話したいけど…」
    「会えるのは年明けだろうね」
    「せやね。…連絡はしてもええ?」
    「ん。拙僧もする」
     スニーカーを履いて立ち上がった簓に合わせて立ち上がった空却の腕を引く。
     腕の中にぎゅうと閉じ込めると、やはりお日様のような匂いを少しだけ感じた。柔らかな頬を両手で包んで、先程よりも少しだけ長く唇を合わせる。
    「盧笙にありがとうって言っといて」
    「ありがとう? 分かった」
    「ほな、行ってきます」
    「行ってらっしゃい」
     背後で閉まった扉が鍵をかけるのを聞きながら、足取り軽く階段を降りていった。


    「簓がありがとうだって」
    「え? あぁ」
    「何がか聞いてもいい?」
    「波羅夷さんが寝てしもたから言わんかっただけや」
    「何を?」
    「誕生日おめでとう」
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