恐竜の幽霊 紙の上をペンが走る音がする。斜め前の席に座る先輩の、癖のある柔らかそうな髪の毛にちらと目を遣って、それから彼が何やら記入している手元のプリントを盗み見た。
学籍番号、氏名、そして先輩がこれから受ける予定の大学名。私は無言で視線を外すと、隣にあるテニスコートを眺めることにした。
ご夫婦と思われる四、五十代の男女が、ゆったりしたペースでラリーを続けている。ポーン、ポーン、軽快な音の反復に、私の寝不足気味の瞼は段々重たくなっていく。
「退屈なら帰っていいよ」
うとうとしかかった私に、先輩は素っ気なく言い放った。プリントから顔を上げる気配もないのに、目敏い。初めの頃は慌てて否定したり謝ったりしていたものだけど、「好きにすれば」とか「どうでもいい」みたいなつれないことしか返ってこないので、最近は何も返さずそのまま居座ることにしている。
付き合って……いや、お付き合い頂いて、半年。
こうして先輩を近くで拝見できるのも、長くてあと半年くらいだろう。
告白したのは、まだ桜の残る四月のことだった。入学早々一目惚れして、一年間片思いを拗らせた挙句、会話すらまともにしたことがない現状に焦って……進級初日に勢い任せで告白した。
「好きです!」
「付き合ってください!」
「思い出をください!」
そんな単語を捲し立てたような気がする。
玉砕覚悟だったのに、先輩の返事ははなぜか「いいよ」だった。
「受験の邪魔にならないならね」
そんな感じで交際が始まったわけである。
とはいえ。
受験生は忙しい。
私に許されたのは、塾のない日の放課後に駅までの道をご一緒することと、そのついでに、たまーに途中の公園に寄り道することくらいだった。
と言っても会話を楽しんだりするわけじゃなくて、ちょうど今みたいに、テーブル付のベンチの斜め向かいの席に座って、その日配られたプリントなんかの、先輩いわく「頭を使わない作業」が終わるのをじっと見守っている。
それだけと言えば、それだけ。手を繋いだこともなければ、名前を呼ばれたことすらない。一応連絡先は交換してるから、私の本名は知っていると思うけど、「ねえ」とか「ちょっと」なんて呼び方しかされたことがない。
それでも別に不満はないのだ。傍に居られて、隣を歩けるだけで、十分に幸せ。
だけど……最近は、お別れのことばかり考えている。
半年間、曲がりなりにも隣に居られたおかげで、私は先輩について結構色々知っている。
どこの大学を受けるのかとか、卒業したら、遠くに行っちゃうんだろうなってことも。
まあ仮に近くの大学を受けたとしても、卒業したらあっさりフラれちゃいそうではあるけど……。とにかく、卒業の先に、私と先輩の未来がある可能性は、残念ながらゼロなのだ。
脈無しで挑んだ告白だったし、OKをもらったのは奇跡だと思ってる。だけど一つだけ望めるなら、もっと、付き合ってるらしい思い出が欲しい。一度でいいから、デートというものをしてみたい。
期待を込めた夏休みは、「夏期講習がある」という理由でまさかの一日も会えずに終わってしまった。
「邪魔にならない」という条件を出されているから、邪魔になったらそこで終わってしまいそうで、何もできないままでいる。
……でも。でも!
何にもせずに卒業を迎えるよりは、多少お別れが早まってしまっても、心に残る思い出を望んでもいいんじゃないか?
どうせもうすぐフラれるわけだし。
というわけで、最近はずっとお別れデートのプランを練っている。
フラれることと引き換えにしてもいいくらい、忘れられない……忘れないでいてもらえるような、なんかすごいデートプランを。
(だけどそんなの、なかなか思いつかないよなあ……)
中途半端な計画だと、そもそもデートに至る前に迷惑がられてフラれる可能性がある。
めちゃくちゃ多忙な先輩が時間を割いてもいいと思えるような、とんでもなく魅力的な提案……。そんなのがすぐ思い付いたら苦労しないよ。
小さくため息を吐くと、先輩が手にしているペンに付いた模様が目に留まった。
「恐竜……」
「は?」
「先輩って、恐竜が好きなんですか?」
顔を上げた先輩は、答えに迷うようにむっと眉間に皺を寄せた。
「……だったら何?」
これだ。私の脳内に、ビビッと閃きが舞い降りた。
「恐竜の幽霊が出るって話知ってますか?」
「は?恐竜の……なんだって?」
「幽霊です。死んじゃったやつ、お化けですよ。出るって噂の場所があるんです」
「いや……知らないけど……っていうか嘘でしょ。出るわけないじゃん、幽霊なんて……ましてや恐竜の」
「見たって人も居るんですよ」
「作り話でしょ」
「気になりません?」
「ならない」
「えー……先輩なら食い付いてくれると思ったのに」
「なんでだよ」
「しょうがない、こうなったら私一人で噂の真相を確かめて来ますね」
「なんでそうなるの?」
「なんか……話してたら気になってきちゃったんで」
今度は先輩がため息を吐いた。
「……場所はどこなの?」
「えっ」
「場所聞いてるだけだから」
「やっぱり先輩も興味あるんじゃ……」
「ない。くだらない。居る訳ないし」
先輩は不機嫌そうに呟くと、テーブルに広げていたプリントたちを片付け始めた。
「帰る。行くよ」
「は、はい」
渾身の作戦は空振りに終わってしまったようだ。次の案を練ろう。日を空けて誘わないと、デートしたがってるのがバレて負担になっちゃうかもしれない。
あっという間に駅に着く。電車は反対方向だから、駅に着いたらすぐお別れだ。
「じゃあね」
去って行く先輩の後ろ姿を見えなくなるまで見送って、それから私もホームへ向かう。
あと、何回こうして一緒に帰れるんだろう。
ぼんやり考えながら歩いていたら、階段を踏み外してしまった。
◇
「ねえ、何それ」
次の日。
待ち合わせ場所の玄関にやってきた先輩は開口一番そう訊いた。
「それ?ってどれですか?」
「足の包帯」
「ああ、昨日階段から落ちちゃって」
「はあ?どこの?」
「駅です。ぼーっとしてたら踏み外しちゃって」
「馬鹿なの?」
先輩は呆れたように言うと、すっと私の手を取った。
「へ?」
「……なに」
「いや……手、えっ」
「嫌なの?」
「いや……あっ!いいえ!めっそうもない!嫌なんてそんな……いいんですか?」
「やっぱやめる」
「あー!うそうそ、やめないでください!離しませんから!」
慌てて手を握り締める。先輩は離さずに居てくれた。
(なんだろう……介助のつもりなのかな?)
痛いは痛いけど、歩けないほどじゃない。朝だって歩いて登校したし。
足を引き摺ってみたりした方がいいのかな?とか考えたりもしたけど、自然にできる気がしないので、普通に歩くことにした。
「行くよ」
「は、はい!」
手を繋いで歩く、初めての帰り道。私の怪我を気遣ってか、歩調はいつもよりゆっくりだった。
(優しい……)
「あの……」
「なに?」
「ありがとうございます」
「別に……」
ふいっと顔を逸らす先輩が愛おしくて、私は繋いだ手にきゅっと力を込めた。
◇
校舎三階の西の端、美術部の部室にて。
何を隠そう私は美術部部員なのだ。と言っても、雑談部に改名した方がいいくらい誰も何も描いてない。
画材すら広げていないやる気のない部員ばかりだけど、私の恋バナを聞いてくれる大事な友人たちでもある。
「はあ……」
今日も今日とて部室で私がため息を吐くと、寝転んで漫画本を読んでいた乃亜ちゃんが顔を上げた。
「どしたの?何のため息?」
乃亜ちゃんはクラスは違うけど、入学当初から学校のある日はほぼ毎日部室で私の恋バナを聞いてくれている天使みたいな子だ。
「足の怪我って普通どれくらいで治ると思う?」
「まだ痛いの?階段から落ちたってやつ」
「いや……それが、もう完全に治っちゃってて」
「そうなんだ。まだ包帯巻いてるから、結構重傷なんだなって思ってた」
「めちゃくちゃ軽傷だよ……」
「それで?それの何が問題なの?」
「先輩がさ。……怪我してから、気を遣って手繋いでくれるようになったんだよね。治ったって知ったら「あっそ」って言ってもう繋いでくれない気がする」
「へー」
「へー、じゃないよ!半年以上付き合って、やっと手に入れた進展なんだから……!」
「手くらい頼んだら繋いでくれると思うけどね」
「無理だよ……面倒くさいやつだと思われたら終わりなんだから」
「じゃあ諦めたら?」
「それも無理……!!」
頭を掻きむしると、乃亜ちゃんはまた漫画を読み始めた。
「治ってない振りしてたけど、さすがにそれも限界かなって思ってて……。仮病だってバレたら信用失っちゃいそうだし……悩む……」
「試しに今日包帯外して行ってみたら?それで繋いでもらえなかったら、また怪我したらいいじゃん」
「他人事だと思ってるよね!?」
「他人事だし」
「酷いよー!ねえ、どうしよう?」
「知らない。自分で考えれば?」
乃亜ちゃんはそう言うと再び漫画に集中してしまった。
「うう……冷たい。こんなときに限って他の部員いないし……」
訂正。全然天使じゃない。
「……あんまり痛くない派手めな怪我ってどうしたらいいと思う?」
私の呟きに答えは返ってこなかった。
また小さくため息を吐く。時計を見ると、もうすぐ三年の授業が終わる時間だ。
覚悟を決めて包帯を解くと、私は玄関へ向かった。
<続>