(水麿)官能小説家×ヌードモデル 4「この人、痴漢です!」
手を取られた時、状況が理解できなかったのを憶えている。
水心子の過去だ。高校生の頃、満員電車の中でそう女性に手を掴まれ掲げられた。驚いたなんてものではない。取られたその手はずっとショルダーバッグのベルトを握っていたのに、どうしてそんなことになるのか意味が分からなくて。
「僕は、なにも」
しかし周囲の目が視界に入った時、なにも言えなくなった。蔑むような、白々しいものを見る目。言葉を飲み、背筋には汗が噴き出した。
次の駅で女性と数人の男性客に引きずり降ろされても、どう無実を証明していいのか水心子には分からなかった。絶望した、このまま、自分はどうされるのだろうと。
しかしそれはすんでのところで追いかけてきた男性客に救われた。
「その子ではないです! 私は彼らの前で座っていたのですが、彼はずっと自分のバッグを掴んでいました。その子は違います!」
その時呼ばれて駆け寄ってきた駅員が、あっと声を上げた。
「またあんたか!」
先程までしおらしくしていた女性は、目の色を変えて駅員に詰め寄った。
「違うんです! 今度は本当なんです、私本当に触られて」
分かったあちらで話を聞くから、と女性は奥に連れていかれ、もう一人の駅員が同情的に説明してくれた。――あの女性が、痴漢冤罪をでっち上げる常習犯だったこと。
「構って欲しいのかもしれないのですが……お客様には本当にご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
頭を下げられ、解放され、次の電車を待ちにホームに戻る。もういいんだ、疑いは晴れた。
そう分かっているのに、心臓がばくばくと鳴って頭が破裂しそうに痛かった。先程と同じように流れる冷や汗に、結局その日水心子は学校へ行けなかった。
──意識が浮上する。ぼんやりとしたまま目を開けると、視界に綺麗な寝顔が映って思わず頬を綻ばせてしまった。
指を伸ばして、その裸の肩にタオルケットをかけ直してやる。ちょうど彼も覚醒しようとしていたのか、それだけの接触なのに彼もまた目を開けた。
「……すいしんし、おはよう……」
「おはよう。身体苦しくないか?」
「うん、大丈夫そう……ありがとう」
ふにゃ、と笑うので、水心子も笑んで髪を梳いてやる。嬉しそうに擦り寄られた。
「……今日、だいじょうぶかい?」
窺う視線にああと頷く。心配してくれることが愛しかった。
「大丈夫だ。頑張ってくるよ」
なおも心配そうな瞳が切なくて、けれど心強くて、安心させるように瞼に口づける。清麿はすこしだけ身じろいで、ずっと想っているからと言ってくれた。
水心子は官能小説家をしている。その仕事の関係で、今日は出版社に赴かねばならなかった。
電車に乗るのは今でも正直、苦手だ。あの時のことを思い出すから。それでもパニック症状を起こさないでいられるようになったのは、清麿が心を常に傍に置いてくれているためだろう。
バッグの中には、彼のくれた『御守り』という手書き文字の表紙の二つ折りメモがある。中には彼の携帯番号と、『いつでもどこにでも駆けつけるから』の一文が書かれている。
それは文字通り、水心子には一番効く御守りだった。何があろうと彼がいつも自分を想っていてくれる。どうしても駄目になったら、またあの冤罪が起こったら、彼がすぐに飛んできてくれる。そう信じられることが一番水心子を守ってくれた。
バッグを抱えたまま、目的の駅について電車を降りる。自由になった前後左右にほっと息をついた。
「昨日、何かあった?」
冤罪事件の次の日、なんとか登校した水心子に清麿はそう心配そうに声をかけてくれた。
「単純に具合が悪かったわけじゃないんじゃないのかな……? 水心子、顔色悪いよ」
清麿の顔を見て安堵してしまう癖はあの頃からあったのだと思う。彼に言葉をかけてもらった時、視界がぐちゃ、と崩れた。泣き出してしまったのだ。
息を詰めた清麿が、少し風に当たろう、と手を引いてくれた。騒がしい教室を出て、窓の開け放たれた階段の最上段に上る。そこは階段下からは死角になっている場所だった。
「水心子。もう大丈夫だよ……話せるかい?」
もちろん言いたくなかったら無理しないでいいからね、と優しく続けられて、水心子の瞳はさらに雫を生んだ。
すべてを打ち明けた。昨日の冤罪のこと。今、女性を見るのが怖くて堪らないこと。話すうちに震え出した手を、彼はそっと取ってくれた。
「……頑張ったね。今日登校するのも、きっとすごく苦しかったのに……水心子、来てくれて、話してくれてありがとう」
怖くて当たり前なんだよ。大丈夫だよ。君はなにもおかしいところも悪いところもないのだから。──そう、静かでいて温かな声に耳を撫でられることが、本当に心を落ち着かせた。
のちに聞く話で、彼はあの頃すでに水心子のことを好きでいてくれていたのだという。『だから、僕の大好きな水心子になんてことをしてくれたんだ、って腸が煮えくり返ってた』と憤るのを笑ったこともあるけれど、水心子の中にも彼が真摯に傍にいてくれたあの時間に清麿への恋心は湧き出たのだった。それを認めるまで、酷く長く待たせてしまったけれど。
出版社の受付で担当者を待つ間、受付の女性と二人きりになった。
ただの沈黙が耳に痛く、かといって話をしたいとも思えない。次第に心臓が鳴り出した。脈拍が速くなり胸も痛んでくる。
バッグを抱え、脳内で必死に回した。──きよまろ、きよまろきよまろ。昨日抱いた彼の感触を、耳孔を撫ぜる彼の声を思い出す。清麿は水心子に触れられることを何も怖がらない、嫌がらない。うれしいと受け入れてくれる。昨夜はたくさん大好きと大丈夫だよをくれた。きっと今日のことを、考えてくれていたからなのだ。
『ずっと想っているから』
ふっと、強張っていた肩から力が抜けた。
そうだ、大丈夫。僕は何もしていないんだから。また冤罪をかけられても、信じ抜いて迎えに来てくれる清麿がいてくれるんだから。
目の前のエレベーターの扉が開き、馴染みの編集者がお待たせしましたと駆け寄ってくる。水心子も笑みを浮かべてそちらへ歩み寄り、受付を離れた。
──きよまろ、ありがとう、大丈夫だった。
彼に守られていると何度も思う。助けられていることばかりだ。清麿は居てくれるだけで水心子の救いだった。
電車とバスを降り、徒歩での帰路を辿っていると、ふいに向こうから手を振る人影。
「……清麿?」
「すいしんしー。あはは、迎えに来てしまった」
にこやかに笑うけれど、その瞳が窺うような心配を宿していて、水心子は思わず笑んで駆け寄った。その右手をそっと取る。
「大丈夫だった。……清麿のおかげで」
そう言うと、彼はほっとしたように笑ってくれた。歩きながら手が握り返される。
「よかった。……ねえ、今日のお話し聞かせてよ。打ち合わせどうだった?」
「実は……次の新刊の発売が決まったんだ」
「えっ、すごいじゃないか! よかったね、……でもまた忙しくなってしまうんだなあ……」
思い悩むように微かに膨らんだ彼の頬に、笑んだ唇のまま口づけた。さっと染まる薄桃が誇らしくて、堪らなくて。
「これから忙しくなるから、……その前に、今夜また、いい?」
すけべ、と拗ねた顔で返されるので、そのすけべが好きなくせにと笑ったら彼もまたそれもそうだと笑ってくれた。繋いだ手を強く握られる。
「僕に対してだけすけべさんな水心子、大好きだよ」
解ってくれている。認めてくれている、そのうえで愛してくれている。こんな幸福はない。清麿と一緒なら、きっと怖いことさえもそのうち霧散するだろう。
愛しさのままにまた頬に唇を寄せたら、彼はくすぐったそうに身をよじって『今夜より早くになってしまうよ』と笑い転げた。