(水麿)二人の夏(春鍋さんへ!)「では明日から夏休みな訳だが、危険な場所には近づかず気を引き締めて──」
担任教師たる長曽祢のまじめな声を聞きながら、暑さにぼうっとした頭で水心子は前の席の親友のうなじに浮かんだ汗を見ていた。
エアコンは一応ついているものの、なぜか快適なくらいには効かせてくれないのがこの学校だ。親友、清麿は暑さにも寒さにも弱い体質なので、今だって相当つらいだろう。──そう考える水心子自身だって、暑い夏はそれほど好きではなかった。
清麿に出会うまでは。
「……はい、では、これで終わりにする。課題と登校日を忘れずに、夏休み、楽しんでこい」
にっと笑った長曽祢に、元気な返事を合唱して教室は沸き立った。
夏休みが始まる。
清麿が、くるりと振り向いた。顰めた顔で、何を言うのかと思ったら。
「……すいしんし、暑いぃい~……。もうむりだよ、このあと徒歩帰宅なんて無茶だよ」
でろん、と液体のように水心子の机に突っ伏す薄紫の頭を、苦笑しながら撫でてやる。確かに外はまだ日が高く、日光はじりじりと焼くように熱い。
「頑張れ、清麿。送っていくから」
「自転車?」
「うん」
「二人乗りは禁止されているのに。……水心子は不良さんだ」
そんなことを言うくせに、表情はいたずらっぽく笑っている。不良ついでにさ、とこちらも笑って、長い横髪を掬ってやった。
「買い食いもしちゃおう。アイス、半分こしない?」
清麿の瞳が分かりやすくきらめく。吹き出して、二人立ち上がりショルダーバッグを肩にかけた。
学校近くのコンビニで、二人うんうん唸った末に二つに割れるボトルアイスのコーヒー味を選んだ。あまりにも定番すぎやしないかとも思うけれど、その定番がなんともくすぐったい。
イートインコーナーのないコンビニから出て、行儀が悪いと知りつつ、外のガードレールに寄りかかって二人アイスを吸い始めた。
「夏になると、思い出すんだけれどね」
清麿の声が楽しそうで、なにを、と尋ねたらにんまりした笑顔が向けられた。
「水心子、転校してきたばかりの僕が、長曽祢先生とお付き合いしているって勘違いしたことあったじゃない」
外の熱風、茹だる頭。忘れろ、と言っても清麿は話し続ける。
「忘れたくないなあ。あの水心子、本当に可愛かったもの」
清麿が転校してきたのは、一年の初夏だった。半端な時期の転校生だったのと、彼自身の華やかさに学年中がざわついたものだ。
水心子はたまたま学級委員をしていて、その縁で清麿とも接する機会が多く、そこから恋心なんてものもスタートしてしまった訳なのだけれど。
そんな折、担任の長曽祢と清麿の会話を耳にしてしまった。
『ねえ長曽祢、今日おうち行っていいかい?』
『こら、学校では先生だろう。……構わんが、何もないぞ』
『いいよ、材料買っていって適当に夕ご飯作っておくよ。そのまま待っているから』
休み時間の廊下。他の生徒に聞こえないように配慮された声。嬉しそうに笑う清麿。
──だって、会話の内容的に誤解しないわけがなかっただろう。水心子は隠れていたのを躍り出て、胸を焼くやきもちのままに長曽祢に向けて叫んだ。
『だ、……だめだ! 教師と生徒が、そんな、ふしだらな!』
そうして清麿の細い肩を引き寄せた。ぽかんとした目が二組向けられて、ぐっと息を飲みながらまた言葉を紡ぐ。
『貴方にっ……清麿は、渡さない!』
「君の行動力って、ほんとすごい。それまで告白なんてしてくれたこともなかったのに、いきなりあんなこと言うなんて」
「だ、だってさあ……! 二人の会話がよくなかったぞ! あれでは勘違いもする!」
「あはは、まあねえ」
渡さない、の言葉に二人は吹き出してしまって、何が起きたのか分からない水心子に清麿は面映ゆそうに教えてくれた。──二人が、異母兄弟だということ。
「でも結果、あれで水心子とお付き合いできるようになった訳だし。長曽祢にも認めてもらえたし、僕としては万々歳なのだけれど」
「いや、僕もそうだが……うう……恥だ……」
笑う清麿がアイスを吸う。ちゅう、と音がして、彼のすぼまった唇が薄茶色を飲み下していく。嚥下に動く薄い喉仏。
「……見つめすぎだよ、水心子」
ボトルから口を離して、清麿はそう微笑んだ。照れくさそうな表情に息を詰める。
「……ごめん」
自分のアイスを吸うけれど、もう溶けて液体になってしまっていた。飲料を飲むようにごくごく嚥下すると、清麿のほうもこちらを見つめて楽しそうに笑っていた。
しっかりごみ箱に放って、自転車に乗る。後ろに清麿も乗った。バッグはふたつとも前の籠に押し込まれてぎゅうぎゅうだ。
清麿の家はここから坂をずっと下ったところにある。徒歩通学の彼は『行きも地獄だけれど帰りも地獄』だとよく零す。確かに下り坂をずっと足に力を込めて歩かなければならないのはつらいだろう。
「でも、水心子に乗せてもらうと、あんなにつらい道のりが一瞬なんだ」
清麿はそう笑う。
「水心子は魔法使いだね」
自転車だからだろう。逆に上りは荷物になるし。──そう思うけれど、清麿がくれる言葉にはそれ以上に誇らしさが浮かぶのだ。高校を出たら車の免許を取りたい。そして彼を乗せて遠くへ連れていけたら、いったいどんな賛辞を送ってくれるのだろう。
別に車ほどお高くもない自転車は、引き続けるブレーキと二人分の体重で簡単に軋む。キィィ、キィィ、と甲高い声を上げながら進むのを、清麿はけたけたと笑って靴裏を地面に落とし擦らせた。その音との二重奏。
「擦り切れてだめになるぞ!」
「だめになったら、新しいの買いに行くの付き合ってよ!」
笑声を上げるまま彼が両腕で抱きついてくる。大した意味なんてないのかもしれない、ただ落ちないようにしているだけかも。そう思うけれど、それを無視して、水心子は恋人と過ごす二度目の夏を駆け抜けていく。
「あっ、ねえ今の見た?」
今の、とはなんだろうと首を傾げたら、どうやら電柱に貼られた貼り紙のことらしい。
「なんて書いてあったの?」
「夏祭り! 〇×神社って書いていた、それってどこ?」
「清麿の家の裏手!」
「えっうそ、知らない」
転校してきて一応二年目だというのに。しかし都会育ちだからなのか、清麿が清麿だからなのか、あまり近所の散策なんてしたことがないらしい。去年もあったよと教えてやると、数秒黙ったあと『そういえば、騒がしい日があったな、夏に』なんて一人ごちている。
「行きたい?」
問いかけながら、水心子自身も祭りに行ったのは中学のころが最後だったと気づいた。清麿が来てからは、行っていない。
「行きたい!」
風に邪魔されないように届く、清麿の不慣れな大声。時折語尾が掠れるのが慣れない証拠で、その声が『一緒に』と紡いでくれるのがくすぐったかった。だって今すれ違ったバイク、絶対聞いてたぞ。
「行こうか」
──いっそ、浴衣とか着ちゃう?
「なんだいそれ、最高じゃないか」
「決まりだな。じゃあ、その前に買いに行こう!」
「やった! デートの予定がふたつもできてしまった」
背中に清麿が笑う振動。なんだかずっと笑ってるな。僕も、君も、今が楽しくて仕方ないんだ。
けれど時間は終わりを告げる。下り坂が終わって、清麿の家がもうすぐ。名残惜しく感じながらブレーキをきつく引くと、清麿の腕の力がさらに強まった。
「きよまろ? 着い」
「……今日、ね」
そして清麿は顔を見せないまま教えてくれる。時間を終わらせない方法、教えてくれる。
「家族、帰らないのだけれど」
「……暑いね」
自転車を彼の家の敷地の端っこに停める。黙って降りた清麿だけれど、水心子が自分も降りて鍵をかけたのを見て表情を明るくした。
「ふふ。暑いよね」
けれど知っている、これからもっと暑くなることをする。
なんだか堪らなくなってしまうのはなぜだろう。鍵を開ける彼をじっと見つめたら、今度は見すぎなんて言われずに微笑み返された。
「……君といたら、夏なんて毎日お祭りだなあ」
──あー、かわいいかわいい。僕だけのかわいい恋人。先生になんてやるもんか。
靴を脱いで、揃えようとしゃがみ込んだところに後ろから抱きつかれる。うなじをスン、と吸って、『すいしんしのにおいだ』なんて嬉しそうに笑う君のことを、僕は夏が終わったってどうなったって放したりなんてしないんだからな。