(堀清)刺せないクラゲ ちいさな水泡がふつふつ上っていく気配のする、なにも見えない海の底。
ここが僕の世界だった。
「ほりかわー、なんか浮いてる」
清光の声に呼ばれて、水中を覗いていた顔を持ち上げると盛大に水が滴った。ぷぁ、と息をして、傍に立つ彼の指さすほうを見やると一見ビニール袋のようなもの。
「クラゲだね。危ないよ」
「えっやだ」
「こっちおいで」
腰に腕を回して引いてやると、彼は慌てた様子で飛びついてきた。浮遊するクラゲがたった今まで清光がいたところを通って、向こうへ離れていく。
「やだー……クラゲって刺すやつだよね。怖。ありがとほりかわ」
安心して笑う彼に微笑み返すと、『なにしてたの?』と問われた。
本丸の皆で海に訪れて、大多数は少し深いところまで泳ぎに出ていて、少数の海に苦手意識を持つものや保護者たちは浜辺のテントの下にいる。そんな中、浅瀬でただ海中を覗き込んでいた堀川は確かになにをしているのか分からないだろう。
「海の底を見てたんだ」
「なんで?」
「僕が……沈んだ記憶のあるのも、どこかの海だったから」
清光が、すとんと真顔になる。堀川は苦笑して、彼の腰を抱いたままの手を軽く握った。
「たぶん、錆びが進んでいって、だんだん意識は薄れていったんだけど。でも、あそこで僕、ずっと色んなことを考えてたんだ」
まだ幼かった仲間の刀の付喪神たち。相棒の兼定や、局長刀として強くなろうとしていた長曽祢、懸命にあの頃の主の背を追っていた安定。
そして、あの日守ることができなかった、物言わなくなった加州清光。
「……君のことに関しては、後悔がひどくてさ。どうやったら守れただろうって、何度も何度も心の中で時間遡行をした。……折れるなんて、思ってもなかったから」
「……そーね」
ゆっくり頷く清光は、うっすらと笑っていた。自分自身が折れたことで一度生を終えた彼は、案外理解と整理が速い。他のことでなら揺らぐことも多いのに、自身の状況が悪いという場合には驚くほどあっさりとすべてを飲み込む。諦めるわけではないけれど、抗わないのだ。
逆に彼に残された側の堀川のほうが、現状に抗う気持ちは強かったかもしれない。けれど肉体を持たなかったから、『なにもできない』状況が後悔を生んだ。そしてそれが空想を加速させた。
『もしも肉体があったら』『助けられたなら』
そんなことばかりを海の底で考え続けて、その意識も消え細る火のようにゆっくりと消えていった。
「僕らって、……もう、どこにもいないのかな」
そう、呟き落とした。折れた加州清光と消えた堀川国広を映し、水面は等しく揺れている。
「ここにいるけどね」
顔を、上げた。寄り添う清光が、どこか得意げにこちらを見て笑っていた。
その腕が、堀川の腰をぐっと抱く。
「俺とお前はさ、今、主に顕現させてもらって、肉体を持って、ここの海に立ってるんだよ」
お前は今どこにいる? ──そう聞かれて、あんぐりと口を開けるように答えた。
「ここ、……清光くんの、隣」
「でしょ?」
あははと、いたずらっぽく笑う加州清光。あの日折れた子。
あの日折れたあの子が、今、堀川より背が高くなって、海にいて笑っている。
「……はは、」
なんだろうこれは。仲間たちの笑声。クラゲが刺せなかった君。腕の中に在る。
なんて上等な日々なんだろう。
「……しあわせだね」
「今更? おまえ、顕現何年目だよ」
泣き出してしまいそうなのは仕方がないんだよ。ずっと考え続けていたんだ、海の底で。
こんな世界線がないのかって、ずっと夢見ていたんだ。
砂浜のほうから、休憩を呼びかける声。上がるかあ、と清光が口にした。
「ジュース飲みにいこ」
「……太るからって避けてたのに」
「ばーか、いいの、特別な日はいいの!」
ざぶざぶ波を掻き分けて上陸する。片腕で腰を抱き合ったまま軽口を叩いて。そんな堀川と清光を見て、仲間たちが『仲良しだなあ』と笑う。
──笑っていてください。いつまでも。戦いが続けとは言わないけれど、できることなら永遠に本丸が続いてほしい。
僕と君の居場所のここで、どうか数えきれないほどの、煌めく時を。
清光がラムネの瓶を投げて寄越す。
その放物線も、放つとき見せる君の笑顔も、すべてを守るために、僕はあの海を出て今この時を生きていく。
海の泡を飲み干すように、ラムネの瓶を呷った。
あの日の海水よりも、ずっと甘くて、なんだか目頭が熱かった。