(水麿家族パロ)すてきなおうち 腹が痛いのだか腰が痛いのだか、いやもう全身が痛いのだ。
息が苦しいまま分娩台に乗って、清麿は必死に喘いでいた。その手が握られる。霞む目を向けた先に、涙目の水心子がいた。
「きよまろ、がんばれ」
「いきんで!」
医師の、助産師たちの声に必死に応じる。息を吐きながら力を込めた。
『妊娠……僕が』
新たな命を告げられたあの日、心を覆ったのは絶望に似た思いだった。
相手なんて一人しかいないのに、そのたった一人にどうしても伝えたくなかった。伝えればきっと大喜びして、抱き上げてくれようとして身重なことに気づき慌てて手を放して、『ごめん、嬉しすぎて』なんて言って泣いてくれる。……そんな明確なビジョンすら浮かぶのに、それは絶対に起きてはいけない未来だと唇を噛んだ。
大学在学中の妊娠なんて、水心子にとんでもない負担を負わせてしまう。将来が変わる。こんなどうでもいい源清麿ごときのために。
だから逃げることにした。知られないところで産もうと思った。
けれど、まだ物言わぬ腹を見るたび、ここに宿った子供の存在は決して『どうでもいい』ものではないのに、という思いも強まる。申し訳なさで頭の中がぐちゃぐちゃになった。
清麿は施設で育ったから。孤児であることが当たり前だったから。その業を、子供にまで押し付ける羽目になってしまうことが心苦しくてつらかった。
……それでも、君だけは守ってみせる。さみしい思いは絶対にさせないようにする。君の父親は優しい人だから、愛にあふれた人だから、きっと君もそちらに似るよ。大丈夫、絶対に幸せになれる。君ならきっと。
──でも、僕は、だめだなあ。水心子がいないと、きっと、ずっとさみしい。
だって空っぽだった僕に、満たされて溢れんばかりの愛情を注いでくれた、たった一人の人だったから……。
そう思って、ずっと、俯いていた。夕日がきれいなだけの知らない土地で。
でも、迎えに来てくれた。
僕を世界で一番さみしくする君が、そのさみしさを許さないという顔をして。
「──きよまろ、がんばれ、がんばれ!」
まるで走馬灯のように想起された日々が、笑えてしまうくらいの力をくれた。
頭が出てる、もう少し! 叫ばれる声を必死に聞いて、水心子の手を配慮すらなく握りしめて。
その果てで、身体の感覚がするんとなくなったような感覚がした。
──あれ、どうなったんだろ。もう力が入らない。そう思って周囲を見た時、赤子の泣き声が響き渡った。
ぎゃあ、ぎゃあ、と一定のリズムで泣くそれが、産声なのだと気づいたのは、水心子が興奮した面持ちで声をかけてくれたからで。
「産まれた! 清麿、ちゃんと泣いてる!」
頑張ったね、すごいよ。そう言って彼は涙を零した。上がった息とぼうっとした頭でそれを見つめる清麿の胸に、ちいさな赤ん坊が届けられる。
「女の子です。元気に産まれてくれましたよ」
「……あ……」
熱い頬と触れ合う。そこから沁みた熱が、じわじわと実感を押し広げた。
「……産まれてきてくれたのかい?」
答えるかのように、あう、と彼女は一際高く泣いて、かすかに身じろぐ。
「……すいしんし、ぼくらの……」
こどもだよ、と続けたかったのに、意識がふっと頭の後ろへ引っ張られる感覚がした。頭の後ろには支える分娩台しかないのに、変だな。
そう思ったまま、吸い込まれるように目を閉じた。
しあわせって、いつもこわい。
だから、水心子がくれるものは、いつだってこわいものばかりだ。彼といると恐怖しか感じないようなもので、でもその恐怖をこそ幸せと呼ぶのだと、最近になってやっと理解できてきていた。
望まれて産んだ子供なんて、その『幸せ』の最高潮だろう。こわくてこわくて堪らない。
──でも、この先があるのなら見てみたい。……なんて、僕はどうして思うようになってしまったんだろう。こわいことに、慣れてしまったのかな。
これからも、慣れていけるのかなあ……。
「きよまろ」
今度は吸い出されるような感覚で目を開けた。その時視界いっぱいに水心子の顔があったので、あれ天国にでも来てしまったのかなと一瞬思った。
「きよまろ、大丈夫? 分かる?」
「……すいしんし……」
呼びかけた瞬間、彼の目にぶわりと雫が浮かんだ。閉じられた目からそれがぼろぼろ落ちるので、慌てた手を伸ばして拭う。
彼はしゃくりあげるように泣いて、清麿の頬に触れてきた。
「……っ、赤ちゃん、産まれたあと、清麿気を失ってたんだ。お医者さんとかは疲れただけだって言ってたけど、悪いところないし大丈夫だって言ってたけど、……ひとりに、しちゃったのかと思って」
「すい……」
「赤ちゃんだけ僕に届けて、君がまた本当に独りになっちゃうのかと思って! こわかった、……すごく怖かった、きよまろ……」
清麿の目尻からも涙が落ちた。彼が崩れるように胸元に顔を寄せてきて、その頭を抱いてやる。
「……ごめんね、大丈夫。僕はもうどこにも行かないよ……二人を守るために、ずっと、一緒にいるよ」
うん、うん、と水心子は噛み締めるように頷いた。
ふと、先程こうやって同じように胸に抱いた我が子を思い出す。見回した病室にはいないようだ。
気づいたらしい水心子が、大丈夫、と鼻をすすりながら身を起こす。
「清麿が起きるまでってことで、新生児室にいるよ。ちゃんと元気な女の子だ。……あっ、そうだナースコール押してくれって言われてたんだった」
彼がばたばたと動き出すのを、ベッドの上から見つめる。
ナースコールで看護師と会話をした彼に、そっと呼びかけた。すこし腫れた目がこちらを向く。
「……ありがとう、一緒にいてくれて」
そう伝えると、彼はくしゃくしゃに笑った。
「ありがとう、一緒にいさせてくれて」
「ただいまー」
「おかえり。……はあ、やっと三人水入らずで生活できるー」
退院して帰り着いた自宅、ソファに荷物を仮置きした水心子が心底嬉しそうにそう漏らすので、清麿は笑ってしまいながら、腕の中の我が子に部屋の中を見せた。
「ほらまひろ、ここがおうちだよー……これからずっとここに帰るんだよ」
名付けたばかりの娘の名を呼んで、そう言って歩いていたのを、ふいに水心子の腕に抱きしめられる。ぐす、と鼻をすする音。
──そうか、幸せを怖いと思うのは僕だけではないんだ。君もきっと怖いんだよね。そうだ、言っていた、正しく怖がれているうちは大丈夫なんだって。
これが、正気の証なのだろう。幸せが怖いものだなんて、知らなければ怖いものもなかったということだ。けれど、今の清麿は、怖がれていることを嬉しいと思う。
そう作り替えてくれた、たった一人の夫にもたれると、赤子があう、と声を上げた。
二人で、破顔する。この子がこれからずっと僕らの間にいてくれる。そんなとんでもない素敵に感動して、笑い声はきっとどこまでも続いていく。