(水麿家族パロ)酒の失敗談 今年も暮れが近づいてきて、この季節となってしまった。つい顔を顰めながら書状を清麿に差し出すと、文面を見た彼もまた難しい顔になる。
「そうか、今年はあるんだね……」
「そうなんだ……去年はなくて助かったと思ってたのにな」
両親が一枚の紙を見つめて渋面をしているのを不審に思ったのか、娘のまひろが首を傾げて近寄ってきた。
「どうしたの、なにがあるの?」
そう問われて、夫婦視線を合わせる。うーん、と清麿が口を開けた。
「忘年会、っていってね、会社に一緒に働いている人たちで、今年もお疲れさまでしたってお食事会をするんだよ」
「そうなの……パパ、それ、いやなの?」
たのしそうなのに、と続けて、大きな瞳で見上げられる。そうされてしまうと、なんだか己が酷くちっぽけな人間なようで情けなくなってしまうのだ。言葉に詰まる水心子をフォローするように、清麿がまひろの頭を撫でる。
「お友達とするお食事会ではないからね。苦手な人も来るし、お仕事としてのお食事だから、嫌なこともけっこうあるものなんだ」
へぇー、と分かったような分からないような表情でまひろは頷く。たとえ分かっていなくとも分かろうとしているのだから、幼い子供の学習能力というのはすごいものだ。
清麿が眉を下げてこちらを向く。
「水心子、素面でいるのもつらいだろうけれど、お酒は控えてね」
「分かってる。……はあ、やだなー……」
なんだか考えるのも億劫で、半ば現実逃避のような気分でまひろの髪を梳く。彼女はまた分からないことを見つけたのか、ぱちぱち目を瞬いた。
「パパ、おさけ、のまないの?」
なるほど、それが不思議らしい。確かに水心子は家にいればたまには夫婦で晩酌したりもする。飲めないわけではないのを知っているので、疑問に思ったのだろう。
清麿も合点したように、ああ、と声を上げた。
「そうか、そうだよね、まひろが憶えているわけはないのか」
その言葉にさらに娘は首を傾げていく。そうなのだ、彼女が知るわけはない。事件は三年も前に起こった。
しかし自分から教えたくはない話で、俯く水心子に代わるように、苦笑した清麿が過去を紡いだ。
元々忘年会の類は好きではなかったけれど、社会人になってその気持ちはさらに強まった。家に妻とまだ幼い我が子を残していると思えばなおのこと、半強制的に参加させられている飲み会が負担で堪らなかった。
上司と、できたばかりの後輩に左右を挟まれて、『飲んでいるか』『飲みましょうよ』の応酬に遭い、仕方なしにちびちび飲んでいるうちに出来上がってしまったのが悪い。水心子は、盛り上がった宴の席で、突如として号泣してしまった。
『ど、どうした』
慌てる上司に泣きじゃくったのを、自分自身でも憶えている。
『だって、だって、きよまろとまひろが傍にいないんだもんっ……わぁあん、きよまろ、きっと疲れてるのにいい……!』
目の前で泣かれた上司が、慌てた様子で水心子の同僚に『きよまろって誰だ』と尋ねた。奥さんです、と返されて、ああなるほど、と口にはしてもその人は慌てたままだった。
『そうか、子供が小さいんだったね……い、いいよ、もう帰ってあげなさい』
『ほんと!』
ありがとうございます、で頭を思いきり下げた水心子は、テーブルに頭突きをしてしまった。がちゃんと派手に鳴った音にその場の全員が呆気に取られて視線を集め、口々に囁き合う。
『誰だあんなになるまで飲ませたの』
『水心子さんって酔うとああなるんだ……』
『真面目な人酔わせちゃだめだよ……』
その声もその時は頭に入っていなくて、水心子は帰るべく立ち上がったけれども盛大にふらついてしまう有様で。見かねた同僚が清麿に連絡を入れてくれたのだが、電話を受けた彼は困り果ててしまったという。なにしろ彼には自家用車どころか免許もなく、腕には寝かしつけようとしていた娘を抱えたままだった。タクシーを呼んで迎えに行くにも骨が折れる。
途方に暮れた彼が頼ったのが、水心子の大学の先輩の肥前だった。
『なにしてんだテメエは……!』
居酒屋まで迎えに来てくれた彼は、顔を合わせるなりそう言って額を押さえた。しかししっかり支えて車に乗せてくれて、水心子の自宅まで送り届けてくれたのだ。
家のドアが開いて、清麿の顔が見えた瞬間、水心子はまた泣いた。
『きよまろぉ……!』
『わっ、わ、どうしたの』
飛びついたのを抱きとめてくれた彼が、狼狽しつつも肥前に礼を言う。『そんなもん言わなくていいからもう二度と外で飲むなってそいつに言いつけとけ』と早口で言い置いて、肥前は肩を怒らせたままドアを閉めて行ってしまった。
泣きじゃくるままの水心子の背をぽんぽん撫でて、清麿はどうしたのと案じてくれた。
『水心子、こんなに酔うこと今までなかったのに。珍しいね』
そのまま玄関に少し腰を落ち着ける。縋りついた身体から、最愛の妻の匂いが沁みてすこしずつ心が落ち着いてきて、水心子は鼻をすすって答えた。
『だって……忘年会、とか、してる暇あったら、家に帰りたくて……そうしたら、きよまろとまひろと一緒にいるじかん、増やせるのに、って、思ったら』
なんだかすごく悲しくなって。そう紡いでいるうちに、ふと気づいて問いかける。
『まひろは?』
やっと目を開いて顔を見た時、清麿は苦笑してしまっていた。今寝ついたところだよと教えられ、そっかと頷くけれど、起きているうちに帰ってこれなかったことが悔しくてまた涙が浮かぶ。そんな水心子を彼は抱きしめてくれた。
『……いつも、僕たちのことを考えていてくれて、ありがとう。大好きだよ』
『きよまろ……』
『でも、心配だから、これからは外であまり飲まないでね』
僕一人では迎えにも行ってあげられないから。
うん、と頷いて、清麿を抱きしめたまま目を閉じた。温かな熱とやさしい声。
そこまでしか水心子は憶えていない。
「簡単に言うとね、水心子はストレスで……そうだね、嫌な気持ちの時に飲んだお酒だと、酔っ払ってしまうのがとても早いみたいなんだ。それも悪い酔い方をしてしまうみたいで……だから、会社の飲み会ではお酒は飲まないようにしているんだよ」
清麿の説明に、まひろは納得した様子だ。そうしていたたまれなさで顔を背けていた父親のほうを向く。
「パパ、いっぱいたいへんなんだねぇ……」
同情されているのがつらい。うううと唸ると背中を清麿に慰めるように撫でられた。
「……ほんと、あのあと周りの目がすごくって……。次の日謝罪行脚だったし、もう絶対外で飲まない」
零しながら、そうだ絶対飲まない、と改めて誓う。あの日、早く帰ってきたものの潰れてしまったせいで結局清麿の手を煩わせた。しこたま酔おうが己は記憶をなくすことはない性質らしく、乗った覚えのない寝室のベッドで目を醒ました時は自己嫌悪で死にたくなったものだ。さすがに抱えて運ぶのは大変だったよ、と笑う清麿に頭が上がらなかった。
酔っ払う父の姿など、娘には見せたくはない。もう二度とあんな醜態は晒さない。
しかしそんな誓いを愛娘は無邪気に弄る。
「わたし、でもみてみたいけどなー! よっぱらってないちゃうパパ」
ぜったいおもしろい、と笑う彼女は、なんだかとても大物な気がする。面白いとかではないんだよ、と宥めて、清麿が食卓へ促した。
「今夜はビーフシチューだよ。まひろが手伝ってくれたプリンがデザート」
「へえ、まひろ作れるもの増やしててすごいな」
「えへへ、ママがほとんどやってくれたけど」
三人で笑ってテーブルを囲む。そのたび思うのだ、やっぱり家が一番だと。清麿の料理がこの世で一番のごちそうだし、それを手伝ってくれたまひろの話を聞けるのが嬉しくて堪らない。外食も清麿の負担軽減のためにはいいけれど、正直な本音を言えば、毎日一生彼と娘の手料理を食べていたいのだ。
そうだ、と清麿が笑う。
「今度、肥前や南海先生も呼んで、内輪の忘年会をするのはどう? 家でやるなら水心子も飲めるだろう?」
「えっ! ひぜんくんとせんせいよぶの!」
まひろは絶対楽しいと大興奮だ。しかし水心子はすぐに頷けなかった。清麿の目を覗き込む。
「でも、清麿が大変だろう。僕も飲まないで手伝うから」
「そんなのいいんだよ」
破顔した清麿が、すこしの曇りもないままに視線を送り返してくれる。
「水心子だって、息抜きしなければ。いつも気を遣っていたら潰れてしまうよ。僕は見ているだけで楽しいから、ね、君もその日だけでも楽しんで」
目頭が熱くなる。清麿はいつもこうやって、水心子のことを気遣ってくれる。
絶対にお返しをしよう、と心に決めながら、まひろのほうを向いて『みんなで忘年会、しようか』と声をかけた。彼女はぱあっと表情を明るくして、大きく頷く。
「やった! ひぜんくんとせんせいなら、パパもイヤなおしょくじかいじゃないよね!」
たった五歳の娘まで気遣ってくれていることがなんとも面映ゆく、そうだなと笑って頷いた。
直後、クリスマスでもいいかも、と言った彼女に、クリスマスは家族水入らずがいいと頑なに主張して清麿を呆れさせてしまったのだけれど、それもまあ、家族の笑い話になるはずなので。