(水麿家族パロ)頭痛ではじまる いつも通りに目覚めたつもりだったのに、起きた瞬間に己が普段とは違うことが分かった。頭がずきずきと痛くて、なかなか身体を起こせない。
──ああ、久しぶりにきてしまった、頭痛。
水心子と結婚する以前は癖のようにあったものだった。最近は幸いにぐんと減っていて、きっと娘を産んだおかげで体質が変わったのだと楽観していたのだけれど。それはそうだ、簡単にすべてなくなってくれるわけもない。
娘を挟んで横で眠る水心子を、薄目を開けて見た。健やかそのものの寝顔は近頃すこし精悍になって、こちらを向いて寝息を立てている。……巻き込む、わけにはいかない。
ベッドに懐いてしまった己を奮い立たせようと、頭の中で『せーの』を唱えてやっと起き上がった。その瞬間も頭がずきんとして、顔を顰めてしまったけれどこのままではいけない。すぐに顔を洗いに立って、目を醒ますために冷水を使う。耳が、きんと冷えた。
早く薬が飲みたいけれど、空腹での服薬はまずいだろう。歯を磨いて、痛む頭を押さえながら台所に立った。ともかく家族の朝食を作らなければ。清麿自身だってそれを食べれば薬が飲める。そうしたらきっと楽になるはずなのだ。それまで、我慢、しなければ。
ハムエッグを三人分作るうちに、卵を割る瞬間にずきんと痛みが走って、ひとつの黄身が破れてしまった。顔を顰める。いつもならしない失敗が、久方ぶりの頭痛の威力を物語っていた。
「おはよー、清麿」
「ママおはよー!」
水心子とまひろが起きてリビングにやってくる。慌てておはようと返すと、二人は手を振って洗面所へ入っていった。
危ない。まずかった。変な顔をしているのを見られようものなら、あの二人には簡単に気づかれるだろう。特に水心子は清麿の頭痛が酷かったころを知っている。
あのころ清麿は、発作のような頭痛に見舞われては大学を休むことがあるくらい、痛みに負けていた。治まるまで起き上がれないことだってたくさんあった。そのたび水心子は大学から、何度も様子を窺って電話やメールをくれていた。
けれど、社会人になった今、彼に同じことをさせるわけにはいかない。隠すしかない。幸い朝の時間を終えればすぐに水心子は通勤だ。まひろも幼稚園に行く。それさえ乗り切れれば、何時間かは横になっていられるはずだ。
ハムエッグの皿を三つ並べて、牛乳を注いだグラスも三つ、その横に置いた。ご飯を茶碗に盛っているうちに二人が戻ってきて、『いい匂い』と言いながら席につく。
水心子が、きょとんと清麿の皿を見た。ああ、そうだ、目玉焼きが割れていたのだった。珍しそうに眺められることにひやひやする。
「ハムエッグだー、なにかけてたべようかな!」
まひろが元気にそう言うので、すこしほっとして『お醤油でもケチャップでも美味しいよね』と笑った。笑う、そばから、ずきんと頭に響く。けれど顔に出してはいけない。
二人の負担になりたくない。その思いだけが清麿を動かした。
食後、二人に見えないところで薬を飲んだ。これで多少は楽になるだろう。
会社へと家を出る水心子を見送ると、彼はなんだか違和感を持ったような顔をこちらに向けてきていた。悟られまいと笑って、清麿は娘と一緒に彼にいってらっしゃいをした。
思わずふう、と息をついた時、まひろがじっとこちらを見上げて口を開けた。
「……ママ、なんかへん」
肩が強張る。そうだ、この子だってとても聡い子なのだ。まだ気を抜いていいわけではない。
「あはは、そんなことないよ。さて、幼稚園の準備だー」
明るく笑って彼女を抱き上げる。また走る痛み。どうやらまだ薬は効かないらしい。効くまでの我慢だと思いながら、不審そうにしている娘の支度を手伝った。
幼稚園のバスを見送る。やっと肩の荷が下りて、ふらつきながら自宅に戻った。ソファにぽすんと横たわる。頭痛が治まる前に、吐き気も出てしまっていた。これはすぐには動けなさそうだ。
けれど、もういいのだ。二人のことは見送ったから。己はきちんと『妻で、母の清麿』を果たせただろう。もう休んでもいい。痛む意識を、放り捨てるように手放した。
とても長く寝ていた気がした。
気持ちいいな、と思ってから、頭がひんやりとしていることに気づく。額を冷やされているのだ。自分で何かをした覚えはないのに、どうして……。
薄く開けた目を、次の瞬間に見開いた。そこには渋面の水心子がいた。
「……え? ど、どうして」
会社は、と尋ねると、彼は難しい顔のまま『休んだ』と返した。
「……清麿、やっぱり具合悪かったんじゃないか。頭痛だろ? もしかして、起きた時からずっとあったんじゃないのか?」
「な、なんで」
「分かるよ……分からないと思ってたのか……、見くびるなよ」
言っておくけど、怒ってるからね。そう冷えた声が降ってくる。呼ばれるように、清麿の心も冷えた。
「ごめ……」
「なにがごめん、なんだ。なにを怒られてるか、本当に分かってるのか?」
声音は硬く、厳しい。なにも知らない誰かならば萎縮して恐怖さえ感じるだろう。けれど、清麿は、そうなるわけを知っている。
そっと、両手を伸ばした。水心子の頬に触れ、包む。その瞬間彼の瞳が揺れたから、これで、たぶん間違えていない。
「……僕が、君に、体調が悪いことを隠したから。君に、隠し事をして、軽んじてしまったんだよね。……ごめんね。負担になりたくなくて……でも、結局もっとよくない結果になってしまった」
「……きよまろ」
「ごめんね。君はいつだって、頼ってって、言ってくれていたのに……。ごめんね、……ごめんね」
「きよまろ」
ソファに横たわったままの身体を、水心子がぎゅうと抱きしめてくれる。温かな腕はなにより安心するものだった。
「……僕も、ごめん。体調が悪いのに、怒ったりして」
「そんなことない……、怒ってでもくれなければ、僕、分からなかったかもしれないし」
ね、と微笑み髪を梳くと、そっと顔を覗き込まれた。
「まだ痛い? 病院行く?」
「ううん、薬が効いたみたいだ。それに、水心子がこれ、貼ってくれたんだろう?」
自分の額に触れると、薄いジェルシートが貼られている。冷やすためのものだ。清麿の頭痛が、冷やすと楽になるのだと知っている水心子だから、してくれたこと。
首肯する彼の頬を撫でて、わがままを伝える。……わがまま、なんて、幼いころは絶対に言えなかった。それを溶かしてくれたのは、他の誰でもなく水心子なのだ。
「家で、……水心子に、一緒にいて欲しいな」
彼は泣き出しそうに『うん』と頷いて、清麿の腹に顔を押し当てた。
「……戻ってきて、清麿がここに寝てるの見た時、……まひろが産まれてすぐ、君が意識を失ったのを思い出した。……こわかったんだ、今度こそ、本当に目を開けてくれなくなるんじゃないかって」
「……そうか……」
ごめんね、と頭を撫でる。丸い後頭部が愛おしい。こんなに大切な夫に、そんな恐怖を与えてしまったことがつらくて仕方なかった。
「ね、清麿、痛いのぜったいに隠さないでね。苦しいのも全部。……じゃなきゃ、僕は自分が大嫌いになっちゃうよ……」
清麿の腹部に顔を埋め、そう呟く水心子の頭を、両腕でいだく。今日の自分の罪の重さを自覚しながら、もうぜったいにしないよと囁きかけた。
水心子がすこしだけ嗚咽するのを、その愛のかたちを、心身に受け止めて。
「ママ、ぐあいだいじょうぶ?」
まひろがソファに飛んでくる。幼稚園からの帰りのバスを出迎えにいった水心子が、苦笑しながら戻ってきた。
「まひろも気づいてたって。絶対どこか具合悪いって思ってたってさ。……清麿、隠すの下手になったね」
「あはは、……ふふ、そうなのかな」
清麿も、隠し通すことが下手に変わったのはあるのだろう。けれど、きっとそれだけではないのだ。見通してくれる相手が、二人もできた。そういうことかもしれない。
そんな幸せはないと思う。ありえない、と思ってしまう幸福が、たくさん清麿に降り積もる。その恐怖も、いつかきっと、固められた地面のように当たり前になっていくから。
「今夜はパパのオムライスだからな。あんまり期待しちゃだめだぞ」
「えっ、パパのオムライス! まえにいってたやつ! やっとかんねんしてつくってくれるの!」
「観念して」
清麿が吹き出して笑う。それだけで、二人もつられて笑ってくれる。こうやって幸せも楽しさも伝染していく。それは、きっと、家族だから。
起き上がって、せっかくだからと提案する。
「つまようじとマスキングテープで旗を作って、オムライスに刺すのはどう?」
水心子とまひろが、目を煌めかせて振り返った。
「天才……!」
そう声を揃えるところも、そのきらきらした素直な瞳も、瓜二つな僕の宝物。