タイムパラドクスゴゴフシ♀ II 『未来からの来訪者』***
「散開しきらない程度に固まって行動しつつ、索敵は手分けしよう。伏黒はミドルレンジを、私はロングレンジに網を張る。接近してくる敵の気配には、虎杖が対処してくれ」
「うす!」
「なー俺だけ暇なんだけど、めぐみのケツで遊んでていい?」
「セクハラは後にしてくださいドブカス先輩」
後ならいいんだ…いいとは言ってない。ともあれ四人のうち三人は注意深く呪霊の気配に神経を尖らせ、廃工場の暗がりを進む。あまりの戦闘担当は退屈そうに欠伸を繰り返していた。しかし、一向に見つからない。
「ふぁーあ、お前らトロくさすぎ。ご自慢のワンちゃん&呪霊ちゃんも大したことねえなぁ」
「じゃあアンタならできるんすか」
「おっ 頼っちゃう? 恵ちゃんがどぉーーーーしてもって言うなら六眼パワーで隅々まで霊視してやらんこともなくてよ?」
「夏油先輩、俺少し外します。外に出て鵺も飛ばしてみたいですし」
「うん、行っておいで。私はもっと小型の呪霊を放ってみるかな……」
むしすんなー!! そんな叫びを背に受け、受け流し、伏黒恵は式神を伴って単身廃工場の別ブロックへと消えた。しばらく無言で歩を進める、そのしなやかな脚に白い犬が心配げにマズルをすり寄せてきた。伏黒はここでようやく今日初めての微笑をこぼし、膝を折ってともがらの頬を包み込んでやった。
「悪い、心配かけてるよな。…自分でも意固地になってるのはわかってるさ。どうも、あの人の前だと我を忘れちまいがちだな、おれ」
「くぅん」
「……あんな売り言葉、いちいち本気に取る方がバカなのにな」
よぎるのは、あの校舎裏。毎度のことながら浴びせられる罵倒の数々。その中でも、密かに胸に刺さる特大の棘。
『お前、ほんっとかわいくねーのな』
「…………べつに、可愛くなくたって生きていける」
齢十五年、うち半分以上を呪術師になるべく高専のツテから派遣された術師により鍛えられた彼女には、生来の性分もあって見目を気にする機能が欠落していた。だけど最近は少しだけ、彼の言葉がささくれて残るのだ。
「…もし俺がもっと女らしくて可愛かったら、先輩はおれのこと――」
「ぐるるるる……ワンッ!!」
不意に足元の玉犬が唸りを上げた。何事かと殺気の矛先を追えば――捻れた道化師が宙に浮く。そこらの端材や鉄パイプを継(つ)いで接(は)いでめちゃめちゃにねじり固めた体躯に、不均等なメイクが塗りたくられただけの、手作り感に溢れた異形だった。道化呪霊の癒着した腕には大事そうに鏡が抱き込まれ、ちょうど伏黒を映し出すように構えられていた。
「、しまっ――」
咄嗟に回避行動をとったが、一手遅かったことは伏黒自身がよくわかっていた。『なにか』が身体から抜き取られる――否、写し取られるような、ぞわぞわとした虚脱感が皮膚の下から剥がれていった。
「(何をされた!? 精神干渉系って見立て、だが俺のアタマにゃさして自覚症状はない…)」
ぐっぱと拳を握っては解き、体の自由と呪力の流れに澱みがないことを確認する。異形の抱える鏡には、すでに伏黒の姿は映っていないが……最初の時にはなかったはずの妖しい光を薄ぼんやりと放っていた。明らかに何らかの術式を発動中と言った様子に見て取れる。
「(写し取られる、奪い取られる……記憶を抜かれたか? 消去、改変食らってるとするとちと厄介だぞ…!)」
「――に、やってんだバカ恵!! 伏せてろ!!」
背後から駆けつける靴音、そして目にも止まらぬ閃光が伏黒の傍を駆け抜ける。
「っ五条先ぱ……」
「お前、俺の目の届かねえところに行くといつもコレだな! 危なっかしいったらねえ…!」
「……っ、」
まただ、また弱いと失望された。伏黒の秘めた想いにヒビが入る。
「(よわくて、憎まれ口ばかりで、かわいくもない。こんな俺なんて――)」
五条の想いが伝わらないのは、受け取る側にその用意がないからだ。脈がないのでは無く……むしろ、彼の向けるものと惹かれ合う磁石を胸に秘めているからこそ、自信のない己があの五条悟から求められているだなんて信じられなかった。
「すみません、大口叩いて結局これだ。こんなの、先輩から幻滅されて当然…」
「バカ、弱音吐いてる場合か! 今は報告を優先しろ!」
普段おちゃらけている癖に、仲間の危機に瀕して真剣に研ぎ澄まされる横顔が好きだった。身の丈に合わない恋だと思う。だから墓場まで持っていくつもりだった。なのに彼はお構いなしに構ってくるから――傷ついただけ分厚くなる瘡蓋のように、少女の胸では思慕が制御できずに育っていく。野次馬からの楽観視とは剥離して、伏黒恵の片恋は、本人の殻の中で日々悲鳴を上げていた。無論、おくびにも出さないせいで目の前の彼には全然伝わっていないのだけれど。
「お前、何かしら被呪くらったろ、自覚症状は――」
「っ、眩し…!?」
突如、廃工場の闇を裂くまばゆさが道化の鏡から放たれる。それに呼応するようにして、道化の体躯もまた、廃材を増やして体積を肥大化させた。見るからに、パワーアップしたようだが。
「チィッ! なんかやべえ、とにかくここで片付ける! 術式順転――『蒼』!」
虚数の奈落が空間を削ぎ取り、廃工場の手狭な一角を潰していく。その中央にしっかりと捉えられ、呪霊はひとたまりもなく消し飛ぶ――かに見えたが。
「はあ!? 無傷、なんで!?」
砂煙が晴れるのを待たずとも、五条の霊眼には敵の健在がはっきりと観測できた。ピンピンしている――通常ならばあり得ないことだった。
「準一級……なんですよね?」
「あァ、そこは間違いない。六眼で視たって、そこまでヤベー奴には……いやこれは、めぐみ…?」
「はい、なんです?」
「ちがう、呼んだんじゃなくて」
五条の特殊な眼には、常人には感知できない精度で呪力の流れが感じ取れる。その神の如き視線が、呪霊の抱える鏡と伏黒を交互に行き来している。まるで、不可視の糸を手繰るような動きで。五条の意図するところが汲めず、伏黒が口を開こうとした、それを偏頭痛に響きそうな引っ掻き音が邪魔をする。呪霊が、嗤ったのだ。
【キ、キ、キ、】
「聞くな恵、聞くだけで呪われるやつだ」
「そうは言っても、駄目ですこれ、耳を呪力でガードしても内側から聴こえて…!!」
「っ、やっぱりパスが繋がってんのかよ…くそっ!」
不快感が喉に込み上がる金切り声は、頭の中から聞こえるみたいに伏黒の精神を蝕んだ。そして、金属音をより合わせた声が、たしかにことばの形を言祝いだ。
【ソノネガイハ ゼッタイニ カナワナイ】
「……は?」
何を言われたのかよくわからなかった。五条も、伏黒も……いや、彼女の方は少し思考を回せばすぐに思い当たった。呪われた瞬間、つまり彼女が鏡に写し出された瞬間思っていたこと、それは。怪訝な顔を浮かべたままの五条のかんばせを、伏黒の翡翠が動揺に揺れて映す。
「おい、恵、願いって…」
「……そ、れは、あの」
「――――めぐみ、伏せてて」
「あ? おい恵、今なんか言っ――」
少女が言い淀んで時計ごと硬直したその一瞬、強烈な赫い光と爆風が廃工場そのものを消し飛ばして炸裂した。くだんの道化の浮いていた一角は、遠く離れた敷地の端まで地面ごと抉れ、土煙を細くあげている。
「!? !? は!? え!?」
「っ五条先輩、やりすぎです!!」
「いやいやいや、俺じゃねえ!!」
「はあ!? 何言ってんですか、他に誰がこんな――」
そう、こんな規格外の怪獣光線を撃てるようなバケモノ、五条悟をおいてこの世界にいるはずがないのだ。その五条悟がふたり居でもしない限りは、彼の主張は筋が通らない。居た。
「や、おつおつ、危機一髪だったかんじ?」
「……………………」
「……………………」
「ありゃ、二人して口がきけないなんて、手遅れだったかな。とほほ、力及ばずゴメンね」
その人物は頭上から降りてきた。高所からのジャンプではなく、悠然と歌番組の階段でも降りてくるかの如く、空を踏み締めて現れた。トンデモびっくりショーの様相だが、生憎と伏黒はその光景にも慣れていた。むしろ傍らの五条の方が、目の当たりにするのは初めてかもしれない。唖然と口を開けたままの二人のもとへ、残る仲間が駆けつける。
「居た! 伏黒、センパイ!!」
「悟! 今の爆発はお前か!? いつのまに『赫』を習得したん――」
「おっ 傑じゃーん おひさ〜〜、相変わらず変な前髪してるねぇ。それ女の子ウケいいとか言ってたけど絶対嘘でしょ。それか女に気を遣われてるよオマエ」
「……悟、どういうことか、説明してくれ」
「それどっちに言ってる?」
未だ硬直したままの相方に代わり、空から現れた謎の男が気さくに夏油へ相槌を打つ。もっとも、謎でもなんでもなく、誰がどうみたって彼が何者かはひと目で理解できるだろう。銀髪蒼眼、男でも羨む高身長の肉体美、飄々と軽い印象の声色に、甘いマスクと溢れ出る桁違いの呪力。ここまで揃って彼が誰だかわからないなら、呪術師としてはモグリもいいところだ。だからこそ、何者なのだと再三にわたる疑問をぶつけざるを得ない。なぜ彼が――五条悟が、この場に二人も居るのかと。
「ハジメマシテじゃないけどいちおう。 僕、五条悟。28歳、最強。ここの呪霊をぶっちめに十年後からきたの。ヨロシクね」
「っ十年後……!? じゃあお前は、未来の悟…!?」
簡潔極まる自己紹介はそのまま状況説明にもなっていた。荒唐無稽、噴飯ものの回答だったが、それ以外に目の前で起きている沙汰を理論立てて説明できないのだから納得せざるを得ない。よく見ると相方よりもどこかどっかりとした貫禄の老成した男は、夏油と虎杖の驚嘆を含み笑いで鑑賞している。と、そこへ、固まっていた現代の王子様がようやく復帰して横槍を入れてきた。
「未来の俺ぇ? バカいえ、時間遡行なんて高度な呪術、おいそれと使えるわけがねえ。上層部のハンコだって山ほど必要だろ。こんなザコ呪霊相手に使用の許可が降りるかよ、なんだお前」
「そのザコに必殺技が通じずパニクってたオコチャマが生意気ほざくんじゃないよ。僕はお前の尻拭いに来たんだ、感謝してもらいたいくらいだね」
「よし、傑、手ぇ貸せ。こいつ殺すから」
「うーん、短慮だけど怖いもの知らずなところは凄いな君」
仮にも未来の自分を名乗る来訪者を殺すなんて、向こう見ずさがなければできない蛮行だ。若さゆえか、と、大人びた様子のもう一人の相方を見やれば……こちらはこちらで、願ってもないと過去の自分へ殺気をむき出しにしていた。うわ大人びたとか前言撤回、むしろ十代の悟よりも余裕なくガキかもしれないぞ。夏油は口には出さずに、もう一人の五条の特性をいち早く理解した。
「どしたの? 別に僕はかまわないよ? 傑も止めないでね。僕が今後もこの時代で自由に動くためには、どーしたってそこのバカとの衝突は避けられない。なら最初に立場ってものをわからせておいた方がコスパいいでしょ。じゃーさっさとやろうか」
「な、ん、で、俺がボコられる前提なんでしょうねこのクソジジイはァ。早くもボケが回ってきてんじゃねえの? ご勇退をお勧めするぜおっさん、ここで完膚なきまでにぶちのめしてその背中を押してやんよ」
「おいおい悟、そして悟、少しは落ち着いて話を……!」
「……あの、」
喧騒に待ったをかけたのは、伏黒の几帳面な挙手だった。割って入った夏油を無視して、大人の五条は伏黒を指差し問いかけの続きを促す。そのしぐさが教師みたいで、五条のイメージと結び付かずになんだか笑ってしまいそう。
「えっ、と、先輩…未来の先輩?」
「悟さんでいいよ」
「は!? 何抜け駆けしてんだ、俺でも名前呼んでもらえたことねえのに!!」
「未来の…さと……五条さん、は、さっきのピエロ野郎を祓いにきたんですよね」
「そだよー」
なんとも気の抜けた返事、この時代の五条悟とは別の意味で軽薄そうな男だ。しかし伏黒は彼のゆるい回答を受けていっそう緊張した様子で、疑念の続きを組み立てていく。
「……なのにまだこの時代に残って、なにかやることがあるんですか?」
「あ、そっか。大人センパイはまだ居座るって言ってたけど、さっきの爆発で呪霊が祓えたなら」
「祓えてねえよ」
ぶっきらぼうに返したのは、夏油に宥められてその場に胡座をかいてふてくされる若い方の五条だった。そっぽを向いたまま、サングラスの下で薄氷の眼差しが不機嫌そうに瞬く。
「まだ恵にかかった呪いは解けてねぇ。爆発ばっかド派手なだけで、結局逃げられてんじゃねえかよオッサン。デカい口叩いてイキって恥ずかしくねーの?」
「あっはは、いいんだよ別にさ。もとから一時的に追い払うだけのつもりだったし……アレはそもそも、恵の方をなんとかしないと何やっても殺しきれないからね」
「俺の方を…?」
きょとんと、不思議そうに長いまつ毛を瞬かせる翡翠を、男は苦笑と呼べるそれで見つめる。それは、一応は苦笑いと形容できるが、なんとも例えようのない――悲喜交々の詰め込まれた、どこか寂しげな面差しだった。けれども、見つめ返す翠の瞳がその感情の名前を見つけ出すより先に、男の整った顔立ちは爽やかな満面の笑みへと作り直され、違和感はカーテンの裏へとはけてしまった。大人の五条が、少女めがけてゆっくりと歩み寄る。大きな歩幅で、あっという間に伏黒の視界は彼の大きな体でいっぱいに埋まってしまった。ぎゅっと、暖かな温もりに全てが包み込まれる。背後から奇声も上がる。
「ヴァーーーーーーーーーッッッ!?」
「ふぇっ!? ちょ、せんぱい!? いや、ちが、五条さん!? あのっ」
「あはは、挨拶挨拶…相変わらず恵はちっちゃくて可愛いねえ。ちゃんと食べなきゃダメよ?」
「かわっ…」
今なんと言われたのか、伏黒にはまともに理解ができなかった。それは、抱きしめられていることより、背後でもう一人の五条が泣き叫んで相方にはがいじめにされていることよりもずっと珍妙で、あり得なくて――ぽかんと固まる少女のおでこを、節くれた男の指が優しく撫でる。背の高いところから覗き込むみたいにして、男は甘いマスクでふんわりと微笑んだ。その蒼に映し出されているのは、この世でただ一人だけ。
「かわいいって言ったの。めぐみ、ぼくのかわいいきみ。僕は、未来からとっても大事なことを果たしにきたんだよ」
呆気に取られる伏黒から一瞬だけ体を離して、男はその場に跪く。そして、華奢で真っ白な手を取って、両手で固く包み込んで言った。
「愛してる。大好きだよめぐみ。 僕と――どうか結婚しておくれ」
眩しく、美しい光景だった。美男子が美少女に惜しみなく膝をつき、頬を染めて求愛を唱える。どこか夜明けの日差しを思わせる、光に満ちた光景が広がる。その場に居合わせた誰もが言葉を失い、ドラマの一部を切り取ったみたいな完成された絵画に圧倒された。かくて世界は予定調和、ヒーローとヒロインが揃えばあとは恋の帷が降りるだけ…そんな有史以来のセオリーに、誰も異議を唱えるものはいなかった。……ただ一人を除いて。
「………………はぁああぁあああああああぁあぁア〜〜〜〜〜!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
間抜けにも花嫁を掻っ攫われた情けのない悲鳴。こっちのほうこそ我らが主役の醜態だなんて、できれば思い出したくなかったものだが。
《続》