2025-06-02
何の夢も見なかった。ただ意識が途絶えて、覚醒した。目の前には何にもない原っぱが広がり、空は真っ赤に染まっている。毛布が体にかけられていたから冷えてこそいないが、頬を撫でる風は昼間よりもだいぶん冷たい。
目を開けてこそいるが、その実何にも理解していない。自分がどこにいるんだったか。どうしてこんなところにいるんだったか。大きな木がざわざわと鳴った。太い幹にもたれかかってそれを聞いていれば、なんとなく不安になってくる。
そばには中身が乱雑に詰め込まれたバスケットが置いてある。ハイ・ヨーのレストランでテイクアウトを頼むと貸してもらえる奴だ。今日の朝、自分とビクトールの昼ご飯を合わせてこれに詰めた。
そうだそうだ。フリックは一つ頷いた。今日は休みで、二人で遠乗りに来たのだ。ビクトールが教えてくれた、静かで心地よくて誰もいない昼寝に良い場所。久しぶりに何にも難しいことを考えずに馬を走らせるのは気持ちがよかったし、葉を茂らせる樫の木の木陰も休むにはちょうどいい静けさと形をしていた。
座ったあたりからの記憶がないと言うことは、そのまま寝入ってしまったという事だろう。バスケットを引き寄せて中を見れば、フリックの分はそのまま丸まる残っていた。水筒だけを引っ張り出し勢いよく傾ければ、思いのほか乾いていた喉にお茶がしみわたっていく。
同時に背後に何かが落ちた軽い音がした。
水筒の蓋を閉めながら振り返れば、立派な花冠がぽとりと落ちている。アカツメクサやシロツメクサ、タンポポが組み合わされたそれは、さっきまでフリックの頭の上に乗っていたものらしかった。
体をひねって花冠を拾い上げた。他のだれがいるわけもない。ビクトールはどこに行ったのだ、とあたりを見渡せば、何という事もない。一言呼べば届きそうな位置でなにやら馬と遊んでいるところだった。
「ビクトール」
ビクトールは長く組まれた花と茎を長く摘んだ野花を両手に振り返る。まだ輪になっていない花冠を、馬たちが狙って首を伸ばした。それを退ける手付きは優しい。
「起きたか」
こんな何にもないところで連れが寝こけていたらさぞ退屈だっただろう。悪いことをしたな、と思っていると、軽い足音を立てて戻ってきたビクトールはフリックが手にした花冠を自然な仕草で取り上げると、なんだか随分と穏やかに微笑んで見せた。
「顔色がずいぶん良くなったな」
体が資本なのは分かり切っているから体調管理には気を使っているとはいえ、根本的に休みが足りていなかったのだ。
「ちゃんと休めたみたいで何よりだ」
ほったらかしてすまないとか、せっかくの休みを惰眠で消費してしまったとか。昼ごはんも食べずに眠り込んでしまった事にフリックが罪悪感を覚えていることなど、ビクトールにはまるでお見通しなのだろう。
「そんなに疲れてたふうだったか?」
見られる立場でそれはあまり褒められた話ではない。花冠を取られて所在のなくなった手を、頬にあてる。確かに、疲れていないと言えば嘘になる程度には疲れていたが、座った瞬間に眠ってしまうなんて思わなかった。心地よい風、思考を埋める木の葉のざわめき、隣に座ったこの男の気配。瞼が重たくなるには十分なのだ。
ビクトールはフリックの頭に乗っていた花冠をいじりながら頭を振った。
「俺ぐらいにしか分かんねえ程度だから気にすんなよ」
つまり、ビクトールには知れる程度だったという事だ。少しずつ夜が深まってきてよかった。夕日が赤くて助かった。頬と耳を撫でる風を一層冷たく感じる程度には、そこが赤くなっているのが分かる。
安心して甘えているのだ。まったく、いい大人が。
ビクトールはへへ、と軽い笑い声を立てると、座ったままのフリックに手を伸ばした。乾いた音と共に花冠が頭に乗せられた。
「似合う似合う」
「似合うわけねえだろ」
「かわいいぜ」
まるで愛しい人に向けるみたいな声音で言われて、フリックはそれ以上反論しなかった。乗せられた花冠に指先で触れ、その繊細な作りに指が震える。
大切なものを頭の上に乗せられている。たかが野花を編んだだけ。もう枯れるしかない単なる子供の遊び道具だ。ビクトールはかつてその作り方を誰かに教えられた。ここだってそうだ。昔、あの城がノースウィンドウと呼ばれていた頃、ビクトールに誰かが伝えたのだ。ここは風が気持ちがよくて、大きな樫の木は寄りかかって眠るのにちょうどいい。
ビクトールの過去が垣間見える。穏やかに過去を思い出せるならそれが一番だ。
何を言っていいものか。曖昧な沈黙は、ビクトールの頓狂な声で破られた。
「あ、お前ら食うなよ!」
ビクトールが抱えていた作りかけの花冠を、馬たちがむしゃむしゃと旨そうに食み始めたのだ。あっという間に二頭の腹の中に収まって、ひとかけらの花だけがビクトールの手に残された。
「食うなよ」
「俺も腹が減ったな」
バスケットをもって立ち上がったフリックの腹が鳴った。花冠が落ちないように支えたフリックの代わりに、ビクトールがバスケットの中からカスクートを取り出した。
「半分こにしようぜ」
「お前はお前の食ったんだろ」
「しらねえなあ」
問答無用で半分に割ったパンからチーズとレタスが零れ落ちるのをビクトールは慌てて何とか救出して、旨そうにかじりついた。
不機嫌な顔を続ける事も出来ず、フリックも差し出された残りにかじりつく。新同盟軍自慢のレストランのカスクートは時間がたっても具材とパンが馴染んで水っぽくなることなく旨い。
「旨いな」
「うまい」
殆ど昼寝で占められた休日の締めくくりとしては相応しい。
うまいものを食う人間達はそれに夢中で、馬たちが人間の頭を飾る穏やかな休日の象徴を狙っていることには気づかない。