特別な夜「え? ――篠森先生?」
「……はい。パーティでも会えませんでしたし」
クリスマスの夜を誰と過ごしたいのかと聞いた香坂先輩は、きっとオケのメンバーを想定して尋ねてきたに違いない。それなのに寮で会えるわけもない美しい想い人の名前を答えてしまったのは、彼がクリスマスパーティには参加しなかったという寂しさからだった。
香坂先輩は少しだけ考えるように間を置くと、私の顔を見てその想いを察してくれたのか、優しい声で話を続けてくれる。
「そう……招待カードは出していたものね」
「来てくれませんでしたけどね。やっぱりせんせ、忙しいみたい」
パーティが始まっても篠森先生の姿が見えないと気づいて、マインでメッセージを送り「先生は何時に来れますか?」と無邪気に聞いた私に返ってきたのは「私は参加しない。まだ仕事が残っている」という短く素っ気ない文だった。
招待カードはクッキーを添えて、職員用のロッカーに入れた。自分で忍び込む訳にはいかなかったからノノに頼んで魔法の力を借りて。パーティのことを知っていたということは、きっと先生はカードを見てくれたのだろうけど。
続いて、「オケのメンバーと楽しく過ごしなさい」と返されれば、ああ本当に来る気がないんだ、と思うしかなかった。
何となくそんな予感はしていた。だって篠森先生は、教師としてステージマネージャーとして大人として、生徒でコンミスで子どもである私に一線を引いている。その線を越えようとする私をさらりと受け流して離れたところで、他の同世代の子に目を向けるようにと促してくるんだ。
――でもそんなことができたら、とっくにしてるんですよ。
そんな想いと反抗心から「私は篠森先生がいないと寂しいです」と返したけれど、そのメッセージに既読がつくことはなかった。
パーティでプレゼント交換が始まったり、メンバーに声をかけられたりして楽しく過ごしながらも、私は先生からの反応が気になってしょうがなくて。
だけどパーティの最中にスマホのカメラで仮装しているみんなを撮る時にちらりと見た時も、終わってしばらく経った今も、返信が何もないどころかまだ既読さえされていなかったのだから、とてもしょんぼりしてしまった。
きっと先生はあの後、私からの連絡になんて目もくれずに書類仕事を再開したんだろう。今もたぶんお仕事中で。
最終選考を前にオケのメンバーは音を重ねて演奏を高めあっていく日々だけど、ステージマネージャーだってやらなければならないことは山積みだ。クリスマスの夜も私たちは賑やかなパーティを開いたけれど、真面目な先生は静かに、たった一人で黙々と作業をこなすんだ。それもとてもあの人らしい。
ただ、理解はしていても寂しさは変わらなくて。ため息を吐いて、ついついまたスマホを見てしまう。画面の表示は数時間前と何も変わらない。
「既読つかないなぁ。篠森先生、今も木蓮館なのかなぁ」
「会いに行きたい、って顔ね」
香坂先輩にはバレバレだ。顔に出やすいタイプだってよく言われるけれど、そんなにわかりやすいのかな。
「わかります? ……でも、行かないですよ」
「あら。貴女なら『今から会いに行く!』と飛び出していくかと思ったわ」
「もう暗いし、行ったらきっと先生に迷惑かけちゃいますから」
私自身にも言い聞かすように言う。ほんとに、いろいろ持って飛び出していって一緒にチキンやケーキを食べて過ごせたら、どれだけいいだろうって思うけど。
「前までだったら、そんな迷惑をむしろかけてやろう、帰りは寮まで送ってもらおう、少しでも一緒にいたいから――って、そう思ったかもしれないです。でも、先生のお仕事の邪魔をしたい訳じゃないので。それに……」
――クリスマスの夜に冷たくあしらわれたら、切なくて泣いてしまいそうだから。
恋心がこぼれ出て、一線を越えようとした瞬間に拒否される未来はすぐに想像できる。こんな寒い中、大事な時期にうろうろと出歩くなんてと、コンミスとしての自覚が足りないと叱られるかもしれない。
ようやく「君がこんなにコンサートミストレスらしくなるとはな」と認めてもらえるようになったのに、せっかく得た信頼をうかつな行動で失いたくはない。
君には失望した、と。そう言われることを少し想像しただけで泣きそうになって、誤魔化すように笑顔を作る。
「それに、一ノ瀬先生を呼んで迎えに来させることだって有り得そうでしょ? そうなったらクリスマスの夜に一緒に過ごす相手が変わっちゃう!」
わざとらしくショックを受けているような態度で、冗談らしく言う。銀河くんには悪いけど、誤魔化すためにネタになってもらおう。幼なじみのよしみで許して欲しいな。
「ふふ、そうね。せっかくのクリスマスだものね」
くすくすと拙い冗談に笑ってくれる香坂先輩の笑顔は自然で、綺麗と言うよりも可愛らしい。それに比べて私の笑顔なんて張り付いた仮面みたいなものだ。
――きっとこの作り笑顔も先輩にはバレてるんだろうなぁ。
でも、わかっていても冗談に乗ってくれるのが香坂先輩で。私が一緒に過ごしたい相手は篠森先生だけなんだってことも、わかってくれていて。
「じゃあ、私とのおしゃべりもここまでにしておきましょうか」
優しい微笑みを浮かべて話を切り上げようとしてくれる。
「貴女の心は篠森先生に捕らえられているようだもの。狡い策士だわ」
香坂先輩の言う策士という言葉の意味はよくわからなかったけど、私を気遣ってくれたんだってことはすぐにわかった。ごめんなさい、と口にしようとしてやめる。そうじゃなくて。
「ありがとうございます、香坂先輩」
「ふふ。こちらこそ貴重な時間をもらえて嬉しかったわ。女の子同士の役得ね」
微笑む香坂先輩が、すっと片手を口元に添える。
「最後にひとつだけいいかしら」
なんだろう、と目をぱちくりさせて、こくりと頷く。耳を向けると、秘密の話を囁くように告げられた。
「篠森先生に、クリスマスの夜に一緒に過ごしたい相手は貴方だと、もう一度、伝えてみてはどう?」
「え……?」
提案されたそれは確かに、ひっそりと話されるべき内容で。
「先生だって男の人だもの。可愛らしい貴女に、他の誰でもない自分が選ばれたと知ったら、きっとときめいてくれるんじゃないかしら」
「うーん。それは……どうかなぁ?」
私は苦笑して首を傾げた。
新しい地で出会うメンバーと仲良くなるために色々とアドバイスしてくれた香坂先輩の言葉はいつも頼りになったけれど。今回の内容には、すぐに同意はできなかった。
***
「えっ!」
部屋に戻ってマインを見ると、少し前にはなかった既読の文字がついていた。相変わらず篠森先生からの返事はないけれど、見てはくれたみたい。
――ということは、お仕事もひと段落したのかな?
「もう一度、かぁ……」
マインの入力欄をタップして、現れた縦線が消えたりまた表示されたりするのをじっと眺める。
――もう一押し、してみようか。
さすがに、先生のことが好きなのでクリスマスの夜を一緒に過ごしたいです、なんて気持ちをそのまま伝える訳にはいかないけれど。きっと篠森先生にそんなことを伝えたら、パリーンと何かが割れてバッドエンドまっしぐらだ。
「……えい」
『先生、お疲れ様です。まだお仕事中ですか?』
『お話したいので、電話してもいいですか?』
教師と生徒、ステージマネージャーとコンミス、その距離は保ったままで、線を越えないで、だけどほんの少しだけ、つま先だけ乗っかるくらいの気持ちで。
「…………」
送ったメッセージに返事はない。既読もつかない。
私だったら、篠森先生からのメッセージには通知が来たらすぐに飛びついてしまうんだけど。
「……はぁ〜」
今回ばかりは香坂先輩のアドバイスを真に受けるべきじゃなかったかもしれない。いや、もしかしたら言い方とか伝え方とかもっといい方法があったのかも。
活かせなくてごめんなさい、と心の中で謝りつつ、でもやっぱり篠森先生が相手じゃしょうがないよ、と唇を尖らせる。
諦めてふて寝してしまおうかと画面を下にしてベッドに横になる。でもやっぱりしばらくして、ちらりと画面をまた見てしまって。どうせ何も変わらないのに、送った文章の横を確認してしまう。
そこに、既読の文字がふっと現れる。
「うえっ!?」
びっくりして起き上がったところで、軽快な音が鳴って、電話がかかってきたよと着信の通知に画面が切り替わった。
記されている名前は、登録してある『篠森先生』だ。
「ふぇ!? えっ、あっ、わっ!」
思わずスマホを投げてしまいそうになる。わたわたとお手玉のように手の中で踊らせて、間違えて着信を切ってしまうのではないかと慌てた。
しっかりとスマホを掴んで、着信音も画面の表示も同じままなことにほっとして。私はドキドキしながら一度だけ深呼吸すると、受話器のマークをタップする。
「っ、しのもりせんせ……?」
「――朝日奈さん」
聴こえてきた低い声が、じんわりと寂しかった心を癒して、嬉しさで埋めていく。
「今、君は寮か?」
「えっ、はい。自分の部屋ですけど」
「そうか……出歩いていないのならいい」
問いかけられた言葉に素直に答えれば、小さく息を吐いてそう返される。
ああ、やっぱり私、外に飛び出して行かなくて正解だったみたい。
「先生は木蓮館ですか?」
「いや。今は車の中で、これから帰るところだ」
そう聞いて納得する。きっと先生は仕事がようやく終わって帰る頃になって、私からのマインに気がついたんだ。お仕事に集中してるところを邪魔しなくてよかった。
「それで。こんな夜更けに教師に電話をしようとするからには、なにか重要な話でもあるんだろうね?」
ほっとして考え事をしていたせいで、反応が少し遅れてしまう。
「……へっ? 話?」
「無いならば切るが」
間抜けな声を出してしまった私に篠森先生が呆れたように返してきて、焦った態度を隠すことも出来ずに、私は思わずでまかせを口にする。
「えっ!? ま、待ってください! あります、ありますから!」
――篠森先生がなるほどと納得してくれるような重要な話? ない、ないよ。せっかくのクリスマス、先生の声が聴きたかっただけだもん。何を話そうとか考え無しに送っちゃったもん。
「え〜っと……今日は、クリスマスですね!」
「……だから何だ?」
「いえ、あの……メリークリスマス?」
「……はぁ。話が無いなら、」
「あああ、待ってください!」
先程と同じ言葉を繰り返す。二度目も、先生はため息を吐きつつも通話を切らずに私の言葉を待ってくれていた。
きっと、三度目はない。
まさか篠森先生から電話をかけてもらえるなんて、クリスマスに素敵なプレゼントもらっちゃいました。
クリスマスの夜に先生の声が聴けてとっても嬉しいです!
――なんて言えばすぐ切られちゃうかな? じゃあ何を言ったら納得してもらえるんだろう。
オケのメンバーだったら、それぞれが好きなものの話を振ったり、それをプレゼントしたりすれば、喜んで笑顔を見せてくれるけど。
私が篠森先生に関して知っていることといえば、朝食がシリアルビスケットとカフェオレなことくらい。それ以外の、先生の好きなものなんてよくわからない。だって何も教えてくれないから。
……と、考えを巡らせたところでふと思いつく。
――そうだ、先生が何より好きなもの!
「先生へのクリスマスのプレゼントなんですけど。後日でも大丈夫ですか?」
「は?」
篠森先生の普段から低い声のトーンがさらに低く重くなる。電話だから表情は見えないけど、きっと綺麗な顔をゆがませて眉間に皺を寄せているんだろうなぁと予想できる。
「……私が生徒からの贈り物を受け取ることはないと、君も知っていると思うが」
そう、先生は生徒からの贈り物は一切受け取らないってことは知ってる。だから招待カードも添えたクッキーも直接手渡したら受け取っては貰えないかもしれないと思って、こっそりロッカーに入れたんだ。
「はい。物はダメですよね。だから、」
でもきっと、これならいいでしょ? なんて、願いを込めながら笑みを浮かべる。
「ステージの上から、オケの演奏を贈らせてください」
「……」
どうだ、という気持ちで告げたけれど、篠森先生の反応はない。続く無音に耐えられなくなって、思わず早口で言葉を連ねてしまう。
「えっと……それもだめ、ですか? ステージマネージャーとしてクリスマスの夜も頑張ってお仕事してくれてる篠森先生に、私があげられるもので喜んでもらえそうなものなんて、最終選考で良い演奏をすることくらいかなぁ〜って」
それをプレゼントと言ってしまうのはどうなの? という気もするけど、だって他に何も思いつかないんだもん。
しばらくすると、篠森先生が、はっ、と息を吐いた音がした。電話口でも、いつものように鼻で笑ったんだろうなとわかる。
「オーケストラの演奏を、私にか……」
はい、とすぐに頷いてしまったあとで、はたと気づく。『喜んでもらえそう』なんて、おこがましいことを言ってしまっただろうか。
先生ならオーケストラの演奏なんてこれまでたくさん聞いていて。いくら私たちが世界を目指して頑張って練習も路上ライブもコンサートもたくさん重ねて、始めた頃よりもずっと成長してきたとはいえ、学生オケの演奏をプレゼントされたところで嬉しくはないかもしれない――と、少し後悔していたところ。
「……悪くないな」
ふっ、と優しく笑うような息遣いの後に、そんな言葉が続けられた。
「へ」
「当日は最高の演奏をするんだろうな?」
「も、もちろんです! 今までで一番の演奏をします!」
「では楽しみにしている」
意気込んで返す私に、篠森先生が告げる。
「君の導いたオーケストラの響きで、私を酔わせてくれ。コンミス」
――どうしてそんな、ドキッとする言い方をするの。
私をドキドキさせてることになんて気づいてないのか、「もう遅い。休みなさい」と続いたのは普段の電話の終わり方と同じだった。
それを聞いて、私もなんとか「おやすみなさい、篠森先生」という習慣づいた挨拶を返す。
ああ、これで今夜も終わりなんだ、なんて寂しく思っていたら。
「おやすみ。……メリークリスマス」
篠森先生の掠れた低い声で、優しい響きで、最後にそんな言葉を囁かれてしまった。
通話が切れてスマホの画面が消えて、黒い四角の中にぽかんとした私の顔が映っている。徐々にその頬が緩んでいくのを捉えて、ベッドに倒れ込み、ぼふんと枕に顔を埋める。熱くなった頬にひやりと冷えた布の感触が気持ちいい。
うー、とか、あー、とか、もー、とか、言葉にならない声を上げて呻きながら、先生はずるい、と思う。
メリークリスマス。それは今夜だけの、特別な台詞で。
篠森先生からかけてもらえた電話。こちらが酔ってしまいそうな言葉に続いての、予想外の特別感。
熱く火照る頬と激しく奏でられる心臓の鼓動は、十二月の寒さの中でもなかなか治まりそうになかった。