「ふたばぁ」
二葉は思わず緊張で身体を硬くした。生まれた時から二十数年、兄と兄弟をやっているからこそわかる。今二葉を呼んだ兄の声音は、これから無茶振りのわがままを命じる声音だ。さて、今日は何を命じられるのか。ごくりと生唾を呑み込んだ。
「ピザ食いたい」
「……ピザ」
円形やら三角形やら、色とりどりの具材の乗ったイタリア発祥の料理が脳裏に浮かぶ。兄にばれないように小さく息を吐く。具材は確認しなければならないが、多分今家にあるものでそれなりのものは出来るだろう。そう思いながらも、念の為時計を見る。午後二十二時を少し過ぎたあたり。都会のビザのデリバリーであれば、まだ何とか間に合うだろう時刻ではあるが。
「……一応確認するけど」
「どうした」
「デリバリー」
「あ?」
やはりそういう意味ではなかったらしい。わかってはいたけれども、苦笑が漏れるくらいは許されたい。
「……わかりました。作るけど、家にあるもので作るから味のリクエストされても難しいよ」
「そこは何でもいい」
「……生地は発酵なしの簡単なものにしてもいい?」
「勝手にしろ」
「……はあい」
口元が変な風に歪んで元に戻らないけれど、兄は今目を落としているタブレットから目を離す気がないようで助かった。時折兄の無茶振りは矛盾をはらんでいるように思えるのだけれど、兄の中では理屈が通っている様子なので口を挟むに挟めない。
単純に食べたい味を食べたいのであれば、デリバリーの方がむしろ手っ取り早いと思うのし、実際にそれで済ませられる日もあるのだが、今日の兄はそれをご所望ではない。そう、つまりは。
「兄さんは難儀だなぁ」
多分、今食べたいものの味にピザが一番近いのは間違いないだろうが、今日のわがままの本質はそこにはない。その事実に、無茶振りをされて迷惑を被っている側のはずなのに、どうしても胸の辺りがこそばゆくて仕方ないし、上がった口角はなかなか元に戻らない。
「聞こえてんぞ」
「ちゃんと作るから、これくらいはいいでしょ」
二葉のぼやきに、ぼやきではない気持ちが多分に含まれていることを、兄はどの程度わかっているのだろうか。それはわからなかったけれど、もう一度ちらりと兄の横顔を盗み見るとどことなく穏やかな表情をしていたのだから、機嫌が悪くないことだけは確かだった。
***
「うーん」
二葉はひとまずピザ生地を捏ねはじめた。イーストを使わない簡単な方法とはいえ、生地は多少寝かせる必要がある。その間に具やソースの準備をする必要があるのだが、先ほどざっと確認したところ、使える具材は多かったのだが、一枚の大きなピザにするにはいささか心許ないものが多かったのだ。幸い、ソース代わりに使えるケチャップとチーズは充分に足りそうな量ではあるのだが。
「兄さん」
未だタブレットから目を離す気配のない兄に声を掛ける。
「どうした」
「ミニピザでもいい?」
デリバリーのピザで一枚で二種類だか四種類の味だか楽しめるピザもあるにはあるが、それよりは最初から生地ごと分けた方が良い気がした。夜食の手軽さとしても理にかなっているし、生地が早く焼けやすいのも利点だと感じつつも、今日のオーダーは兄からだから、兄にお伺いを立てねばならない。質問されてようやく兄はちらりと二葉の方を見上げる。
「……生地は」
「生地?今捏ねてるけど……」
「市販の餃子の皮じゃないならいい」
「なるほど」
その返答で、何となく兄の食べたいものの方向性が見えてきた。
「……なるほどって何だよ」
「うーん、先に生地を作り出してて良かったなって話」
「は?」
いつだったか塩パンが食べたいと言っていた時もそうだし、それ以外でも時折パンを焼かされたことを思い出す。存外兄は難儀なようでわかりやすい。
「とりあえず、ちゃんと生地は作ってるから安心してよ」
ミニピザにはしても、それなりに食べ応えのある厚さで生地は調整しよう。具材の組み合わせはどうしようかな。
そんなことを考えながら、二葉は再び丁寧に記事を捏ねはじめた。
***
「……二葉」
「なあに、兄さん」
「今、ピザ、焼き終わったんだよな」
「そうだね、簡単なレシピにはしたけど、結構いい出来になったかなって思うよ?」
「……ならなんでまたオーブンが動いてんだ?」
「……多い分には、困らないかなぁって……」
「……ったく」
兄は何故かため息を吐く。多分、ピザの出来が気に入らないわけではないだろう。口にも出したが従来より短い時間の中では比較的良く出来た方だと思うし、色とりどりのピザたちはまだ口にはしていないが満足できるものに仕上がっているだろう。恐らく、兄がちょっとだけ面白くなかった原因は。
「……あいつらへのお裾分けは余ったものだけにしろよ」
「あ、うん、それは勿論」
いつもではないが、二葉が料理をお裾分け前提で作る時は少し顔を顰められることがある。二人では作った分を食べ切れなくて皆にお裾分けすることは普段からよくあるのだが、兄が顔を顰める線引きはいまいち二葉は掴み切れない。ただ、多分今目の前に出された色とりどりのミニピザ達は、兄のお眼鏡には叶ったのだろう。
「わかってんならいい」
兄はそう呟いてから食卓に着く。いただきます、と手を合わせてから兄が手に取ったのはオーソドックスなマルゲリータ風のものだ。お眼鏡には叶ったようだが、口に合わなければ意味がない。どきどきしながら、兄がピザを口に運ぶのを見守る。
「……ん」
がぶり、とかぶりついて、少し目を見開いてから、そっと瞼を閉じて咀嚼しはじめる。二葉はほっと息を吐いた。兄は自分の思っていないものを食べた時は一口目で眉間に皺を寄せるし、普通の時は表情が変わらない。今日のは、少なくとも及第点は貰えたらしい。作り過ぎたことにやや不興を買っていたようだったから、ちゃんと兄の口にあったようで安堵した。
四口くらいで食べ終わり、兄が二つ目のピザに手を伸ばしたのを見てから二葉もようやく席に着く。
「せっかくだし、俺も食べようかな……いいよね?」
「……これとそれ以外ならいい」
「あと二つも食べるの?」
二葉は驚く。兄はそれほど量を食べる方ではないし、そもそも今日はちゃんと夕飯を食べたあとの、もう眠りについておかしくない時間帯だ。
「あ?文句あっか」
「ないけど、珍しいなあって」
「別に、食べたいものを食べたい時に食べて何が悪い」
「……なんかそれって……ふふ」
「何笑ってんだ」
思わず込み上げてきた笑いを堪え切れず、兄には顔を顰められる。兄がいいそうで絶妙に言わなさそうなセリフは、間違いなく二葉の作ったものが兄のお気に召したからこそ出てきたものなのだ。兄はそのことに気付いていたらきっと口には出さなかっただろうセリフは、二葉を言いようのない喜びで満たしていく。
「今が幸せだなあって思って」
「何だそれ」
兄は呆れたようにため息を吐いてから、二枚目のミニピザを堪能しはじめる。
「……俺はこれを貰おうかな」
「いきなり甘いのかよ」
二葉が手にしたのはデザート代わりに作ってみた一枚で、かぶりつくとじゅわりと甘みが口いっぱいに広がった。
「今は甘いものの気分だから」
「あっそ」
呆れたような口調な癖して、兄の口角がいつもより上がっていることは、二葉は誰にもお裾分けせず、心の内に秘めておこうと意を決した。