「う〜ん、二葉さん、もう一回お願いします」
「はい!」
「方向性は今の感じで問題ないので、気持ち声をはる感じが欲しいです!」
「わかりました!お願いします!」
返事をしながら、あれ、と思う。レコーディングの時にもらうディレクションは音が安定しないやらリズムが甘いやらといったことがほとんどで、もっと声を出せ、というのはライブの稽古の時くらいしか言われたことがなかったからだ。さす、と喉に手をやる。声、出てなかったのかな?そんなつもりはなかったけれども。
「それではいきます!」
「はい、お願いします!」
声をかけられていつもより大きめに返事をする。もしかしたら気持ちが切り替わりきってなかったのかもしれない。そう思い直してマイクと向き合う。一度大きく深呼吸をすると、今度は勘違いでなく頭が冴えてくるような気がした。
「あれえ!?」
思わず大声を上げたのは、その日の仕事を終え自室に帰宅した時だった。
声をはれというディレクションの後はすんなりと終わった。なんならこれまでの中で一番手応えがあったかもしれない。すべてを撮り終えた時、ブース越しのスタッフさん達が満面の笑みだったから実際に悪くはなかったのだろう。
夕飯の買い物も、今日は食材を買い足す必要がなかったから忘れたわけではない。
だから声を上げたのは自分の過失ではなくて、何故だか部屋中にぐつぐつと食欲をそそる音と良い匂いが立ち込めていたからだ。
「なんだうるせえな」
「あ、ただいま兄さん……え、兄さん?」
「なんで疑問形なんだよ」
「え、だって、……エプロンと手に持ったおたま」
「それがどうした」
「どうしたって、……だって兄さん」
「いいから早く手、洗ってこい」
「あ、うん、はいわかりました?」
「疑問形」
「わかりました!」
何故だか急かされて急いで部屋に上がると、どうやらもう夕飯はほとんど出来ているらしい。もちろん、昨夜の残り物ではなくて。さらに手洗いうがいを済ませ食卓に向かえば、ちらりと目に入った食材に見覚えもなかった。
「兄さん」
「飯炊けてるからそれくらいはよそえ」
「あ、うん、うん?」
やはり疑問形になりながらも、茶碗に炊きたてのご飯をよそう。自分の分と兄さんの分と。食卓に全ての料理が並ぶのを見るとぐうとおなかが大きくなった。
「何ぼーっとしてんだ」
「あ、うん」
わたわたと椅子に座ると向かいに座った兄さんと目があった。
「兄さん、ありがとう」
それまで浮かんでいた疑問符が全てどうでも良くなってお礼を告げる。
「別に気が向いただけだ」
「そうかもだけど」
兄さんが唐突に買い物までして夕飯を作っていたかはわからないけれど、ただただ嬉しかったし、兄さんの料理は間違いなくとても美味しかった。
「そういえば兄さん、今日はなんで夕飯作ってたの?とても助かったけど」
「……だから気が向いただけだ」
「それだけ?」
「うるせえ」
「すいません!」
やはり気になって夕飯もお風呂も済ませた時間で尋ねてみたが、それでも流されてしまったから、理由があったとしても言う気はないのだろう。まあいいかと諦めてから、気を取り直して声をかけた。
「ところで兄さん」
「しつこいな」
「キスしませんか?」
これはお誘いだ。もちろん、キスもするけれどキスのではなくて。今日は兄さんも機嫌が良さそうだし、いけると思ったからなのだけど。
「本当に、キスだけならな」
「え?」
断られると思わなかったから間抜けな声が漏れたけど、じとりと兄さんに睨まれてわかりました!と出した声は今日のレコーディングくらい声がはっていた。
「……とりあえず今日は早く寝ろ。キスは許してやるから」
「……はあい」
「不満があるならもう帰るぞ」
「わあごめんなさいちょっと待って!」
追いかけるように兄の腕を掴んで引き寄せた。勢いのまま唇を重ねると、よく知る兄の味に安堵を覚えて深追いする。が、そのまま雪崩れ込もうとした意図は読まれていたのかあっさり離された。
「……ちえ」
「そんなにしたいんなら、明日にしろ」
「……今日はダメ?」
ダメ押しは、しかし意外な言葉で振り払われた。
「お前がな」
え、と声を上げている間に兄さんは本当に部屋を出ていってしまった。
今日ダメな理由が俺?
わけもわからず首を傾げると、今日のレコーディングでされたディレクションが頭をかすめた。