猫の手を借りる夜 (1)「南泉一文字……その、折り入って頼みたいことがあるんだが」
そう言って夜半、部屋を訪ねてきたのは、普段あまり話すことのない相手だった。
山姥切国広。本作長義以下五十八字略こと山姥切長義の写しであるこいつは、誰かさんみたいにひねくれた性格はしていないが、別方向に難儀な性質を抱えていて──まあ、はっきり言って社交的な性格とは程遠い。修行から戻ってからは『写し』という自身の出自に由来する卑屈さはなくなったようだが、口下手なところは相変わらずだ。その上、そこに『自分は主のための傑作である』という自負が重なって、却って面倒を起こしてしまうこともある。
その最たるもんが、本歌山姥切との確執だろう。どっちが悪いとか、どっちが正しいとかいう話じゃない。山姥切には山姥切の、国広には国広の考えも想いもある。それだけの話──なのだが、したたかに酔った山姥切から聞かされた、二振りの会話の下手くそさときたら、これがとんでもなかった。山姥切のやつは端から喧嘩腰。対する国広は言葉選びを間違いまくり。拗れるのも無理はない、という気持ちと、何でここまで拗れてんだ、の気持ちで、聞いてるこっちの頭が痛くなったくらいだ。
今でこそ関係も落ち着くところに落ち着いた──ように見える。少なくとも傍目には──ものの、二振りに巻き込まれた周囲はなかなかに大変な思いをしたのだ。山姥切に手合せという名の八つ当たりで危うく手入れ部屋行きにされかけたオレとか、ヤケ酒に付き合わされて二日酔いならぬ三日酔いになったオレとか、昼寝中に顔へ油性ペンでラクガキされたオレとか、オレとか、オレとか、あとはオレとかがな!
で、今、オレの部屋でちんまりと正座して所在なげにしている国広だが、同じ本丸に顕現した刀で、刀種が同じ打刀であるということ以外に、オレとはほとんど接点がない。刀派も違えば、過去の持ち主も違う。特別に気が合うというわけでもないし、かといって、ひどく仲が悪いということもない。もちろん同じ部隊に編成されて出陣したことはあるし、何度か一緒に内番をこなしたこともある。すれ違えば挨拶くらいは交わす程度だ。一度はその佇まいから、呪い仲間かと思って話しかけたことがあるが、まともに話をしたのはそのときくらいだろうか。強いて言うなら、こいつの『本歌』である山姥切長義とオレが腐れ縁であることが、オレとこいつの接点になるのかもしれない。
その程度の関わりしかないオレに、こいつがわざわざ、夜中に部屋を訪ねてきてまで頼みたいこと。何だかとても嫌な予感がする。野生の勘……と言ってしまうと、猫の呪いを認めるようで嫌だが、これはもう、そうとしか言いようがない。
「……内容による、にゃ」
オレの言葉に国広は、癖なのか被った布を探るように手を伸ばし、そこにもう布がないことに気付いておろおろと手を彷徨わせた。結局、行き場のないそれを膝へと下ろし、ぎっと拳を握りしめて顔を上げ、徐に口を開く。
「俺を、だ……抱いてくれないか……ッ!?」
カチ、コチ、カチ、コチ。鯰尾からもらった招き猫型の時計が、秒針の回る音を部屋に響かせる。針は止まることなく進むのに、オレの頭はまるで時間が止まったように、国広の言葉がリフレインするばかりでちっとも動かない。
だいてくれ? は? 誰が? オレか?
オレが? 国広を抱く? ──は?
「……、すぅー……」
「な、南泉?」
息を深く吸って、腹の底まで、脳の隅々まで酸素を行き渡らせる。大丈夫、オレは泣く子も黙る恐るべき刀剣男士……だったはずの、一文字の刀だ。オレはできる、オレはやれる……やってみせる、にゃ!
「こんの……たーけにゃ────ッ!!!」
オレはありったけの打撃値を握りしめた拳にのせて、渾身の力で国広の脳天に会心の一撃を叩き込んだ。
「…………はぁー……それで? なんで急に、オレにそんなとんでもねえ頼みごとしてきたんだ、にゃ?」
鉛より重いため息を吐いて、オレは、オレの前に正座して眉を下げる国広を睨めつけた。殴られたところが痛むのだろう、国広は頭を抑えたまま目を逸らして口篭るが、助け舟など出してやらない。とんでもない爆弾落とされて親切に話し出すのを待ってやるほど、オレは優しい刀じゃないのだ。
「……本科が、あんたを褒めていたから」
「あぁ? 山姥切がぁ〜?」
絶対に嘘だ。いや、国広がオレに嘘をつく理由がないから、おそらくはこいつの勘違いだ。どうせ嫌味を真に受けて褒めたと思ったとか、そんなことに決まっている。
「その……南泉は閨で女の相手をするのが上手い、と……」
「あー、そういうことか。察した、にゃ。それ、アイツはこう言ったんだろ? 『猫殺しくんは遊郭にも通い慣れているからね。女人を抱くのもさぞ上手いんだろうな』って、にゃ」
「すごいな、その通りだ!」
キラキラした目でオレを見る国広に、オレは苦々しく顔を顰めた。これを『褒めてる』と受け取れるお前の方が百倍すげえよ、とイライラとして頭を搔く。どこからどう聞いても、オレを色に溺れた女好きだって言ってる嫌味だろ。初心か。この本丸で最初に極になったくせに、心は初のままってか。やかましいわ。
誤解のないように言っておくが、オレは別に遊郭に通い慣れてるなんてことはない。二度ほど御前の付き合いで見世に上がったことはあるが、そのときも枕を交わすようなことはせず、ただ酒飲んで芸を見せてもらって、あとは軽くお座敷遊びをして帰ってきた。それ以外は、いつも御前の送り迎えを日光の兄貴に頼まれているだけだ。御前を一人歩きさせるのは、一文字派として外聞がよくねえからな。
ついでに言えば、御前も遊女と寝たりはしていないと思う。たぶん御前は、見世の様子を見に行っているのだ。御前が監査官になる以前に所属していたのが、花街に関わる部署だったらしい。とても惨いものを見たのだと、深酒をした夜にぽつりとこぼしていたのを聞いた。御前は優しい刀だから、本丸所属になった今でもそのことが忘れられないのだろう。
しかして、腹が立つのは、山姥切はすべて承知の上だろう、ということだ。オレが御前の送迎で遊郭へ行っていることも、女と寝たことがないことも。何なら、御前が何を見て何をしに花街へ通っているのかも、すべて理解っていて言っている。あいつはそういうやつで、そういうところがやっぱりいけ好かない。
「──ん? いや待て、にゃ。俺がどうこうっつーのは置いといて……お前、なんでそもそも、その……オレに、抱かれたいんだ?」
オレたち刀剣男士は、読んで字のごとく『男』の器で顕現される。女や動物の器で顕現することもなくはないが、本当に稀有な例だ。だからこそ、花街だって政府によって用意されている。そして目の前の国広もまた、男士として顕現している刀の一振りで間違いない。
そりゃあ、オレらが使われてた時代には衆道なんか当たり前というか、小姓を傍に置いて可愛がるのは武人の嗜みみたいなところがあったし、逆に主の産まれた時代には同性で結婚することも珍しいことではなくなっていた。どちらの感覚に寄っているにしても、国広がそういう性質なのだということは特別おかしなことではない。だが、腑に落ちない。オレの知る『山姥切国広』なら、仮にそういう欲があったとしても、とくに本丸の仲間には知られないように隠そうとする……ような気がする。言うほど国広のことを知っているわけじゃあないが、陰間茶屋へ行く勇気がない、までは有り得るとして、だから本丸で房事が上手い刀に相手を頼もう、とはならないだろうと思う。
──いや、それもそうだが、それ以前の話だ。そもそも、こいつは。
考え込むオレに、国広はそろそろと小さく口を開いた。咲き初めの乙女椿のような色をした唇が、震えながら声を紡ぐ。
「……や、山姥切、が……」
「あ?」
「…………初めての相手なんて、面倒なだけだと言っていた、から……」
「……うっわぁ……」
山姥切も哀れな。
そう、思わず心の中で手を合わせてしまう。
山姥切が己の写しである国広に執着してることなんて、この本丸の刀ならみんな知っている。以前は、単に『本歌』と『写し』として確執ある相手なのだと考えていた刀も、今の山姥切を見てはその心中を察せざるを得ないだろう。あいつは、ただ『山姥切長義』として『山姥切国広』に執着しているわけではなく、この本丸に始まりの一振りとして顕現し、主のために戦ってきた〝この〟山姥切国広、ただ一振りに心を囚われている。──要するに、国広に惚れている、ということだ。
そりゃあ、その心中にはただの恋慕では済ませられない複雑な感情があるんだろうが、突き詰めればそういう話だ。顕現したばかりの頃はともかくとして、今は山姥切自身もそのことを自覚しているし、一度、国広が折れかかるほどの重傷を負ってからは、あからさまにそれを態度へ表すようにもなった。あれは恐らく、周囲に対する牽制でもあるんだろう。知らぬは国広ばかりなり、ってやつだ。
他方、そんな山姥切の気持ちには微塵も気付いていない国広だが、こちらはこちらで初めから──少なくともオレの知るかぎり、山姥切のやつがこの本丸へ配属されてから、ずっと、山姥切を恋い慕っている。表情の変化に乏しいので気付いていない刀もいるが、山姥切を前にした国広を見れば一目で分かる、と思うんだけどな。ほんのりと目元を薄紅に染め、一心に山姥切を見つめる国広の表情は、見ているこちらが恥ずかしくなるほどいじらしい。
ただ、国広は『自分は山姥切に嫌われている』と思い込んでいる節がある。山姥切のやつは、己の感情を自覚するよりも前から一度だって、国広のことを〝嫌った〟ことはないのだけれども。おまけに己の感情を自覚した今では、国広を何処の姫かと見紛う扱いで構い倒している。あの高慢を絵に描いたような山姥切が、だ。同じ所蔵元で長く過ごしてきた鯰尾など、驚きのあまり堆肥を積んだねこ──オレが斬ったと言われている動物の方ではなく、農作業用の一輪車のことだ──をひっくり返したほどだった。それほどの扱いを受けて尚、口にした感想が『本科は優しいな』なのだから、国広の鈍さは折り紙付きだ。なんつーいらねえ折り紙。足の生えた鶴でも折って鶴丸にくれてやれ、そんな折り紙。
乱曰く『両片想いってやつだよね! 少女漫画みたいでキュンキュンしちゃう!』とのことだが、オレにはそんなイイモンには思えない。例えるなら、見た目だけは碧く美しい死毒の湖。アイツらを見ていてオレが思い浮かべるのは、そんな光景だ。
まあそれでも、あの二振りの間で完結してくれてんのは幸いだろう。ほかの誰かと縁結ばれた国広を眼前にした山姥切なんて、想像したくもない。電気ブランをジョッキで四杯なんて、オレはもう二度と御免だ。
だから国広が耳にしたという山姥切の言葉も、恐らくそのままの意味ではないのだろう。オレへの揶揄を褒め言葉と思い込んでいたように、話の断片だけを聞き取って、勘違いしたに違いない。国広がほかの男と共寝した経験があるなどと山姥切が耳にしたら、怒髪天を衝くのは目に見えている。あらゆる手段を駆使して相手が誰かを突き止め、その夜の内に膾切りにしたとしても、オレはちっとも驚かねえ。そのくらいには、あいつの国広への執着は重い。
「…………色々と言いてえことはある、にゃ」
「ぅ……その、すまない……」
「いや、別に謝られるほどのことじゃねえけど」
正直に言えば、美人に潤んだ目で『抱いて欲しい』と頼まれること自体に、悪い気はしなかった。何というか、うちの国広には男心みたいなもんをくすぐる独特の色香がある、と思う。普通に見れば、ただ小綺麗な顔をした男でしかないのだが、ふとした視線、ふとした表情が、妙に婀娜っぽく映ることがあるのだ。──なんつーオレの所感が、万が一にも山姥切の耳に入ろうもんなら、あいつの号が『山姥切』から『猫殺し切』なるので絶対に口にはしないが。いや、断じて負ける気はしねえけど、マジに殺す気でくる山姥切の相手をするなんて面倒が過ぎる。だからこそ、今、咄嗟にこいつの脳天に一撃叩き込んだわけだしな。
「……あいつは別に『初めてじゃなきゃ相手をする』って言ったわけじゃねえんだろ?」
「それは……そう、だが……」
国広の表情が、とぷりと沈んだように翳る。
──想う相手に、触れて欲しいと望む。ほかの男に純潔を差し出すことさえ厭わぬほど、ただ一夜を希う。
そんな激情を、オレは知らない。今のオレは、時間遡行軍との戦いと、一文字一家を守ること、それから自分の呪いを解くことだけで、いっぱいいっぱいの手一杯だ。
それでもこいつを──こいつらを、放っておけないと思ってしまうのは、結局のところオレがこいつらと過ごしてきた年月を『悪くねえ』って感じている証左みたいなもんで。
「……なあ、お前、分かってんのか?」
畳に座り込んだ国広の肩を、ぐい、と掴んで引き倒す。力の入っていない身体は容易にころりと転がって、金色の髪が藺草の緑に散らばり、天井から注ぐ明かりにきらめいた。
驚きに目を丸くする国広に遠慮してやることもなく、その藍色の着物の合わせを勢い任せに割り開く。肩まで着物がはだけ、鎖骨から胸、その下の臍までが露わになってようやく、国広は我に返ったように着物を掻き合せて、声を上げた。
「……っ、な、なんせ……!」
「これが、お前が望んだことだぜ? ……にゃあ、オレ、何か間違ってるか?」
はくはくと、蒼褪めた顔でオレを見詰める国広に、オレは努めて冷ややかな声を作り、無感情に聞こえるように告げる。本音を言えば、オレの中にもふつふつと怒りが沸いていた。少し懲らしめてやりたい、という気持ちがあった。
こいつは今、自分の身体を遊郭通いの色狂い相手に容易く差し出そうとした。勘違いだったからいいようなものの、もしオレが、本当にヤれれば相手なんて誰でもいいような男だったらこいつはどうなっていたか。こいつが、それに耐えられたかどうか。
「……なん、せ……」
オレの言いたいことが理解できたのだろう。国広は震える手で、組み敷いたオレの胸を押し返す。
「…………すまない……お、俺は……っ」
分かったならいい。
そう言って国広を起こし、ちょいと頭の一つも撫でてやるつもりだった。
「猫殺しくん、国広が来てな……い…………」
何度言ってもノックも声掛けもせずに障子を開けて無遠慮に部屋へと入ってくる、山姥切が現れるまでは。
──瞬間、山姥切から思わず気圧されて息が詰まるほどの殺気が噴き出した。