最近天使を見たと噂が流れている
かと思えばそれは悪魔だと言うものもいた
どちらが正しいかは分からないが村の者は皆教会へ足を運び壮年の牧師に話す
白く美しい天使だった、いやいや赤い角が生えていたアレは悪魔だ、様々な目撃情報に今にも喧嘩が始まりそうだった
そんな人々を止める声が響く
「どちらであれ、ここは神に祈りを捧げるところですよ」
争うのはおやめなさい、と静かに宥めた
その通る声と美しい顔に言い合っていたもの達は口を噤み謝る
「すみません牧師様」
「いいえ、分かっていただけたのならいいのです」
にこやかに微笑むその顔は後光が射しているかの如く輝き人々は手を合わせて拝んだ。その姿に困ったように目尻の皺を濃くさせて、祈りましょうと告げれば先程の言い合いが嘘だったかのように人々が祈りを捧げ始めた。
辺鄙な片田舎の教会で、村民達に絶大なる信頼を寄せられるこの美麗な壮年牧師、本来は神父であるが名をアダム、アダム・ファーストマンという。神父の中では高い位の役職に着くそれはそれは素晴らしい信仰者なのだがそれを知る者はここには居ない。牧師様、だなんて勘違いしてるくらいなのだからその違いが分かっている者もいない。
元々この村には管理者の居ない無人の教会があるだけであったが、そこへある日突如として配属されて来たのがアダムだ。顔に少しの皺があるもののチェーンの着いた眼鏡の奥には金色の瞳が嵌っていて人外のような美しさを持っていた。その美しい目が細められにこやかに笑いながら話を聞いてくれるのだから閉鎖的な考えを持っていた村民たちは瞬く間に絆され魅了されていった。中には悪魔なのでは、などと勘ぐる者も居たが結局日々コツコツと仕事を熟すアダムの姿に皆心を開いて行ったのだった。
アダムは祈りが終わり村民達を帰すと教会の奥、少し寂れているがきちんと人の住める程に綺麗に整えられた小屋へと向かった。小屋の扉を徐ろに開けて
「おいこらクソ悪魔!!どうせ今日も来てんだろ!?出て来やがれ!!」
バンッと扉を閉めると共に声を張上げる。傍からは誰も居ない。窓際に設置された丸い机の上にあるロウソクがボッと突如火が灯り風もないのに大きく揺れる。それと同時にまだ昼前だと言うのに部屋の中はぐっと暗くなりロウソクの火がさらにゆらゆらと揺らいだ。グラグラと不安定に揺れたあとぶわりと火が大きく膨らみそこからズズズと黒い影が形を成していく
《全く騒々しい、もう少し静かに呼べないのか?》
スっと赤い目が黒い影から浮かび上がり、まるで地の底から響くような声が呆れを含んで響く。
アダムがそちらをギッと睨めば、炎が勢いよくゴウッと音を一つ鳴らして燃え上がり消えた。浮かび上がるそれがカツリと杖を着けば暗かった辺りが一瞬にして引き元の明るさが戻ってくる。
ふわりと煙が薫り消える。火の無くなったそこに、白い肌美しい顔した"それ"がアダムを見つめてニヤついていた
「そんな怒ってどうした、アダム」
「検討着いてるんだろ?身に覚えがないとは言わせねぇぞ」
「はて?なんの事だ?」
まるで思い当たることなどありませんとばかりに肩を竦めて笑う姿にイラつき神父あるまじき顔でアダムが噛み付く
「外で姿を現すなって言っただろうが!!この私が悪魔を祓えずこうして何度も侵入を許してしまっていること自体腹が立つってのに!」
「ハハッそういえばそんなこと言っていたようないないような?ま、だとしてもお前が私の行動を制限することは出来んよ。私より弱いんだから」
悪魔らしい暴論をケラケラと笑いながら言うその顔に十字架を押し付けてやりたくなったが、こいつの言う通りそれが出来ないほどには力の差は大きい。その辺に現れる雑魚悪魔やたまに現れる上級悪魔なんかであればアダムからすれば指先一つで片付く話だが、この目の前の悪魔にそれは通用しない。
「それとも私と契約するか?そうすれば少しは縛れるかもしれないぞ?」
「誰が悪魔と契約なんざするかよ、どんな状況でもそれだけは絶対しない」
「んー、絶対?」
「絶対、だ!!いいか、今度外で姿表しやがったら祓魔師総出で地獄に送り返してやるからな!!わかったかルシファー!!」
呼ばれた名に、ニンマリと尖った歯をむき出しにして笑った
そう、この悪魔こそ何を隠そう先程噂された天使のような翼を持った悪魔。誰もが一度は聞いたことがあるであろう地獄の王、神を裏切った元熾天使。堕天使ルシファーだ。神父として遺憾ではあるが牧師としても悪魔を祓うものとしても村民から多大なる尊敬と信頼を寄せられているアダムからすれば悪魔と関わりがあるということすら身の危険がある。しかも地獄の王とかいう超弩級の悪魔だ。それでなくとも他の神父連中からはやっかみを受けることが多いのにこんなことがバレればそんな奴らに餌をやるようなもの。せめて地獄へと祓うことが出来るのが一番だがしかしこの悪魔にはアダムの神聖力でも敵わない。ならば悪さをしないようにと見張り睨みを利かせているのだが、やはりなにも響いていないらしい。そもそも何故こんな大物が現世に舞い降りているのか。前に聞いたが対価を要求されたので知り得ることは出来なかったが、大方馬鹿な連中が生贄と引き換えに呼び出したことは明白であった。ま、一人で動いているのを見れば召喚者は漏れなく全滅しているだろうけれど。
「残念だ、お前なら特別可愛がってやるのだがなぁ」
「要らねぇ、心底吐き気がする。そういうのはビッチにでも言ってやれ」
「酷いなぁ、本当に神父か?あぁいやここでは牧師様だったか!」
はははとバカにしたように笑うルシファーの言葉にムカムカと怒鳴りたい気持ちが膨らむが、村の外れとはいえ爺婆ばかりのこの村で声を荒げれば直ぐにでも人が飛んでくるだろう。怒りを沈めるように息を吐き気持ちを落ち着かせる
「なんだ、会話は終わりか?」
「お前との会話はイライラするだけ、生産性が無い。帰れ」
「おいおい、そうカリカリするな。もっとしわくちゃになるぞ?」
「お前のせいだが??」
そもそもそこまで皺ばっかりじゃない。こんなイケオジそこら探してもなかなかお目にかかれないんだからな。年々歳追うごとに老けていくのは人間故仕方ないのだとムスッとした顔をする。見た目は落ち着きのある聡明そうな壮年だと言うのに仕草はてんで子供のようでルシファーは思わずくすり笑ってしまう。こんなに整った顔立ちなのに今生では妻も居ないこの男の昔の姿を思い出してやはりなんだか意外だなぁと考えた
「それにしてもお前が独身のままとはなぁ……女好きでは無かったのか?」
「神父は結婚しないんだよ、神に身を捧げてるからな」
「はは……また神か…」
返ってきた言葉にルシファーは思いっきりテンションが沈んだ。神父という職柄仕方ない事とはいえこの男からその言葉が出てくると、どれだけ記憶が無かろうとこの男は神のものなのだと突き付けられる。どれだけ転生を繰り返しても、この男が神を信じ愛することはその魂に刻み付けられ埋め込まれているのだろう。最近は眼鏡から変えたモノクルを着けキャソックに身を包み、首にはロザリオを提げている姿が身も心も神のものだと示されていてルシファーとしては面白くない。アダムがおじさんと呼ばれるだろう歳になるまで見つけることが出来なかったことも気に食わない。
だからこそ、ルシファーはそれを粉々に壊して神など信じても何も返ってはこないのだとアダムから神を見限らせてやりたいのだ。そうしてそこに付け込んでその輝かしいほどに真っ白なその魂をルシファー好みに染め上げて堕としてやりたい
じっとルシファーがアダムを見つめていると、その視線が鬱陶しかったのだろう。アダムが首元に手を当てて露骨に他所へと顔を背けた。そして懐から煙草を取り出して口に食む
「あ、おいやめろアダム」
「うるへぇ」
カチリと煙草に火をつける姿にルシファーはきゅっと眉間に皺を寄せた。やめろと言ったのに反抗的な態度で煙草を吸うアダムに腹が立つ。
今アダムが火をつけ吸っているそれは悪魔除けの煙を放つ。存在認識を阻害する役割もあるらしくそのせいでアダムが老けるまで見つけることが出来なかったのだ。
「お前のせいでこの小屋だけ浄化出来てないんだ、これ以上悪魔が寄り付かれても困るんだよ」
「私の居るところに悪魔共は寄って来んよ。あいつらは私を嫌っているからね」
だからその煙草を消せと伝えてもアダムはチラと視線をやるだけで無視して吸い続けた。いくら効かないとはいえその煙は不快な気持ちにはなる。如何にも機嫌が悪いですというような顔でアダムを見つめていると、アダムがふと振り向いてあろう事か煙を顔に吐いてきた
「うっ…!ぅえっほッ…、アダムっ!!」
「ハッ!嫌だったらさっさと地獄へ帰れ!村を彷徨くな!」
しっしと追い払うように手を払うアダムにルシファーの目がすぅっと細まる。威圧感がアダムを襲って少しだけ息のし辛さを感じた。震えそうな身体をどうにか押し止めて平然を装う。ゆっくりとヒールを鳴らしながら近付いてくるルシファーの行動を見逃さぬよう目で追って何かあれば直ぐに反撃できるよう構えておく。効かぬと言えど怯ませることくらいは出来るはずだ。私の拳は神の力を纏った攻撃なのだから
そんな事を知ってか知らずか、悪魔は歩みを止めず近くまでやってきた。突き刺さるような重苦しい緊張がふと和らいでルシファーの顔が獲物を睨むものから愛しいものを見るかのような表情に変わり思わず怯んでしまう
「アダム」
「なんッ!?ぅぐっ!?」
勢いよく胸ぐらを引かれ首を鷲掴みにされる。その小さな身体に不釣り合いな大きな手がアダムの太い首を片手で掴み締め上げていく。気道を塞がれて息が吸えない。至近距離で睨み上げてくる赤い眼がアダムを射抜くように威圧してくる。ひゅっひゅ、と喉から音がして脳に酸素が回らない。突き放そうと暴れようにも下手に動けば更にくい込んで気道を狭めていく。握っていた拳を解いて首を絞め上げるその手首を弱々しく握ればジュウッと焼ける音がする。それでも悪魔は視線を逸らさず、力も緩めることも無くただアダムを真っ直ぐ見ていた。そして、瞳が上向きになって意識を手放すその瞬間にアダムを抑えていたものがパッと外れる。力が抜けて身体が崩れ落ち、滞っていた空気が一気に供給されて勢いよく咳き込む。その姿をルシファーは満足げに笑ってみていた
「あまり調子に乗るなアダム。お前は私の契約者じゃないし主人にもなれない、私がどう行動しようとお前にそれを制する力は無いし権利もないんだ」
「ゲホッ…!、ぐッ……て、め」
「全く…神聖力なんて小賢しいものまで使って……。私には効かない事くらい知っているだろうに」
ルシファーが呆れたような顔で焼け爛れた箇所を数回叩けばそこにはなにも無かったかのように元通りになった。
つくづくアダムは私の癇に障ることをするなぁ、いつになったら学習するのだろう。知恵の実食べたはずなのに
「あぁいやお前は食べてなかったな」
「ぁ?」
「そう怖い顔をするな、可愛いだけだぞ?」
「気色悪いこと言ってんなよ…矛盾してんだろ…」
落ち着いてきたのかアダムは喉を擦りながら立ち上がる。指の隙間から見える喉仏を見て、口角が自然と上がった。アダムの身体に刻み込まれた罪の形。飲み込み切らず喉に残ったそれ。
「…何笑ってんだ気持ち悪いな……さっさと帰れよ……」
「うん?はは、まだ帰らんよ。…当分な」
ルシファーはまたアダムに手を伸ばして、アダムはそれを払った。結局、今日もルシファーは地獄に帰らなかったし、アダムはまた彼の存在がバレぬように工作するしかなかった。
――――――
眩い日差しがカーテンの隙間から差し込んできて重い瞼を開く。ゆっくりと上体を起こしてぐぐっと伸びをした。顔を洗って鏡の前で髭を整える。ナイトウェアを脱いでカソックに身を包み髪を整える。最後にモノクルを掛ければ村人に慕われる教会の"牧師様"の完成。大変遺憾であるが。
聖書を片手に礼拝堂へ向かえば既にミサの為に来ていた村長が頭を下げる。
「おはようございます、牧師様」
「おはようございます村長。今日もお早いですね」
「老人は朝が早いだけですよ」
「早起きは良き習慣です、謙遜なさらずに」
柔らかく笑ったアダムの言葉にほほほと嬉しそうに村長は笑う。アダムは笑顔を張り付けながら名前の思い出せぬ村長と談笑を続けた。そうしていると続々と人が集まってきて、気が付けばアダムを囲って住人たちが会話に参加していた。
「そういえば牧師様はご結婚なさらないのですか?」
そう問いかけたのは村でもよく教会へ足を運ぶ農家の老人で、アダムはその問いに数日前にも同じ内容にきちんと答えたのにまた忘れたのかと頬を引くつかせた
「私は神に身を捧げたものですから、家庭は持たないのですよ」
「そうなのですねぇ、お寂しくは無いですか?」
「大丈夫です、神が見ていてくれてますから」
皆さんも居ますしと笑えば老人たちは嬉しそうに照れながらわやわやと話していた。アダムはそれを貼り付けた笑顔で眺めながら、こいつら早く席に着いてくれねぇかななんて思っていた。
コツリ、とそこへ田舎の教会には似つかわしくない音が響く。アダムがそちらに目を向ければ、教会の入口に黒い服に全身を包んだ細身の男が立っていた。その男の顔を見てサァッと血の気が引く。ブロンドの髪を後ろに撫で付けた色白の男はその美しい顏に笑みを浮かべてこちらにゆっくりと向かってくる。楽しげに話していた住人たちもそちらへ振り返りその男にいくつもの視線が向かった
「おはようございます、ミサはまだ始まっていないのですね」
良かった、と笑った男のその綺麗な笑みは思わず目を奪われるものだった。
「に、兄ちゃん見ない顔だが…」
「えぇ、少し前に村外れの小屋に引っ越してきまして」
「またなんで兄ちゃんみたいな綺麗なお人がこんな田舎に…?」
「療養です。身体が強くないものですから」
微笑む男はまるで天から遣わされた天使のように神々しく、そして美しかった。警戒していた住人たちはその笑みに見惚れ男と会話をしようと口を動かす。アダムだけが青い顔でその男を睨みつけていた。
「兄ちゃん名前はなんて言うんだ?」
「あぁ、自己紹介が遅れました。ルキフェルと言います」
笑みを絶やさずそう名乗った男の目が怪しく鈍く光ったのをアダムは見逃さなかった。アダムが糾弾しようと口を開けた瞬間周りにいた住人たちが行く手を阻んだ。あっという間に住人たちに囲まれた男は住人たちの声に答えながらチラとアダムを見た。怯んだアダムの目に写ったのはニヤリと笑う悪魔の笑みだった
――――――
「どういうつもりだ」
人の居なくなった教会で、アダムは腕を組んで一人残った男にそう問いかけた。神父らしからぬその態度を見てもルキフェルは笑みを浮かべながら食えない顔で見上げるだけ。
「どういうつもり、とは?」
「その演技くさい話し方も止めろ、"ルシファー"」
「……ふふ」
強気な態度で冷静に男を問い質すアダムはその実焦っていた。神聖なる教会の礼拝堂。悪魔であるルシファーが人の姿をとって平然と立っている。それはあまりにも危険な状況だ。教会という神に一番近い場所では本来悪魔は足を踏み入れることも出来ない。それなのに人間の姿をしているとはいえこの悪魔は平然と中に入りミサの間神への祈りすら聞いて今なおこうしてアダムの前で笑みを浮かべているのだ。
「何、元の姿では外を彷徨くなと言われたからこの際堂々と外を歩いてやろうと思ってな」
「…このクソ悪魔……」
「口が悪いなぁ……。はは、何故、という顔をしているな?ここに居て平然としてるのが気になるか?効いてないわけじゃないさ。ここに居ることはだいぶ体力を削られる」
そうは見えない。悪魔の時と変わらず食えない笑みでアダムの言葉に答えていく姿はただの人間だ。教会に入ればどんなに強い悪魔であっても直ぐに正体が明かされるのに。
「神が本気を出せば私も消失させることが出来るだろうな?だがあの方はそれをしない。だから私は地獄に居る。それはここでも変わらない、ということだな」
「神が此処に居ることを許しているとでも?」
「いいや、許されてる訳じゃない。無関心に捨て置かれているだけだ」
神の怒りに触れ光に焼かれる方がまだマシだろう。慈悲も関心も興味も怒りもない。ルシファーの顔はどこか憂いを帯びているように見えてアダムは少したじろぐ。
「ま、これで彷徨くのは問題ないだろ?これからよろしくお願いしますね"牧師様"!」
「は!?いやそういう問題じゃねぇ!てか牧師って言うな!!」
からかうようなルシファーの言葉にアダムの神父らしからぬ声が礼拝堂に響き渡った