夢を見ることの代償 ハッチンはヤスのことが好きだ。それは眠る時の夢にも見るほどに。
その夢は至極幸せなものだった。ヤスが自分を求めてくれている。自分に愛を囁いてくれている。現実ではありえない事だ。
ハッチンはその夢に満たされていた。夢の中で十分な程、甘美な思いができていた。少しの切なさを感じながらもその夢に酔いしれていた。
だから現実でヤスに思いを伝えることは無かったのだ。
最近、ハッチンは夢にヤスを見ていなかった。夢を見て満たされていたハッチンにとってそれは中々に心苦しいものであった。
――満たされたい。ヤスに満たされたい。なんで出てきてくれねぇんだよ。
そう考えながらいつものライブ練習の場に向かう。扉を開けると同時に屋内の心地いい空調がハッチンを迎え入れ、これからギターをかき鳴らすことができるという思いを増幅させる。そうなれば気分もだんだんと上がってくるものだが、恋心を向ける相手と顔を合わせることになるのはやはりため息を出さずにはいられない。
マスターにあいさつをして目的の部屋に向かう。
何やら騒がしい。
「なんでこいつ何も言わねンだよ!」
ヤスの怒鳴るような声が外にまで聞こえる。イライラすることはよくあっても怒鳴ったり等はなかなか無い。そんなヤスがいったい何に憤怒しているのか、大抵は双循が原因だろう。そう思いながらハッチンは扉を開けた。目に入ったのは予想外、言葉通り予想なんてできない光景だった。
ハッチンの目にはヤスが確かに、ふたり映ったのだった。
「ふぁ……ファ!?」
ハッチンの口から抜けた声が出る。
ひとりのヤスは怒鳴り声をあげ、またもうひとりは椅子に座ってプイと目の前の怒鳴るヤスから顔を逸らしている。
どうやらヤスの怒りの原因はこのもう一人のヤスにあるらしい。
「よぉハッチン。この通り何故かヤスが二人居てな。どっちがオレ達が知るヤスかはもう分かってんだけどよ。こいつ全然喋らねぇんだよ」
最初にスタジオに着いたのはヤスとジョウの二名だった。
「まぁ、オレらよりもこのヤスが先にここに居たんだけどよ。その時からヤスもすげぇ焦りながらコイツに色々聞いてはいんだけど目を合わせようとすらしねぇ」
「随分と不愛想な奴じゃのう。この根暗以上じゃ」
「おい」
双循が来てからも同じことだったらしい。いくら煽りの言葉等かけても応答は無い。
「なぁ、お前ヤスのドッペルゲンガーかなんかかよ」
ハッチンがもうひとりのヤスの顔を覗き込むようにして問いかける。
そうするとその目はゆっくりと、瞳孔が確かにハッチンの瞳に向けられた。目が合った。
「違う。オレはあいつとは違ぇよ、ハッチン」
「うわ喋った」
「いや、喋らねぇと逆に困ってただろ」
「ハチ公には一言目で返すとはのう」
ハッチンは気付いた。ハッチンはこの目を知っていた。瞳の奥にある熱を知っている。
「おま、え」
――オレの夢の中に出てた……。
その言葉は口に出ることは無かったが考えが分かったかのように微笑みで返される。
そして確信した。その表情を知っているから。その表情は顔を覗き込んだハッチンにしか見えない。
それはハッチンのユメだった。
「喋れるなら最初から喋れようぜぇ」
「喋りたくなかったからだ」
先ほどの表情は消え、また不愛想な顔に戻る。
ヤスはかなり腹を立てているのか、拳を震わせる。自分と同じ顔がかなり自分勝手な発言をしていることが耐えられないのだろう。
それ以前に自分と同じ姿をした者が居るだけでも当事者からすればかなりのストレスになるはずだ。
「まぁずっと返してこなかったよりはマシだ……ん? ハッチン、どうしたんだ」
黙ったままのハッチンを不審に思ったのかジョウが声をかける。
「あ、いや何でも無ぇ」
やっと話を始められるということで一同質問を始めた。
どこから来たか。
――言わねぇ。
オレ達を知っているか。
――知ってる。
「言わないと答えたということは何処かから来たかという概念はあるということじゃな。別の似た世界から来たと考えるのが妥当、といったところかのう。にわかに信じがたいが。」
「ドッペルゲンガーってなんかおっかねぇ話無かったか? そいつに負けたらオリジナルが消えるとか」
「へ、変なこと言うなよ」
「ともかく、だ。その辺ウロウロさせるわけにはいかねぇだろ。しばらくヤスの家に居てもらうしか無いんじゃないか?」
それを聞きヤスは顔を顰めた。母親にどう説明すればいいんだと。しかし自分と同じ顔がどこかで好き勝手やるよりはマシだった。
「はぁ……お前」
「いや、オレはハッチンのところに行く」