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「賢者様、お手をどうぞ」
そんな言葉と共に目の前にその白い手が差し出された瞬間、晶は強烈な既視感に胸の奥がどきりと脈打つのを感じた。
その場所は小さなカフェテリアの出入り口で、数段の段差はあったものの、決して助けを借りなければならないような場所ではなく、形式的に人に手を差し出すのが当然のことになるようなパーティーの場でもなかった。
状況にそぐわないその手は周りの背景から妙に白く浮いていて、そこだけはっきりと照明でも当てられたかのようにさえ見えた。可愛らしい白い階段の手すりも、それに絡まった蔓草とプランターの小花も、周囲を行き来する店員の赤いエプロンも皆ぼやけてしまって、ただその手だけが目の前で鮮やかな色をもって見える。
少し視線を上げるとそこに嵐と春の混じり合う彩りが加わったが、それは手の持ち主のものだったので、晶の心臓の音は大きくなっただけだった。こちらを静かに観察するような、それでいて少しだけ温度のある眼差しは晶に恐怖を覚えさせるような種類のものではなかったし、どちらかと言えば柔らかいものだったのだけれど、それは奇妙な緊張感をもたらした。何か大きな決定をしなければならないときに感じるような、そういう緊張感を。
「――フィガロ、これくらいの段差、さすがに俺でも転んだりしませんよ」
苦笑いと共に答えながら、晶はその手を取った。そうしないという選択肢がそもそも頭の中になくて、そうすることで相手の掌が少しだけ温むことも知っていた。案の定見上げた翠色は穏やかに緩んで、指先がやわらかく握られたように感じた。
「そんなことはわかってるけどさ、こういうのは気持ちの問題だよ。賢者様はちょっとぼんやりしてるとこもあるし。第一今朝も魔法舎の前で転んでたじゃない」
仰々しい仕草をした当の本人はごく軽い口調でそう言ってのけて、晶の足が段差の一つ一つを辿るのを導くように手を引いた。彼の口に出されたのは紛れもない事実だったので、返す言葉もなく眉をほんの少しばかり下げる。
「あれは猫に気を取られてたのと、足元に石があったので」
「でもよく転ぶ人は大体そう言うよね。――診療所に良く来るお爺さんもよくそんなこと言ってたな」
「そこらへんはお年寄りと一緒にしないでくださいよ、さすがにまだ足腰はしっかりしてます」
不満の意を込めて見上げると、また春の色が眇められてどこか微笑ましいものでも見るような形になった。
「あはは、ごめん――そうだね、きみはまだ子供みたいなものだった」
「フィガロ」
口を尖らせて見せるとまた軽い笑い声が聞こえてきて、頭をぽんぽんと叩かれた。長い足の辿る道をそのままなぞると、赤いレンガの小道が目に入る。そのレンガのひび割れや、細かな模様の一つ一つを眺めながら、晶はふと先程の既視感のことについて考えていた。
そもそもフィガロが晶に向かってその手を差し出すのは初めてのことではなくて、どちらかと言えば人との距離が近い傾向にある彼は、晶と知り合った当初から冗談めかしてそういう仕草をすることが少なくなかった。篭絡したいなどと言いながら手を差し出されたのはいつのことだったか、出会った当初からそういう振舞が嫌味なほどに様になる男だと舌を巻いたものである。
今のように親しくなる前、大抵そんな風に手を差し出すときのフィガロの目の奥は揶揄いとか、面白がるような色だとか――最初の一度の時などは支配的な圧迫感さえ隠していて、晶はその視線から逃れようとしたものだった。親しくなってからは――やっぱりそこには多少、晶の反応を愉しむような調子があったように思う。
けれど先刻手を差し出されて晶が思い出したのは、そういうフィガロの表情ではなくて、先程のようにどこか凪いで柔らかな彼のそれだった。慕わしいものを見る時に生き物が作る柔らかな表情、ほんの少しの羨望と渇望の宿る瞳、それからじっと何かを問いかけるような力をもった眼差し――いつもの彼が晶にあまり見せることのないもの。そしてそれらを一緒くたになって向けられて、あの日の晶は口籠ってしまったのだった。
――あれは、パーティーの日のことだった。南の魔法使いと西の魔法使いが作る花壇に晶の花も添える為、フィガロが花を一緒に選びに行ってくれ、帰りがけにその植え付けを祝う為のパーティーに招待すると言って誘われた。「もう怖くないでしょ」なんて言いながらいつかのように手を差し出してきたので、その時は笑いながらその手を取ったのだ。二人の間にあったちょっと笑えないような思い出を茶化しながら、それを懐かしむようなつもりで。
「本気でエスコートしてもいいか」などとそれらしいことを言うので、手を取ったはいいがさすがに恥ずかしくなって、晶は冗談を口にした。本当に、その場のちょっと気恥ずかしい気分を取り繕うようなつもりで。
「そんなことばっかり言ってると、本気にしちゃいますよ」と。
きっとフィガロのことだから笑ってその冗談に乗ってくれると思っていた。そんなことになったら双子先生に怒られちゃうかな、なんて軽口を叩いて笑いに変えてくれると思った。けれど見上げたフィガロの表情は晶の予想していたそれとは全然違う様子をしていた。
最初は驚きの色がそこに広がって、彼の美しい目が真ん丸になった。その大きさの変化に、あ、猫の目みたいだな、などと考えていると、その表情を顔にのせたまま彼が何も口にしないので、次第に何かがおかしいぞという気になった。それから、次に見えたのはすこしだけ困ったような笑顔だった。眉を下げて、けれど目の奥には温かい色を宿して――晶の言葉に迷惑して困っているという風ではまるでなくて、どちらかと言えば自分の心の内を持て余しているように見えた。
多分言葉を選び間違えたのだ――悪いことを言ったわけではないけれど、多分今口にするべきでない冗談を口にした。そんな風に気付いた時には、既に多分遅かった。繋いだ手にゆっくりと引き寄せられて、もう片方の手がゆるゆると晶の頬に伸びていた。
「いいよ」
フィガロは短くそう言って、それからもう一度繰り返した。
「――いいよ、本気にしても」
淡く潤んだ瞳に見下ろされれば、そこから目を反らすことはできなかった。身体がかちこちに固まってしまうなんて本当にあることなんだ、と他人事のように頭の隅で思いながら、じっとりと自分の手に汗が滲んでいくのを感じていた。いつもは少し離れたところから見る美しい顔が今日はひどく近いところにあって、もう少しで肌と肌が触れてしまうんじゃないかと思った。
実際に触れたのは指先だったけれども――ひんやりとしたその感触にぶるりと身体を震わせると、柔らかな指先がつうと頬を撫でた。触ることそのものを楽しむようなやり方だなと思った。そういうやり方で晶に触れた人は今までに恐らく、いなかった。
それは永遠にも似た時間に思われたけれども、実際は多分ほんの数十秒のことだったのだと思う。凍り付いた頭と舌を何とか動かして、その場に降りた空気を払ってしまおうとした――どうしてそうしなければならないと思ったのかはよくわからない。だって別に嫌ではなかったのだ。彼の顔がこんなにも近くにあることも、手が繋がれたままであることも、それから普通の友人同士ではしないような触れ方をされることも。
「あ、あの、本当にお言葉に甘えて何もかもエスコートされちゃいますからねって、そういう意味ですからね?」
絞り出した声は掠れていて、どこか情けなく震えていた。自分が何かに怖気づいていることがわかったが、果たして何にというところまではわからなかった。揺れる春の色はしばらく晶をじっと見下ろしていたけれど、やがて惜しむように指先が離れて、薄い唇が開いた。
「――ほっぺたに花びらが付いてたよ。さっきお店で選んでた時かな」
フィガロはそう言って目を細めてからその顔を遠ざけた。多分それは彼の優しさだったんだろう、離れて行った指先は頬についた何かを払うような動きなんて一度もしなかったから。
くるりと踵を返すと、そのままフィガロは晶の手を引いて歩を進めた。身体が離れても彼がそれを離すことはなかったし、相変わらず晶の手はしっとりと濡れていた。
多分あれからだ――反芻するだけで身体の奥が熱くなるような、その時のことを思い出しながら晶は考えていた。自分のつま先がレンガ色の石畳を一つ一つ踏んでいくのをぼんやりと眺めながら、ここ数週間のことを思い返そうとした。
あの日から、フィガロはことあるごとにつけ、手を差し出すようになった。昔とは少しだけ違ったやり方で、芝居がかったような調子が少しばかり消えて、より自然なやり方で――そして周りの者が不審に思わない程度に回数が増した。白い手が目の前に差し出される機会はさりげなく増えて、階段で、晶の部屋の前で、図書館の梯子の前で、事あるごとにそれは晶に取られることを待っていた。
あまりにも頻繁に差し伸べられるそれにさすがに冗談の一つでも言って窘めようかと思ったこともあったが、上手い台詞はないかと探そうとしたところで、はたと気付いてしまった。――あの日も、冗談めかして茶化そうとして、思ってもいなかったような言葉が返って来たのだ。同じように手を差し出されて、それを取って――そしてあの時交わした会話は今も特に閉じられることもなく、宙ぶらりんのまま二人の間に横たわっている。
ひょっとして、とその時晶は思った。フィガロは自分に思い出させようとしているのかもしれない。あの時と同じように手を差し出して、あの日のやり取りの続きを待っているのだと暗に示しているのかもしれない。強烈に印象に残る映像は、それに伴う記憶も呼び起こすものだ。こと記憶に精通するフィガロであれば、意図的にそういう手段を取ってもおかしくはなかった。
思い付いた考えに何を馬鹿な、考え過ぎだと自分を笑い飛ばしたこともあったものの、奇妙に凪いで穏やかな、それでいてじっとこちらを見つめて来る翠の瞳を見ていると、やはりと考え直さずにはいられなかった。
それは刷り込みのように、何度も何度も差し出された。
その度に晶は思い出した――あの時彼の身体がとても近くにあったことや、その指先が思いのほか柔らかかったこと、それから自分の心臓がいつもよりずっと速く鼓動を打っていたことなどを。
「賢者様」
耳慣れた声がして、晶ははたと足を止めた。見上げれば少し気遣わし気な表情をしたフィガロの顔がそこにあって、首を小さく傾げていた。
「どうしたの、ぼんやりしちゃって――具合でも悪い?」
長い脚の後を追って規則正しく足を動かしていたつもりだったが、足取りに乱れでも出ていただろうか、あるいは物思いが顔に出ていただろうか――いずれにせよフィガロは人の機微に聡い方だ、ほんの少し漏れ出た何かに気付いたのだろう。
「すみません、ちょっと考え事を」
曖昧に笑ってそう口にしてしまってから、晶はこれではほとんど相手のことを気にしていると白状しているようなものだと気付いた。もしフィガロがさっき何らかの特別な意図をもって手を差し出したのであれば尚更に――そんなことを考えているうちに自分の意志とは関係なく血が身体中をめぐるスピードが速くなって、頬が熱くなった。
「なんのことを考えてたのかな」
「――ちょっとした考え事です」
嘘をつきたくはなくてぼやけた言葉で誤魔化したが、フィガロはその視線を外そうとはせず「ふうん」と短く答えただけだった。
ふと辺りを見渡して、見慣れぬ景色が広がっていることに気付いて、晶は瞬きをした。買い物も済ませ、軽くお茶を飲んで、魔法舎に帰るのだとばかり思っていたのだ。けれど目に映る並木道はいつも帰り道に見るそれとは葉の色も、街灯のペンキの色も、何もかも違っていた。
「あの、魔法舎に帰るんじゃなかったんですか?」
頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、フィガロは困ったように笑って口を開いた。
「やだなぁ、さっきこの後もう一か所付き合ってって言ったじゃない。忘れちゃったの」
「――そうでしたっけ、すみませんなんか本当に……ぼんやりしていて」
どうやら物思いに耽っているうちにフィガロからそんな提案がされていたらしい、多分考え事をしながら生返事をしてしまったのだろうと、自分の態度を恥ずかしく思いながら、一方で彼の問いになら無意識のうちにうんと頷いてしまう自分に驚きもした。他の者が相手だったらそうはならなかっただろうに。
「ほら」
少しだけ呆れの混じった、それでいてどこか優しい苦笑を漏らしながらそう言うと、フィガロはすっとその手を差し出した。節くれだったそれに薄く浮かぶ血管を目にした時、晶はどきりとまた胸の奥で何かが跳ねるのを感じた。恐る恐る見上げると、そこにはあの時と同じように、何かを問いかけるような調子の春色が輝いていた。――頬に触れた冷たい指先のことをまた、思い出す。掠れた低い声が紡いだ言葉のことも。
そんなことしてもらわなくても大丈夫ですよ――その一言が何故か言えなかった。どうしてかその手を取らなくてはならない気がして、恐る恐る自分の手をそこに重ねると、あの時と同じように柔らかく握られて、胸の奥がきゅうと縮んだ。
「――そんなに遠くないからさ、ちょっと付き合ってよ」
そんなことを言いながら、フィガロは晶の手を引いたままでゆっくりと歩きだす。それに導かれるままにまた一つ一つ石畳を踏んでいったが、今度はぼんやりしている余裕はなかった。全ての意識がそこに集中してしまって、考え事などしている余裕がなかったのだ。
握られた手のひらが微熱をもったように熱くて、じっとりとそこが汗をかいた。時折自分のものより幾分長い指が弄ぶように掌を撫でて、感触を確かめるような動きをする。思わずそっと握り返そうとすると、まるでもっと繋がりを深くしようとでもするように、指の間を開かれた。長い指が絡んで、まるで特別な関係にある者同士がするような、そういう手の取り方になる。
晶は思わずぎゅっと目を閉じて、急いてしまいそうな呼吸をなんとか落ち着けようとした。あの日与えられた小さな一言が、頭の中で響いた。いいよ、本気にしても――。
それがどういう意味を持つかということに、晶は薄々気付いている。自分がその一線を越えても構わないと、心のどこかで感じていることにも本当は気付いている。けれど言葉通り本気にしてしまったらどうなるのだろうと想像することは恐ろしかった。そこは泥濘に見える――多分そこは晶が足を踏み入れたところのない場所なのだ。多分一度つま先を突っ込んでしまったら、後には戻れないような、そういう場所だ。
本当に、本気にしたら、どうなってしまうんだろう。そう自分に問いかけると、どこからか笑う声が聞こえるような気がした。もう遅いじゃないかと笑っている。――お前の足はもう温かい泥水の中だよ。
大丈夫、と言わんばかりに柔く手を握り込まれて、晶はそれに応えるように自分も握り返した。手のひらを染めていく熱も、じっとりとまとわりつく湿気も、もう一体どちらのものなのかわからなかった。