少しでも目を離した隙に桜に攫われてしまいそうだ──などと、自分より頭一つ分背の高い年下の男をぼんやりと見上げながら考えていた。
「桜が満開だからお花見デートしよう」と呼び出されたはいいものの、特に何をするわけでもなく、ただただ桜並木の中を歩くだけ。
ムカつくことに待ち合わせ場所で逆ナンされていた迅に連れられるがまま訪れたその場所は、どうやら市民にはあまり知られていない穴場スポットらしい。平日の昼間ということも相俟ってか、人影はまばらだ。
顔見知りに出くわす未来も視えていないから──と恋人繋ぎで手を繋がれ、暖かくなったというのに死人のように冷たい迅の左手が、俺の体温によって少しずつ温度を取り戻していく。それがなんとはなしに嬉しいと感じてしまうのは、久々のデートに浮かれているからなのだろうか。
「……、風間さん、ちょっとじっとしてて」
不意に俺の方へ向き直った迅の右手が頭へ。何事かと思いつつも大人しくしていれば、その手には一片の花びらが。「ついてたよ」と笑いかける迅の髪にもいくつか花びらがあしらわれ、それを取ってやろうと腕を伸ばしながら背伸びした。
「……ッ、!」
伸ばした左手は迅の右手に掴まれ、繋がれていた反対の手が解かれ、腰に回される腕。気づいた時にはもう遅く、腕と腰をぐっと引き寄せられた直後、柔らかいものが唇へ触れていた。
「んっ……、、……っ、おい、ここ、外……ッ、」
「ふふ、今なら大丈夫だっておれのサイドエフェクトがそう言ってたからね」
悪戯っぽく笑んでウインクをしながら手を繋ぎ直す気障ったらしい恋人に、軽めのローキックをお返しする。よりによって外でそんな真似を仕掛けるこいつもこいつだが、不覚にもときめいてしまった自分も腹立たしい。
「っごめ、ごめんてば……っ、……ん? あれ、……ていうか、照れてる? ……ッいててててて!」
図星すぎて余計に腹が立つ。ムカつくったらありゃしない。春の陽気に負けないほど顔が火照っているために、今の俺が耳まで真っ赤になっているであろうことは容易に想像がつく。謝りつつもにやけ顔を隠そうともしない迅に、半ば八つ当たりのように繋がれた方の手の力を強めた。
「うう……痛い……骨が折れちゃいそうだ……せっかくいい雰囲気だったのに……」
「おまえがこんな場所であんな真似をするのが悪い」
「ごめんってもうしないから……はぁ、あんたは何をどうやっても桜にゃ攫われそうにないな」
「余計なお世話だ」
──おまえの方がよっぽど攫われてしまいそうだしな。そう独り言ちた声を聞き逃さなかった迅が突如として手を振り解き、駆け出していく。桜の絨毯の上をトレンチコートをはためかせながら駆ける姿は、さながら天使か妖精か。
「おい待て、どこに行くつもりだ」
「確かめてみようかと思って。おれが桜に攫われるかどうか」
「は……? 何を言って……ッ、……!」
振り返った瞬間の儚げな微笑みに目を奪われたその時、突風に煽られ反射的に瞼を細めた。ふわりと舞い上がった花びらの中へと掻き消された迅の姿は、風が止んだ頃には影も形もなく。
──まさか、本当に攫われてしまったのか。いや、そんなはずは……。
今しがた迅が立っていた場所まで駆け寄り、あたりを見回せど視界に入るは明らかに別の人影ばかり。
「ッ、おい、迅……、いるならとっとと出てこい、悪い冗談はよせ……ッ」
「──びっくりした?」
「……っ、……!」
背後から耳元へ囁かれ、振り向けば相も変わらず笑みを湛えた迅の玉顔がそこにあって。油断した隙にまたも触れるだけのキスをされ、安堵とやり場のない怒りが綯い交ぜとなり一気に脱力してしまう。
「っくそ、……そういうのは冗談でもやめてくれ、おまえがやったらシャレにならん……」
「あっはは、ごめんごめん。で、どうだった? 桜に攫われたおれは。薄幸の美青年に見えたりした?」
「うるさい、調子に乗るな……本気で焦ったんだぞこっちは……」
情けないことにその場でへなへなと腰を抜かしてしまった俺の前にしゃがみこみ、反省の色もなしにヘラヘラと笑うだけの迅へデコピンをお見舞いする。
「へへ、珍しくテンパってる風間さんかわいかったなあ」
「ッ……、もう一発食らいたいか」
「ゔ、……ごめんなさい。お昼奢るから許してください……」
「食い物で釣れば許されると思って……随分とナメられたものだな」
迅の手に引かれ立ち上がり、元来た道を戻っていく。そういえばここへ来る途中、桜の見えるオープンテラスがあるカフェの前を通ったとふと思い出す。
──仕方ない。不本意ではあるが、今回も釣られてやるとするか。
「……飯だけじゃ足りん。デザートもつけろ。でなければ許さん」
「っ、……はいはい、仰せのままに」
眉尻を下げつつも、迅は骨張った長い指を再度しっかと絡ませた。生身のそれはひどく温かく、穏やかな脈動を皮膚越しに伝えてくれる。
「……風間さん、」
来年もまた来ようね。二人で。頭上から降り注ぐ声に目線を合わせれば、ほたほたと蜂蜜のように甘く蕩けた視線に捉えられ。いたたまれなくなり、思わず目を逸らしてしまった。
「……、……そうだな。また来よう」
再び顔が熱くなるのを肌で感じながら、緩やかな歩調で歩を進める。たまにはこうやってのんびりと過ごす休日も悪くない。迅もそう思っているのか、俺を急かすこともなく歩幅を合わせてくれる。
「はぁ、……幸せだなぁ」
「……そうか」
おまえが幸せだと思えているのならそれでいい。ぽつり零したなら、「じゃあ、あんたは今、幸せ?」と尋ねられた。
「……あぁ。幸せだ」
「そっか。おれも、あんたがおれといて幸せだって思ってくれればそれでいいや」
だからこうやって、ちっちゃな幸せをちょっとずつ積み重ねていこう。一緒に。なんて言ってはにかむその様が愛おしくてたまらなくて、意図せずして緩んでしまう頬。つい忘れがちになってしまうが、何だかんだ言ってもこいつもまだ十代であるのだと改めて思い知らされる。
いつ何があるか分からない世界に身を置いているが、少なくとも来年の今頃までは。互いに生きていられたら、一つでも多く幸せな思い出を残してあげられたら。またこうやって、二人で桜を見に行こう──そんな気持ちを込めぎゅっと握り締めれば、それ以上の力で握り返されて。
「……好きだよ、風間さん」
「……、俺も、……好きだ」
やっぱこういうの、改まって言うと恥ずかしいな。そう呟き頬を掻く迅の左手を引き、くだんのカフェへと足を踏み入れたのだった。