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    つきたり

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    25↑│迅風の自給自足をしている

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    つきたり

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    少し前に生産してしぶくんにあげようと思ってたけどなんとなくこっちに投げる
    かざまさんをバイクで夜の海に拉致るじんくんの話

    「──ねぇ。知ってた? 月の裏側にあるクレーターのこと」
    「……?」
    「知らないなら教えてあげる。そこにはね、たくさんの死体があるんだってさ。月では人がたくさん死ぬんだけど、それは決まって満月の夜なんだ。しかもみんな同じ死に方らしいよ。それがどんなものかっていうとね……」
     月明かりに照らされた夜の海をぼんやり眺めている風間に向け、隣に立った迅は聞いてもいないのにつらつらと言葉を紡ぎ続けた。
    「首を切られたり内臓を貫かれたり……あとはまぁ、食べられたりするんだって。月じゃ人をよく食べるから、そうやって処理しないとなって話だけど。でもそういう時に限っていつも新月が来るんだ。満ち欠けを繰り返す地球と違って月は常に満ちていて、月にとっての栄養補給だから、いくら死んでもその死体はすぐに再生して次の餌を待つだけ。永遠に終わらないんだってさ。だから裏側に行くことはできないし、ましてやそこに行ったところで何も見つからない。あるとしたらきっと、昔の人間の死体くらいだよ」
     さっきからこいつは何の話をしているのだろうか。月に生物は生息していないはずだが──風間は訝しげに迅の横顔を見上げるも、彼の戯言を止める気になれず適当に聞き流し相槌を打った。
     そもそもこんな真夜中に、人気のない浜辺にいる理由を訊いた方が先決かもしれない。何故わざわざ海になど連れて来たのか、どうして自分はこいつの後について来てしまったのか。
     理由は明白だったが、風間はそれを口にすることはなくただ波打つ海面を視界に入れた。
     ここは数年前、二人がまだ高校生だった頃に迅が選んだデートスポットの一つだ。当時は海へ行くことに意味を見出すことができず「面倒臭い」「寒い」等文句を言いながらも渋々ついていった記憶がある。まさかその時のことを今でも覚えていたとは驚きだが、おそらく彼はこの場所を選んだ本当の目的を隠したままでいるだろう。風間もそれに気づいていたが、あえて言及することはなかった。
    「……なあ迅」
    「んー?」
    「おまえはこの世界が好きか」
    「どうしたの急に。好きに決まってるじゃん。おれにとってはここが全てだし、それに……あんたがいる」
    「……そうか」
    「うん」
     この世界に生を受けた瞬間から、迅悠一には未来を視る力が備わっていた。そして同時に、自分が決して普通の人生を歩めないことを悟った。未来を知ることはすなわち、死期を悟ることにほかならない。常に命の取捨選択を迫られる彼に安寧の場所は存在せず、その人生は常に絶望で溢れ返っていたのだ。
     そんな彼が見つけた唯一の希望が、恋人である風間蒼也の存在だ。
    「ねぇ、キスしたい。しても、いいよね?」
    「……ああ」
     風間より頭一つ分高い位置にある迅の顔が、徐々に影を落とす。夜空に浮かぶ月は今まさに中天を越え、満ち始めていた。今夜はちょうど半月で、青白く浮かぶ月光は二人の身体を淡く照らし出す程度にしか及ばない。
     薄暗い中でも迅の碧眼は煌々と輝きを放ち、月光を浴びて透き通るような色合いを醸し出していた。それは、とても神秘的で美しい光景に思える。
     迅の目には一体何が映っているのか、何が見えているのか。その目には、どんな未来が広がっているのだろうか──そんなことを考えた回数は、とうの昔に数えきれないほどになっている。
     もしその答えを知ることができたなら、この不安と焦燥も少しは和らぐかもしれないのに。サイドエフェクトという能力を持たない自分と彼では、やはり分かり合えない部分も多い。
     サイドエフェクトを持つ人間は、その能力のために様々な困難に直面しやすい。それ故周囲の人間から敬遠され、疎まれ、時には畏怖の対象として見られ──その孤独感たるや並大抵のものではないはずだ。
    「…………っ、ふ、……」
     ただでさえ不安定な関係だ。いつかどちらかが、あるいは両方が突然姿を消すこともあるのだろう。明日の命も分からないような日々を過ごしていれば、いつ別れが訪れてもおかしくはない。だからこそ迅は己の持つ全てを使って、自分の存在証明をしようと躍起になる。
     それが愛する者のためならばなおさらのこと。迅はその身に余るほどの力を駆使し、必死に自分をアピールしようとするのだ。たとえそれが、歪な形をしていたとしても。
    「──ごめんね」
     口づけの合間に囁かれた謝罪の言葉を聞き流し、瞼を閉じる。月の裏側にあるクレーターのように、自分たちの間にも何か大きな欠落があるように思えてならなかった。
     迅がこの世界に生を受け、およそ二十年。四六時中命の取捨選択を迫られ、自らが切り捨てた者たちの屍の山の上に立ち、仮初めの平和と安寧を玄界に提供するべく奔走する日々を続けてきた彼の精神状態は極めて不安定だ。それでも彼は笑顔で偽り続けるしかない。偽物の身体に作り笑顔を張りつけ、誰かを救うことでしか存在意義を見出せない哀れな男を演じ続けている。
     そのためこうして精神的な限界が近づくと、時間帯も風間の事情もお構いなしに彼を自身の所有するバイクのタンデムシートに乗せ、海まで連れ去ることがしばしばあった。

     迅はいつも風間には何も言わず、ただ黙って夜の海に連れて行く。メタルブルーの大きな車体に乗って颯爽と現れ、風間の瞳と同じ鮮やかな赤のヘルメットを彼へ無言で差し出す。
     そうして二人で夜の街を走り抜け、深夜の海へ向かうのだ。迅は道中も終始無言で、風間はただ背中や腰へ回した腕から伝わる温度と鼓動で彼が生身の身体であるのだと感じ、身を委ねるだけ。それだけで風間の心には不思議と安堵が生まれ、いつしか海に着く頃には普段通りの自分でいることができるようになるのだった。
     そして今宵もまた同じだ。迅は何の説明もなく風間をバイクの後ろに乗せ、この海までやってきた。バイクを降り波打ち際まで黙々と歩を進め、立ち止まったところでようやく口を開く。
     風間にとって意味不明な戯言を並べ立てるのは、今に始まったことではない。この男は毎度毎度、支離滅裂で荒唐無稽な話を延々と語り聞かせるきらいがあった。それも決まって真夜中、二人きりの時にのみ行われる儀式のようなものである。
    「……月が太陽の光がないと輝けないの、おれみたいだよね。誰かがおれの〝未来視〟を必要としてくれて初めて、おれという人間の存在価値が生まれる。おれ自身には何の価値もないんだ」
    「……」
    「月の表側には海があって、裏側にはほとんどない。つまり太陽がなければおれは生きられないし、だからこうして海で溺れてるわけ」
    「……おまえの話は抽象的すぎて要領を得ん。もっと簡潔に話せ」
    「うーん、そうだなぁ。要はさ、あんたがいないと生きていけないってこと」
    「……」
     怪訝な目をした風間がふっと離れていった顔を仰ぎ見ても、迅が冗談を言っている様子は見受けられない。月は誰に知られることもなく、たった一人で地球の周りを巡り続ける。たとえどれだけの人に愛されていようとも、その事実だけは変わらないのだ。それは、目の前にいる男そのものではないか。
    「──おれにとってのあんたは、太陽であり海なんだ。どんなに暗い夜でも明るく照らしてくれて、広く深い心で包み込んでくれる。夜の海は月の光できらきら光ってるけど、それは月じゃなくて太陽の光のおかげ。だからあんたは、自分で自分を輝かせられる。あんたと未来視がなけりゃ光れないおれと違って、ね」
     迅悠一は嘘つきだ。いつだって己の未来を語ることをせず、その胸の内に抱えたものは頑なに隠し続ける。それ故他人から見れば彼という人物像は曖昧模糊としており、得体の知れぬ不気味な存在に見えるのだろう。
     だが同時に彼は聡く賢い男でもあった。自分の立ち位置を正確に把握している上でそのように振る舞っているため、周りは彼の言葉に踊らされるばかりなのだ。
    「月の海には行けないから、月が浮かんでる地球の海に溺れたくてあんたをここまで連れてくるんだよ。あわよくば心中したいと思ってるけど、……いつもいつも何をどうやっても、あんたに助けられる未来しか視えなくて、結局波打ち際で遊んで帰るだけになっちゃう。……どうやらおれはまだ、死んじゃダメらしい」
    「……迅、」
    「はは、……神様って残酷だよね。おれなんかとは比べ物にならないや。生きたいと思ってる人を殺して、死にたいと思ってる人を生かし続ける。それが神様ってやつなんだろうね」
     乾いた笑い声を上げたあと、再び顔を寄せてきた男の表情に宿るのは底なし沼のような仄暗さだ。そこには希望も絶望もなく、あるのは無気力な諦めだけ。生きるために足掻いているというよりは、生かされ続けているといった方が正しいのかもしれない。
     迅の瞳に己の姿が映っていないことに気づきながらも、風間はただ静かに瞼を下ろし彼の口づけを受け入れる。彼の自暴自棄にも似た告白を聞きつつも、頭を巡らせる。この先何度海を訪れようが、迅は風間を置いて勝手に一人で海へ飛び込むような真似はしないのだろう──と。
    「……おまえは死にたいのか」
    「まぁね。でもまだ神様が死なせてくれないから、生きるしかないんだ。だからせめて、……生きるなら、……あんたと、生きたい……」
     弱々しく震える指先が、風間の手のひらへと重ねられる。握り返してやれば、冷えきった身体が小さく跳ねた。
     生温かな波打ち際まで歩み寄り、二人で靴を脱ぎ揃えて並べる。足首まで浸かる水に浸かり、柔らかな茶髪を靡かせ海を見つめている迅の隣に立つ。ただじっと夜風に吹かれ、黙って海を眺める時間がゆっくりと流れていく。
     静寂に包まれた海で二人きり、互いの指を絡ませ佇むだけ。生身であるはずなのに死人のごとく冷たい指先へ体温を分け与え、呼吸を合わせ、鼓動を重ね合わせる。そうやって少しずつ二人の時間を分かち合っていくことで、迅に少しでも生きる気力を与えられるのではないかと密かに期待していた。
     たとえ何度海へ来て同じことを繰り返したとて、何一つ変わらないであろうことは理解しつつも──それでも願わずにはいられなかった。自分よりも幾分か大きな手のひらと長い指を、きつく握る手に力を込める。
    「……いつか本当に心中できるといいなぁ。……なんて、」
    「そうだな」
    「……っ、……ほんっと、……あんたには敵わないよ……」
     今宵もまた月明かりに照らされた水面で戯れるように、戯言を口にする男の傍らに立ち続ける。戯言を吐いてばかりの男は困ったふうに眉尻を下げ、微かに笑みを浮かべていた。迅がどのような心境なのか、風間には分からない。月の光を受け輝く海を背景にした男の横顔は、穏やかに凪いで見える。
     もし迅の言葉通りに心中することが叶うのならば、己はきっと躊躇いなくその手を取れるのだろうと頭の片隅で考える傍ら、眼前に広がる果てのない海を見遣る。
     夜空に浮かぶ月だけが知る真実は、二人の間に横たわる溝のように深く暗い。迅の言う「月の裏側にある死体」はきっと、彼が自身の選択によって切り捨てざるを得なかった者たちのことを指しているのだろう。
     無数の命の上に立つことを自覚しながらも人間としての感情を優先し、選べなかった未来と未来視という能力を憎んで生きているのだ。迅が背負うべき業は、あまりにも深い。〝皆にとっての最善〟を選んだとて犠牲になる者は必ず出るし、迅がそれを誰より一番知っているのだろう。
     だからこそ彼はいつだって一人で抱え込もうとして、周りにいる者は何もかも見透かしたうえで彼の意思を尊重するしかない。それは時に優しさではなく残酷さに姿を変えて迅自身に降りかかり、彼を追い詰め傷つけている。
     迅悠一という男は常に独りだ。孤独という名の海に溺れながら、息継ぎすら許されずに彷徨い続けている。そんな彼に手を差し伸べる者はいても、共に溺れてくれる人間は一人もいない。迅が自らその手を離してしまうから、誰も助けられないのだ。
     だが風間は違う。どれだけ迅に振り回されようと、突き放されようと、諦めずに彼を追いかけ続けた。何度も迅を連れ出そうと試みて、そしてようやく──迅はこうして、隣に立ってくれるようになった。
    「迅、」
     名を呼んでやれば、淡い笑みを浮かべた迅が背を丸め顔を近づける。指先を絡めた片手は離さぬまま、空いた方の手を迅の頬へ添えた。温度を感じないかさついた肌を撫ぜ、鼻先が触れ合う距離にまで近づき、静かに目を伏せ唇を重ねる。
     潮風に晒された薄い皮膚は冷たく冷えきっているが、触れる箇所からは確かな熱が伝わってくる。この身体は間違いなく生きてここに在り、今この瞬間にも脈を打っているのだと強く実感させられる。迅は確かに、風間の目の前で呼吸をして、鼓動を打ち続けている。
    「……死ぬなとも生きろとも言うつもりはない。だが俺は、……」
     僅かに離れかけた距離を縮め、再び口づける。柔らかな粘膜を食めば仄かな塩味が舌先に広がり、それが海水によるものなのか迅から滲んだものなのか、今の風間には判断できない。迅が風間に抱く気持ちは同情でも友情でもない。もっと複雑で形容することなど到底不可能なほどに混じり合い、絡み合って生まれ落ちた何かなのだと──そう思うことにしている。
    「……おまえと共に生きることを諦める気もない」
    「……っ……」
     迅は言葉を失い、目を見開き呆然と立ち尽くしていた。今にも泣き出しそうな表情をしているが、涙を流すことはないだろう。ただ棒立ちとなり潤んだ瞳を泳がせるだけのこの男はもう、何年も涙を流していない。泣き方さえも忘れてしまった……否、忘れざるを得なかった咎人であるのだ──と、いつかの日に自身をそう評した迅の言葉を思い出す。
     風間の肩口に額を押しつけた迅は、震える指先で風間の服を掴む。波の音に掻き消されるほどの小さな声で発せられた声音は、頼りなく揺れていた。
    「……ごめん、」
     掠れた囁き声のあと、じわりと染みる温もり。衣服越しに感じ取れる濡れた感触は、決して海水によるものではないだろう。微かに嗚咽を漏らす男の後頭部に手のひらを這わせ、優しく抱き寄せる。海よりも広く深く底知れぬ迅の心根に触れる術はなくとも、寄り添うことくらいならできるはずだ──と。今はただ、それだけを願うことしかできなかった。
     月明かりが照らす水面で戯れる二つの影を見守るかのように、水平線上に佇む丸い月。その傍らに浮かぶ雲がゆるりと流れていく。風間の腕の中で泣く迅の髪を、月光が淡く照らしていた。
     泣き方を思い出せたのなら、泣けるだけの心がまだ残っているのならば、きっといつか──。
     いつか、迅は本当の意味で救われる日が来るかもしれない。そんな希望的観測を抱きつつ、男を抱く腕に力を込める。
     月の裏側にある死体は、海の底で眠っている。誰にも知られずひっそりと、冷たい海の中を揺蕩いながら。その屍は朽ちることなく、永遠の時を孤独の海で過ごし続けるのだろう。
     迅悠一という男が生きている限り、彼が切り捨てた者たちの亡骸もそこにある。迅の罪と業は消え去ることがない。たとえ月の裏から死体が消えたとしても、そこにあるものは何も変わらない。迅が生きている限り、迅の中に眠る死者たちの存在も消えることはない。迅の未来と彼の中の死者たちは常に背中合わせで存在し続け、彼の心を蝕み続けている。
     それでも迅は歩みを止めないだろう。自ら望んで選んだ道を進み、無数の命の上に立ちながら前を見据えて生き続けることを選ぶだろう。それこそが彼の贖いであり、償いでもある。
     迅悠一という男の歩んできた道程は、血塗られている。幾重にも重ねられた屍を踏み越えて、彼はここまで来たのだ。彼の進むべき道は常に暗く、孤独という名の海に沈んでいる。その海に溺れながら、迅は今日も歩き続けている。
     だがその先にきっと、光はあるはずなのだ。迅が救いたいと願う人々の笑顔があるように、迅自身もまた救われるべき人間であるのだ。
     風間は迅を信じ、迅も風間を信じる。互いの心に巣食う傷痕を見せ合ったところで何が変わるわけでもない。二人の間に横たわる溝の深さを痛感するだけだ。だからこそ、共に在りたいと思う。共に傷つき、共に傷を舐め合い、共に手を取り合って生きていきたいと、そう思うのだ。
    「……ありがとう」
     不意に耳元へ届いた呟きは、波の音に攫われて消えてしまいそうなほどか細く弱々しいものだったが、確かに風間の鼓膜を震わせた。この声を忘れることは一生ないのだろう──と、柄にもなく詩的なことを思い浮かべてしまう。
     迅の髪に顔を埋め、静かに目を伏せる。潮風が吹き抜ける中、ただ静かに潮の匂いがする迅の体温を感じていた。
     海鳴りは遠く、夜の静寂に包まれた海辺に響く音はない。寄せては返す波の音だけが延々とリピートしている。絶え間なく押し寄せる海水に足元を濡らされながらも、二人はその場から動くことができなかった。今だけはこのまま、何も考えず迅と二人で過ごしていたかった。
     月面に立つ二人の影がゆらりと揺らぎ、そして溶けるように闇に紛れていく。風間が見た月の裏側には、誰もいない。そこには、ただ暗闇が広がるだけだった。月の裏側の死体は、今もまだ海の底で眠り続けている。月が満ち欠けを繰り返すたび、少しずつその姿を変えていく。裏側に広がる暗黒が晴れることは、おそらくもう二度とないだろう。
     今彼が流している涙は、月が見せる幻なのか。それとも、迅が取り戻した感情の一部なのか。風間に知る由はないが、どちらにせよこの涙は本物だ。偽りではない、確かな温かさを持った本物の涙に違いない。
    「……っ……、」
     声にならない嗚咽を漏らし、風間の肩に額を押しつける迅の身体を強く抱き締める。服に染みる温かな雫を感じ取り、そっと息をつく。
     迅悠一という男は、間違いなく生きている。ここにいる。こうして触れ合える距離にいる。それだけでいい。それ以上は何も望むまい。
     迅は海の底に沈む死体とは違う。海のように広く深い心を持ち、海よりも広く深く人を愛せる男なのだ。海の底に沈んだ死体などではなく、月の裏側にある暗い海の水面に浮かんだ泡沫の月明かりにすぎない。
     月が見せた幻の月面に佇む二つの人影は、海面に浮かぶ小さな月へと変わり、夜空の海に吸い込まれていく。月明かりが照らす水面で戯れる二つの影は、月の光を浴び輝きを増せば増すほど、深海で煌めく小さな光になるだろう。
     月の裏側にあるのは、冷たい骸。決して埋まることのない孤独の海。その果てなき海の底で眠る死者たちが、彼を呼んでいる。彼の中に潜む屍たちの叫び声は、彼が生み出す死者たちの声と混ざり合いながら反響し続け──
    『悠一』
     ──いつかきっと、月の裏側にある死体が彼を呼ぶだろう。
    「……大丈夫だよ、母さん」
     微かに震えた声で呟かれた言葉は波間に掻き消され、誰の耳に届くこともなく消えていった。
     月の光が照らした海面に、ぽつりと生まれた水滴の輪。それは、迅が零した心の欠片だったのか。あるいは、彼の心の中にある死者の声だったのかもしれない。
     死者が流す血の雨は止み、静かな夜には凪いだ海だけが残った。夜明けはまだ遠い。それでも海はどこまでも穏やかで、優しい漣を立てていた。
    「……、かざま、さん……、……月が、……綺麗、ですね……」
     やおら身を離し顔を上げた迅の面持ちは、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべているように見えた。だがその双眼からはとめどなく涙が溢れ、月光を反射しきらきらと輝いている。風間はその表情に胸の奥が軋むような痛みを覚えたが、それを悟られぬよう努めて冷静さを装った。
    「……あぁ、そうだな。本当に、綺麗だ」
     月夜に煌めく海原を閉じ込めた碧い瞳を見つめ返し、小さく微笑んでみせる。その瞬間頬を伝う涙がいっそう勢いを増し、堰を切ったように次々と流れ落ちていく。
    「ふ……ぅ、ッ……、」
     迅は声を堪えようと唇を噛み締めたが無駄に終わり、ついにはくずおれてしまった。海水を含み重くなっていくジーンズも気にせず、風間の腕の中で泣き続ける。
     月は沈み、太陽は昇る。どんなに悲しく辛い出来事があったとしても、世界は必ず前に進む。時間は止まらない。どれだけ残酷でも、それが世界の摂理なのだ。ゆえにこそ、人は生きていかなければならない。生きて、前に進まなくてはならないのだ。たとえそこに、救いがなかったとしても。
    「っ……、……っ、」
     声を押し殺し泣く迅を抱き締め、海鳴りに耳を傾ける。波音に混じって聞こえる迅の嗚咽は、今まで聞いたどの音よりも切なく哀しい響きを帯びていた。
     月の裏側にある暗闇が晴れることはない。それでも、月が放つ光の美しさを知ることはできる。月が見せる幻影を、美しいと感じることもできる。月が照らす海の底に沈められた月面の死体が見せる、偽りの幻に心を震わせることも。
     月が照らす海の底で輝く泡沫の月明かりは、いつだって目の前にいるこの男なのだ。この男が見せてくれる景色は、こんなにも美しく温かいものばかりだ。月の裏側にある死体とは比べ物にならないくらいに、温かく優しい色に満ち溢れている。
     だから、この男の見る世界を少しでも多く知りたいと思った。

     月の光を浴び輝きを増す海は、どこまでも広く深い。その底に沈む月の裏側には、誰もいない。そこにはただ暗い闇が広がるだけだ。月が見せる幻ではない、本物の海があるだけ。だからこそ、自分はこうして彼の見ている世界に魅入られたのだろう。
     風間は、月が見せる幻の月に手を伸ばす。海面に浮かぶ泡沫の月を掴むことはもちろんできないが、この手を伸ばせばいつでもそこに触れることができる。それを知っているからこそ、迅も同じように月に触れようとする。そうして二人は、月の裏側にある暗闇に手を伸ばし続けた。
     水面を彷徨う二つの手が触れ、絡み合う指先。冷たい水温の中でも、互いの温もりを感じ取ることができる。月の裏側にある海の底で、二人の体温が混ざり合っていく。海の中にいるはずなのに、不思議と寒さを感じることはなかった。月の光が照らす海の浅瀬は暖かな陽だまりのように心地よくて、ずっとここにいたいと思えるほどだった。
     このまま時間が止まればいいのに、と思うほど穏やかな夜。迅にとって、海は特別な存在だ。彼は海を見つめることで、己の心が求めるままに死者たちへと語りかけている。海はそんな彼の心の内を映し出し、死者たちの声に共鳴しているのだろう。
     海は、死者が眠る場所だ。死者たちの魂が還りつく果てのない旅路の途中、最後に辿り着く安息の地。生命が誕生し、育まれ、死に絶え、また新たな命が生まれる。
     それは、何億年という時の流れを経て繰り返されてきた自然の営み。星が巡るように、世界は常に生まれ変わり続けている。悠久の時の中を揺蕩いながら、何度も生まれ変わる。それが、人の生と死の本性。
     迅が海に惹きつけられるのは、きっと必然だったのだ。死者たちが集う場所であり、死者たちは常に海と共にある。海は死者の声を聞き届け、彼らの魂を受け止める器となる。そして、死した者への弔いとなる。
     海は、優しい母のような存在なのだ。迅はそこへ亡き母の面影を重ね、己が死へと追いやった無数の命に対し懺悔と贖罪を繰り返している。迅は、母の愛した海を愛しているのだ。
    「……ごめんなさい」
     罪を洗い流し、浄化してくれる。海こそが、迅の生きる理由そのものなのかもしれない。誰に向けるでもない謝罪の言葉を受け止め、水平線の向こうへと運んでいく。その繰り返しだ。迅はそれを、延々と繰り返す。
    「……ごめん、……っ、……なさい……」
     月が照らす碧い瞳が流し続ける涙は、海が飲み干していく。彼が抱える痛みも悲しみも、すべて海が受け入れていく。海は迅を責めない。彼を恕すために、その身に抱くすべての感情を引き受けていく。迅の痛みも、哀しみも、苦しみも。すべて、海が背負ってくれる。
     ──自分は海のような存在になれるのだろうか。彼にとっての海になることができたなら、どんなにいいだろう。彼のすべてを恕せるような、深い愛情で包み込めるような、大きな存在に。海のように、なりたかった。
    「……っ、……っ、」
    「……もう、謝らなくていい」
    「っ……ぅ……っ、」
    「……大丈夫だ」
     月明かりに照らされた海原の上で泣き続ける彼を強く抱き締めながら、波音が奏でるレクイエムに耳を傾ける。死者の安息を神に願う歌が響く夜の海辺に二人佇み、いつまでも海鳴りの旋律を聴き続けた。

     ──風間蒼也は、海に似ている。
     迅は初めて彼と出会った時から、そう思っていた。海はいつも優しく穏やかで、そこに在るものを静かに見守ってくれる。時に牙を剥きありとあらゆるものを一瞬にして流し去ってしまう恐ろしい一面を持ちながらも、そこには確かな慈愛の心が存在している。
     海は、迅にとっての救いだ。迅は、海のように優しかった母が好きだった。彼女の笑顔が好きで、彼女が紡ぐ言葉のひとつひとつを大切にしていた。彼女の存在は、今もなお迅の中で生き続けている。
     彼女を死に追いやった自分の弱さが許せなかった。自分がもっと強ければ、母は死ぬことはなかったのに──迅の後悔は、海の底に沈んで消えることはなかった。どれだけ月日が流れても忘れることなどできず、心の奥底に澱となっていつまでも溜まっていくだけ。
     月の裏側にある暗闇に包まれた迅の心は、ずっと泣いていた。誰かが救ってくれることを願いながら、海の深いところまで沈み続けていた。
     そんな折に出会ったのが風間だ。彼は、迅が求めた答えを持っていた。風間が教えてくれたのは、強さの意味。その手に掴めるものは限られているからこそ、大切なものを守るために戦うのだという強い意志。
     かつて彼の兄を救えなかった迅の弱さを恕し、それでも強くなれと叱咤してくれた。敬愛していた師や大勢の仲間を喪い絶望の淵に立たされていた迅に、手を差し伸べ引き上げようとしてくれた。
     この人は、海だ。迅の凍えた心を溶かし、海の底に沈む月の裏側にまで光を与えてくれた人。風間は、迅にとってかけがえのない存在となった。海のように広い懐を持ち、彼のことを深く理解し寄り添おうとしてくれる。
     彼の優しさに甘えてばかりじゃいけないと思うのに、どうしようもなく惹かれてしまう。どこまでも広がる海の中にいるような心地よさを感じ、つい彼に溺れてしまいそうになる。
     迅は、海に恋をしている。海を愛し、焦がれている。だからこそ、彼は海を求めるのだ。海に触れている間だけは、全てのしがらみから解き放たれ自由になれる気がする。海は、迅の求める安息の地。そこが迅の居場所となり、帰る場所になった。
     母のように優しく、師のように厳しくも温かく、海のように全てを受け止め包み込んでくれる。自分よりも小さな身体で、深く広く大きな愛を与えてくれる。そんな風間のことを好きになるのに時間はかからなかった。彼が愛おしくて、守りたくて、そばにいたいと思った。
    「……っ、……」
    「…………」
     夜空に浮かぶ月が見守る中、二人は砂浜に腰掛け海を眺めている。寄せては引いていく穏やかな潮騒が鼓膜を震わせ、二人の心に染み渡るように響いている。昼間に見た青く透き通った姿とは異なり夜の紺碧に染まった海は、どこか妖しく魅惑的だ。
     風は凪ぎ、海面を照らす月明かりが揺らめいている。星々の煌めきを閉じ込めたかのような波間のきらめきが、美しい。月明かりと波音だけが支配する世界は静謐な空気に満たされていて、世界には二人だけしか存在しないのではないかと錯覚してしまうほどだ。
     こんなにも美しく神秘的な光景が広がっているというのに、迅の胸中には複雑な感情が渦巻いていた。それは、罪悪感のようなものに近いかもしれない。隣にいる彼が、あまりにも綺麗すぎて直視できない。迅が今感じているのは、後ろめたさだ。自分は、彼の好意を利用しているにすぎない。彼の想いに付け込み、こうして二人で逢瀬を重ね続けている。
     風間は優しい。誰に対しても公平で、誠実で、誰からも慕われる。迅に対してだって、決して冷淡な態度を取ることはない。常に真摯に向き合い、真剣に考えてくれている。そんな彼に対し、迅は狡いやり方でしか応えることができない。それが心苦しかった。
     海を見つめる横顔があまりに美しかったから、触れたいと思ってしまった。だから、海で二人きりになりたいと誘ってしまった。
     でも、それだけじゃない。迅は自分のためだけに風間を利用し、自分の心の平穏を保つために彼を求めている。海を見て泣きながら懺悔することだけが目的なら、別に二人きりである必要はない。一人で行けばいいだけの話だ。それなのにわざわざ風間を呼び出したのは、彼に触れたかったからだ。風間が欲しかった。
     一人で行けばきっと、死者の声に導かれ海へ身を投げてしまう。そんな自分の自殺衝動を引き止めてくれる誰かを求め、無意識下で彼を選んだ。幸か不幸か、彼は目論見通り黙って海まで連れ去られてくれた。
     彼の同情心を利用する形で、一方的に自分の都合に付き合わせている。本当に、浅ましい人間だと思う。自分で自分が嫌になってくる。
     どうして、こうも自分の心はちぐはぐなんだろう。母への愛情や師への贖罪の念、そして海に対する憧憬。それら全てが複雑に絡み合って混沌と化し、心の奥底で混ざり合っている。迅の感情はいつも何かしらの矛盾を抱えていて、正しい方向に向かうことができない。
     自家撞着、自己矛盾、パラドックス──この気持ちを形容する言葉はいくらでもある。迅の抱く思いは全て間違っていて正しくないが、それを理解しているのにどうしても捨て去ることができなかった。海を想うほど、彼を想うほど、相反する二つの激情が胸襟でせめぎ合う。
     風間は、迅にとっての海だ。母のように優しく包み込んでくれ、時に厳しく叱咤してくれる。彼の前では、素の自分のままでいられる。ありのままの自分を曝け出すことができる。
     迅の抱える弱さや脆さを全て受け入れた上で、彼は寄り添い続けてくれた。彼の優しさに甘えてばかりではいられないと思うのに、結局彼に救われてしまう。
     最愛の母も師も喪った自分にとっての救世主。海のように広く深い愛を与えてくれる人。そして、雁字搦めになった己を解き放つことができる、数少ない寄す処である海。己はそこでただ彼の愛を享受し、溺れることしかできなかった。

     海の底へと沈むようにゆっくりと落ちていき、海底の砂の上に寝転がっている。月明かりに照らされた紺碧の世界。深海を思わせる暗闇の中、星のように瞬く輝きが周囲を仄かに照らしている。迅は胎児のように身体を丸め、その幻想的な景色に見入っていた。
     ここは、海の底だ。光など届かない、深く暗い場所。地上とは全く異なる、静寂に満ちた空間。そこには自分一人しかいないはずなのに、どこからともなく声が聞こえてくる。
    『悠一』
     ──ああ、母さん。やっぱりここにいたんだね。ずっと探してたんだ。
     母の姿を目にした瞬間、迅の心の中に安堵が広がっていく。もう二度と会えないと思っていたから、嬉しくて仕方がない。母の姿を見ただけで、胸がいっぱいになる。抑えきれないほどの愛おしさが溢れ出し、涙が出そうになる。
     会いたかった。もう一度だけ、母に会いたいと願った。だけど、叶わない夢だと諦めていたのだ。それが今、目の前にいる。手を伸ばしたら触れられそうな距離にいる。そう思うといてもたってもいられなず、身を起こし駆け寄った。
    「……っ、……!」
     だが、次の瞬間には我に返る。そこは地上で、月を隠した東雲の空に彩られた海が静かに波打っているだけだ。母の幻影は消え失せ、後には波の音だけが残った。
     迅は、砂浜の上で呆然と立ち尽くす。自分は今、何をしようとしていたのか。無意識のうちに、海へ飛び込もうとしていた。あの波間の向こう側に、母がいるような気がした。
     違う。母は死んだ。もういないのだ。だから、こんなことを考えるべきではない──自分に言い聞かせようと頭を振る。
     それでもまだ未練がましく海を見つめていると、指先に触れる温かな感触があった。風間の手が、迅の手を包んでいる。風間は何も言わなかった。ただ黙って、じっとこちらを見つめるだけだった。何も聞かず、何にも干渉しない。迅が自ら語り出すのを待っている。そんな眼差しだった。
     どうして彼はいつも、三門から遠く離れた僻地の海まで黙って連れ去られてくれるのか──その理由を訊ねることもしなかった。風間の方も、理由を語ることはない。互いの間に流れる空気が、沈黙を許容してくれている。
     彼がそばにいてくれればそれでよかった。それ以上を求めるのは強欲というものでしかない。分かっていながらも、彼に触れたくなる。触れてほしいと思ってしまう。彼の体温を感じたくてたまらなくなる。
    「ねえ」
     そっと風間の顔に手を伸ばす。彼は拒まなかった。迅の手を拒むことなく受け入れてくれた。頬に触れても、されるがままになっている。親指で目元を撫でると、瞼が小さく震えた。
    「……呼んでたんだ、母さんが」
     死者たちは海の底から母の幻覚を見せ、迅を引きずり込もうとする。この海に身を沈めろと、何度も囁く。その誘惑に負けまいと抵抗してきたが、今日はだめだ。どうしようもないほどに海が恋しい。
     長い時間海を見つめ続けたことで、母を求めたいという気持ちが膨れ上がってしまった。このまま衝動的にこの海に飛び込んでしまいたい。そして、沈めばいい。母が眠る海の奥底まで。
    「……行きたい、……会いたい、……母さんに、……」
    「……そうか」
     風間はそれだけ言って、目を閉じた。何かに耐えるように眉根を寄せ、唇を引き結んでいる。迅はそんな彼の表情を見て、自分が風間を困らせていることを悟った。
     彼はきっと、迅のことを思って耐えている。ここで自分が彼の制止を振り切って海に入ろうものなら、彼を傷つけてしまうだろう。それでは本末転倒だ。彼を傷つけるためにここに来たわけではない。彼に自分のことを見捨てないでほしいからこそ、ここに来たのだ。
    「……ごめん、大丈夫だよ。行かないよ、ちゃんと我慢できる。……ここには、あんたがいる、から……」
     安心させるつもりでそう言ったのだが、風間の表情は依然として硬いままだった。
    「……俺は、……おまえにとっての海になれるのか、……」
     独り言のように呟かれた言葉の意味を測りかねて首を傾げると、「何でもない」と言いながら顔を背けられる。その横顔は、どこか寂しげに見えた。
     海が呼んでいる。深い闇の中へと誘う声がする。母の姿に化けた死者の手が、迅の首筋へと伸びる。
    『悠一』
     母の声が鼓膜を震わせる。だが迅は抗うように耳を押さえ、その場に膝をついた。海面から差す光から逃れようと背中を向ける。風間を置いて一人、海の中に沈みたくはなかった。
    『悠一』
    『おいで、悠一』
     海から響いてくる亡霊たちの声と、優しく己の名を呼ぶ母の幻。それを遮ろうとするかのごとく、耳介を塞ぐ温かな手に包まれる。額を重ね、朝焼けよりも鮮やかな赤い世界が目前に迫る。血の色に似た双つの瞳が、迅を捉えて離さない。
    「……おまえが母親や最上さんの元へ行きたいと言うなら、止めはしない。……だが、……俺は……、……俺にはまだ、おまえを向こうへ送り出せるだけの覚悟がない……」
     風間は迅の身体を引き寄せ、その肩口に顔を埋めた。
    「行くな、迅……頼むから、……もう、置いていかないでくれ……置いていかれるのは、……怖いんだ……」
     兄を喪ってからというもの、己の弱さをひた隠し強くあろうともがき続ける風間の姿は痛々しく映った。
     直接自分が手を下したわけではない。とはいえ、迅は風間の兄を殺したのだ。自分の思う最善を選び取った結果、彼の兄を含むかつての仲間たちのほとんどを見殺しにしてしまった。
     迅は風間に対し負い目がある。彼だけではない。他の誰に対してもそうだ。だからこそ、彼らに必要とされる存在でありたかった。彼らの望む自分でいたかった。それが自分を保つ唯一の方法だった。
     献身こそが、自己犠牲こそが自分が彼らとともにいることを許される術だと信じて疑わない……いや、そう思い込まなければ生きていけなかった。屍の山の上に立ち、〝皆にとっての最善〟を勝ち得るための人柱を選別し続けなければならない。そのために感情を殺し続け、心を凍てつかせる必要があった。私情を捨て、冷徹さを保ち続けることでしか、仲間の死を無駄にしない生き方はできない。
     故に、迅はこれまでずっと自分自身を偽り続けてきた。心の奥底に秘められた願望を押し込め、決して表には出さなかった。
     本当は、母に会いに行きたいのだ。あの海の底へ還りたいと願っている。もう二度と会えないと分かっているからこそ、なおさら。
    「……かあ、さん、……」
     目の前に広がる赤を見つめ、母の姿をそこに重ね合わせる。似ても似つかぬはずの二人だというのに、どうしてか重なる部分が多いように思えた。
     この海に身を沈めたら、母は喜んでくれるだろうか。そうすれば母も救われてくれるのではないか──そんな考えが頭を過ぎったが、すぐに打ち消した。母の魂はとうに安らかに眠っているだろうし、たとえ海に沈んだところで母の苦しみを取り除くことなどできはしまい。
     死者は甦らない。残された者は与えられた生を全うし、追福のために生き続けなくてはならない。死者に囚われたままでは、未来へ進むことができない。
    「……ごめんね、……おれは、……まだ、そっちに行くわけにいかないみたい……」
     風間に抱き締められながら、ぽつり呟く。海が呼んでいる。母やかつての仲間の姿を模した死者たちが手招きしている。それでもやはり、迅の心を占めるのは風間だった。母よりも風間の存在が心の中で大きくなってしまったことに、一抹の寂しさと心苦しさが去来する。
    「あんたが、いるから。……あんたがいる限り、……海の底は、遠いよ」
     風間の顔を上げさせ、その唇に触れる。触れるだけの口づけを落とし、彼の矮躯を強く抱き寄せた。
     海から響く亡霊の声を振り払い、ただひたすら風間の存在だけを欲し続ける。
     風間との繋がりを求めるほどに海の深淵への誘いが強くなり、胸中を満たすのは言いようのない孤独感だ。風間を想えば想うほど、彼が遠く感じてしまう。海の底で待つ者たちの元へと引き込まれてしまいそうにさえなる。
     母や最上が恋しい。彼らが自分を呼んでいる声がする。早くそちら側へ行きたいと思う反面、海の底へ沈むことを拒んでいる自分も確かに存在していた。
     母に抱かれながら永遠の眠りにつきたいという願いとは裏腹に、風間の腕の中に留まり続けていたいという想いもある。風間と共に生きることは、過去を受け入れることに等しい。そしてそれはまだ、今の迅にとっては難しいことだ。海に身を投げれば楽になれると分かっていても、風間と離れることだけはできなかった。
    「……かざま、さん、」
     舌足らずな声で名を呼び、彼を見上げる。彼の瞳の中に映る自分の顔は頼りなく歪んでいた。その顔がひどく滑稽で哀れでならない。迅は自ら彼に手を伸ばし、その頬に触れた。
     触れた箇所がほんのりと朱に染まる。血の通った肌の温もりを感じ、心の奥が疼いた。
    『……俺は、おまえにとっての海になれるのか、……』
     先刻風間が呟いた言葉の意味をようやく理解する。彼はおそらく、海になることを望んでいたのだろう。海になり、迅を癒やしてやりたいと思ったに違いない。
    「……だめだよ、……海になったって、……いつかまた溺れちゃうだけだ……」
     風間は優しい男だ。だがその優しさゆえに己を殺しすぎているようにも見える。もっと己を顧みて欲しい。彼自身も守られるべき対象であることを自覚して欲しい。
     彼の首筋に鼻梁を埋め、その体温を感じる。とくとくと鼓動を奏でる心臓の音が心地よく耳に響いた。生きている音だ。彼が生きて呼吸をしている証だ。
     そっと目を閉じ、息をつく。耳を澄ませてみれば、波の音の合間に聞こえてくるのは亡霊たちの嘆きだ。恨み言を口にしながら、死者たちは今もなお迅のことを呼んでいる。水平線の向こうから顔を覗かせた朝日が、海面を煌めかせていた。
     ──海は死の世界へと誘う魔性でもあるが、同時に生命の源であるとも言われている。
     ──海はあらゆる命を飲み込み、溶かし、循環させる。それはつまり、輪廻転生の理にも通じるものなのだ。
     かつて誰かに聞いた話を思い出す。海には母や師の面影があり、死者たちが集っている。母に会えるかもしれない。最上に会えるかもしれない。そう思うと胸が張り裂けそうなくらいに痛んだ。
     月の裏側には存在しないはずの、海の底。そこに積み重なった屍の上に立ち、自分はこれからも屍を踏み越え生きていく。仲間たちの死を無駄にしないために、自分が生きるために。
     風間と一緒にいるためには、この道を進むしかない。たとえ母が呼んでいようとも、かつての仲間や師が手招きしようとも、この道を選ぶことが最善の策だった。
    「ごめんね……」
     死者たちに向け、そう告げる。彼らに報いることはきっとできないだろうし、謝罪は意味を持たない。それでも言わずにはいられなかった。
     母や最上は自分を許さないだろうし、死者は生者の心にいつまでも残り続ける。彼らのことを忘れられない限り、死者とは決別することができない。
     忘れないでいることが弔いとなる者もいれば、忘れることが弔いとなる者もいる。迅が選んだのは後者だった。
     未来は変えられても、過去を変えることは不可能だ。彼らはもう二度と還らない。ならば自分も、死者に囚われたままではいけない。母や最上の幻影を振り払い、前に進まなければならない。
     夜明けの太陽が、二人の姿を照らし出す。陽の光は温かく、何もかもを明るく染め上げた。その柔らかな光にふと蘇る、母との記憶。
     母と過ごした時間は決して長いものではなかったし、彼女の心を理解することもできなかった。だが彼女が遺した願いは、願いを抱いた時の想いは理解できる。
    『幸せになってね』
     母は最期まで自分の身を案じてくれた。普通の人間とは違う特殊な能力を持ち、周囲と馴染めなかった迅を慈しみ愛してくれた。
     彼女なりの不器用で歪な愛情だったが、確かにそこには母の気持ちが込められていた。そしてその愛情は、今になっても迅の中に色濃く残っている。母が望んだような生き方はできないが、母がくれた感情だけはずっと胸の中で息衝いている。
     母の思い出が眠る海で、母への未練を抱えたまま死ぬわけにはいかない。風間が海となり自分を包み込んでくれるのであれば、自分もまた海となって彼を受け入れよう。海の底へ沈むのではなく、風間という海を内包する海になろう。母への想いと風間への想いを秘め、その両方を受け入れることで迅は生きることを選べる。
     海へ沈むことは選べない。死者たちの元へも行けない。風間という男を離さないと決めたのだ。彼が海になるのなら、自分も海になればいい。それが、己が出した答えだ。
    「……おれは大丈夫だよ」
     海風が迅の髪を揺らす。水平線の彼方で揺れる朝日に彩られた、美しい人魚の微笑み。彼の瞳には光が宿り、顔ばせからは憂いの色が消え失せていた。その顔は美しく、そして何よりも強い。迅悠一という名の、生きた一人の人間の顔だった。
     風間の手を取り、指を絡め合わせる。強く握り締めれば、同じだけの力が返ってきた。互いの熱を分け与え合うように、二人は寄り添ったまま朝焼けの海を見つめ続けた。
    「……俺は、おまえにとっての海になれるのか?」
     再度投げかけられたその問いに、迷うことなく首肯する。絡ませた手を引き寄せ、そっと彼の唇に口づけた。
     潮の香りが漂う朝の砂浜。誰もいないその場所で、二人の影だけが静かに重なり合っていた。




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