午前4時を想う「じゃあねD、おやすみなさい」
そう言ってハンナは隣のベッドに横になると、早々と眠りについた。
フランス南部の街。観光地としても知られるが、長い移動の疲れもあることから、明日のライブに備えて各々早めに身体を休めようという話になった。
緯度の高い欧州では、季節による日照時間の差が日本よりも大きい。夏が近づく今の季節は、夜の9時になるというのに外はまだ明るくて、奇妙な感覚を覚える。
欧州出身の他のメンバーは慣れたもので、アイマスクを着けたハンナはすでに寝息を立てている。彼女の逞しさは好ましいが、自分はまだ寝付けそうにない。
こちらの人たちが日本よりも遥かに長い夏のバカンスを取ることは知識として知っていた。だけど、実際に住んでみてようやくその訳が分かった気がする。
長い長い夏の日とは対照的に、欧州の冬は日が出ている時間が極端に短い。人々が短い夏を目一杯楽しむのは、そう遠くなくやって来る、暗く厳しい冬に耐える為だ。
現に今も、表にある酒場ではテラス席で大勢の人たちが歌い、騒ぎ、終わっていく一日を惜しむように楽しんでいる。
窓の外には本で見るようなヨーロッパの街並み。遠くに見える山の向こうに、今まさに太陽が沈もうとしている。
幻想的な風景に、思わず携帯を取り出して写真を撮る。その写真を、かつての大家に見せたくなって、送ってやる。
とは言え日本はまだ朝の4時ごろだから、玉田はまだ寝ているだろう。ベッドで眠るあいつの上に、朝の青白い光が降り注ぐところが頭に浮かんだ。夜勤のバイトの後、明け方まで練習した時はいつも見ていた光景だ。
あいつが起きて写真を見るのはもう少し後になるだろうな。そう思って携帯をポケットに仕舞おうとした瞬間、メッセージの着信を知らせる短い振動を感じた。もう返信が届いたらしい。
『すっげー綺麗だな!どこの国?』
『フランスだべ。つーか起きるの早いな』
『や、実はさっきまで同期のゼミ飲みに混ぜてもらってオールで飲んでた。飲み過ぎて気持ちわりい…』
青ざめた顔の絵文字が添えられていて、思わず苦笑いする。
部屋に籠って必死でドラムを叩いていた姿の印象が強いけど、今はちゃんと大学生らしいこともやってんだなぁ。
『流石に眠いから寝るわ。オヤスミ』
続けて届いたメッセージに心の中だけでおやすみ、と返してそっと携帯をテーブルに伏せた。
窓の外ではちょうど、太陽が山の端に姿を消すところだ。
あの光があいつの枕元に届くまで、もう少し。
(午前4時/東京)
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「もうすぐ5時か……」
客先での打ち合わせが長引いて、外へ出ると辺りはもう結構暗くなっていた。
話が弾んだのは良いことだが、これから帰社して今日の営業の報告書を仕上げねばならない。もうひと頑張り、そしたら週末だ。
10月にもなると夕方は肌寒くて、思わず急ぎ足になる。日が落ちるのもどんどん早くなっていて、どこからか漂う金木犀の香りに秋の深まりを感じた。
そういえば、昔住んでたアパートの近くにも植えてあったな。金木犀の花は、ノスタルジーを誘うものらしい。ふとかつての同居人のことを思い出した。
調べてみるとニューヨークは今、朝の4時。こっちは一日が終わるとこだけど、向こうはこれから今日が始まるんだな。なんか変な感じだ。
大は今、どうしてるんだろう?流石に寝てるかな。それとも一緒に住んでた頃みたいに明け方まで一晩中練習、なんて無茶をやってるんだろうか。
金色の楽器が朝日を反射して、ぴかぴか光るところを想像してみる。日本を発つ頃には使い込まれて幾分鈍い色になっていたあいつの相棒は、今はどんな色になっているだろうか。
あいつ自身も、きっと俺の知らない間にどんどん変わっていく。変わることを恐れない奴だから、向こうで色んなものを吸収してどんどんでかくなっていくんだろう。
だけどどんなに離れても、有名になったとしても、根っこの部分は出会ったときから変わらない、優しくて実直なあいつのままだ。
そう信じて疑わないのは、ビルの隙間から見えた夕日が、河原で吹くあいつを照らしていたのと同じ真っ赤な色をしてたから。
(午前4時/ニューヨーク)