人の体温は適温なので、熱い・冷たいと感じるのは自分の体調がすぐれない時です。今みたいに。そう言って、濡れタオルをびちゃ、と顔面に投げ付けられた。
じゃあ、お互いに熱いと感じているのはどういう時なんですか。遠い記憶に問い掛けても、答えは返ってこなかった。
「……茨、苦しくない?」
「大丈夫、です」
聞こえるのは、労るような低く優しい凪砂の声と、ばくばくとうるさい自分の鼓動、互いの呼吸に衣擦れの音。幼少期、訓練に明け暮れていた茨の身体は、並の同世代よりも身体能力や五感が優れていることは分かっていた。
(だからって、微かな動きから生まれる音まで拾う聴覚なんていらねー!!!!こんな所で発揮しなくてもいい!)
「……いばら、」
「んっ、ぁ、は……ぃ」
「……ずっと黙ってるけど、大丈夫?」
「これから、寝るのに……お喋りに精を出して、どうするん、です?」
声が近い。凪砂が口を開く度に、声を発する度に、右耳に吐息がかかる。
鼓膜をふるわせて、脳の芯まで揺さぶって、自分にだけ向けられる優しさと労りの言葉に優越感を感じ、それを“気持ちいい”へと変換する。
己の五感の良さを、過去一番恨んだかもしれない。
布一枚隔てた先の体温が火傷しそうに熱く、とくとくと心地良いリズムで刻む鼓動が、今確かに生きていると、生を感じさせてくれる。
今朝目覚めた時も、こうして腕の中に包まれていたのを思い出す。こんなにも近くに人が居るのはいつぶりだろう。
常に、ここから先は他人を立ち入らせない。そう、線引きをして仕事をしていた。ビジネスライクな付き合い、アイドル活動という期間限定の契約、それが賢い経営戦略だと思っていた。
「……夢を見るのが、怖い? 大丈夫、私がついてるから」
相変わらず、凪砂は優しい声で語りかけてくる。よく響く、甘いテノールによって、じわじわと思考が蕩けてゆく。
「……今日あった、幸せなこと。楽しかったこと。それを思い出しながら、ゆっくり眠ろう。おやすみ、茨」
――わたしの、いばら
意識がゆっくりと睡魔に呑まれ、眠りに落ちた。
***
ふわふわと妙な浮遊感の中、茨は目を覚ます。身の回りを取り巻く奇妙な感覚に、すぐ現実では無いことを知る。
辺りを見渡すと、微かに白く光る星のような輝きを見つけることが出来たので、そこに向かって1歩を踏み出す。近付いているのか、遠ざかっているのか、距離感は全くアテにならず、ただひたすらに進めば、声が聞こえてくる。「いばら」と自分の名前を呼んでいる。声は主は、男のような女のような、大人のような子供のような、知っているような知らないような……結論から言えば特定は出来ない。けれど、どこか聞き覚えのある声に思えた。
そこで夢の記憶は途切れ、茨は凪砂の腕の中で目覚めを迎えた。
体温を分け与えてもらったかのように身体はあたたかく、布団の中で微睡んでいたいと思い、再び瞼を下ろす。
「……二度寝するの?」
「…………起きてたなら、黙ってないで声掛けて下さい」
「寝起きで微睡んでいる茨が可愛くて、もう少し見ていたかったから」
うっかり流されそうになる雰囲気を断ち切らねば、と茨は体を起こす。
「はい! 起きました! と言っても、今日もやる事は無いんですけどぉっ!?」
「……なら、もう少しだけ」
強引に凪砂に腕を引かれ、身を起こしたばかりの茨の体はベッドに逆戻りしてしまう。
「……ちゃんと、眠れてる?」
「そう、ですね。夜を迎える恐怖とか、考えても答えの出ない事にあれこれ悩まされる事がなくなったので、ちゃんと眠れています」
「……よかった。心と体がちゃんと整ってきているみたい。でも、良くなったからと言って油断は禁物」
「えぇ、承知しています。自分たちは身体が資本です。半端な休養で半端な仕上がりにならないよう、最善を尽くします」
***
それから数日、繰り返し何度も同じ夢を見た。
星のような輝きを目指し、1歩また1歩と踏み出せば、少し距離が縮まった気がした。同時に「いばら」と自分の名前を呼ぶ声が鮮明になっていった。少し幼いが、茨が聞き間違える筈がない。
「閣下……!」
白く輝く星が、ゆっくりと輪郭を生み、白い少年の姿になる。ぱちりと視線があって、蕩けるような愛らしい笑顔で「いばら」と、名を呼んだところでパチンと泡が弾けたように目が覚める。
「……茨、おはよう」
「おはようございます、閣下」
今日も、凪砂の腕の中から目覚めの挨拶をして、茨の一日が始まる。
日々仕事に追われていたからなのか、一日の体感時間があまりにも長い。思えば、いつも何かに追われ、追いかけていた気がする。
ふと、体が鈍っていないか気になり、筋トレを日々のルーチンのひとつに加えた。部屋で体を動かしていたら、「負荷をかける前に先にやる事があるでしょ?」と凪砂からダメ出しをくらい、筋トレがストレッチに変わり、2人でする事になった。
体をしっかり動かし、心地良い疲労感を感じながら眠りにつく。普段より深く、深く――いつも見る夢の中の光景も、少年の凪砂も遠くに感じる。それでも、茨は歩みは止めない。乱凪砂が呼んでいるのなら、そこへ辿り着いて頭を垂れるのが七種茨だ。
「……もうすぐ、だよ」
声が聞こえたのと同時に突然目の前に少年の凪砂が現れ、茨の手を取る。握られた手は小さかったが、握り返した自分の手も小さかった。手を握ったまま、凪砂は駆け出す。腕を引かれるがまま、茨も追いかける。
辿り着く先はどこなのだろう。天国でも地獄でも、この人と一緒なら、この人の隣なら、自分にとっての楽園だ。
「……じゃあ、いこっか」
「どこへ?」
「……新しい自分に逢いに」
凪砂がそう言い終えると、浮遊感に包まれ、落下する。様々な記憶がフィルムとなって、落ちる2人の周りに流れてゆく。その全ての光景が非現実的で、夢の中の出来事だと茨は分かっている筈なのに、思い出される記憶の数々から、これが走馬灯ってやつなのか、と思うのと同時に
――あ、死ぬ
と、直感した。
このまま地面かどこかに叩きつけられてぐちゃぐちゃになって死ぬのか、海とかに落ちて沈んで死んでしまうのか……あ、でも海に落ちた場合、沈むより先に海面に叩き付けられるのか、苦しそうだな。どこか硬い、崖の岩場とかの方がいいかなぁ。即死っぽいし。痛いのや苦しいのは無い方がいい。
ぼんやりそんな事を考えながら、一緒に落ちている凪砂を見る。変わらず穏やかな笑みを浮かべていて、この後どうなるのかも知っているのだろう。
唇にあたたかなものが触れ、凪砂の顔が離れてゆく。それが、触れるだけの優しい口付けだと理解する前に、意識が黒く塗り潰された
目を覚ますと、肌寒さに身震いする。身を起こし、室内を見渡して姿を探す。
「閣……下?」
いつもの温もりが、無かった。