甘えたい気分の遥と甘やかしたい気分の美園さんの話(in風呂) 時折、遥のスイッチがパチリと切り替わることがある。
外出先では適度に距離を保ちつつ、必要以上にくっついてくることはない。いかにも甘ったるい空気を纏うこともなければ、手を繋ぐことも滅多にしない。ひとり暮らしを始めた礼音宅に足を踏み込むにしても、だからといって急に身を寄せてくることもない。
では遥が素っ気ないのかというと、それは違う。
触れ合っていなくても、話をしていれば楽しそうに笑って見せる。伝えた言葉によっては、困ったように眉を寄せて頬を赤らめる。たまに意見が食い違ってお互いに居心地が悪くなると、拗ねたようにそっぽを向く。
遥の反応はとても素直でわかりやすい。
それこそ初めの印象は『怠そう』で、喜怒哀楽にも乏しいようなイメージがあった。しかし、付き合いを始めてみれば、どちらかというと真逆のタイプだということがわかってきた。
関心のあるものほど、遥の感情変化は明らかだ。そこには『良くも悪くも』という言葉がついてまわるが、その点に関して言うなら、礼音もひとのことは言えない。
楽しいものは楽しい。
不愉快なものは不愉快。
そうしてきちんと反応を返してくれる遥なので、いわゆる『恋人らしい雰囲気』にならなくてもそれほど礼音も気にしていない。それが遥の自然体であるなら、なにを気にする必要があるだろう。
同じ時間を過ごしていることが、もっとも大切なことなのだから。
恋人らしいとか、らしくないとか、周りの尺度と比較しても仕方がない。
これはあくまで、美園礼音と二条遥の関係だ。
お互いが納得できていれば、それでいいと礼音は思う。
――しかし時折、スイッチが入ったように甘えてくることもあるわけで。
その時々により『甘える』内容は変わるのだが、今日で言うなら『いっしょに風呂に入る』だった。
「…………」
ぽたりと、湯船に雫が落ちる音が響く。
手狭な浴室には湯気が立ち上り、視界がぼんやりと白く滲んでいた。仄かな熱がこもっている空間が、暖色の照明が照らされている。そんな湯船に体を落ち着けながら、礼音は所在のない両手を浴槽の縁に置いて、目の前の光景を眺めた。
その視界には、水気を帯びた空色が広がっていた。
礼音の肩へ顔を伏せた遥が、正面から身を預けるようにその膝上へ腰を落としていた。
ともすれば誤解を生む体勢だが、なにも交わるようなことはしていない。そもそも、いっしょに入りたいと持ちかけられた時に『でもそういう気分じゃない』と言われている。
珍しい甘え方につい頷いてしまい現在に至るのだが、浴槽の狭さも気にならないほど、遥がべったりとくっついていた。座られている膝はもちろん、首周りに抱きつかれているので濡れた肌がぴったりと重なり合っている。
まったく意識しないかと言われると、それはさすがに難しい。
うっすらと熱に染まっている肌色だとか、雫を落とす毛先だとか、微かに聞こえる呼吸音だとか、シャンプーなのかボディソープなのか判断のつかない匂いだとか。頭によぎってしまうことはある。
しかし、遥にそのつもりがないのならと、それを振り払って好きにさせていた。
なにを言うでもない沈黙は、苦にならない。遥がそうして過ごしたいなら、無理に話をしようとも思わない。なにか様子がおかしければそうもいかないが、今日の遥が見せたのはシンプルな甘えの表情だった。
そういったものを見せてくれるのは、ただただ嬉しい。
気を許してくれているのだと、なにを言われずとも理解できる。
そうして表情を緩めると、遥の体が微かに動き、湯船が波打つ。
身を離すでもなく、その顔がゆっくりと礼音を見上げた。
頬を朱に染めながら、遥がぼんやりとした視線を投げかけていた。そこにどろついた欲なく、夢うつつと気の弛んだ色が浮かんでいる。視線を交わらせている間に、遥の頬を伝う雫が、ぽたりと礼音の胸元に落ちる。
ひどく長く感じたその時間、若葉色の瞳から目が離せなかった。視線を縫い留められたように見つめ合っていると、ゆるく開いた唇が、そっと口端に口付けてくる。
柔らかな感触と同時に、微かなリップ音が耳を打つ。
言いようのない多幸感が胸に溢れてくるようだった。
「……勘弁してくれ」
自分がどんな顔をしているのかもわからない。
互いの唇が離れた後に思わず呟くと、遥が満足げに口角を上げる。変わらず熱っぽく染まった頬を弛め、わざとらしく小首を傾げて見せた。
「これだけで?」
息交じりに囁きながら、再び唇を重ねられた。首元に絡まった腕にも、そっと力がこもる。熱の灯った肌が触れ合い、湿った唇の感触に息が詰まる。目の前では、ぼんやりとした瞳が機嫌良く笑んでいた。
こうもわかりやすく煽られると参ってしまう。
これも甘えのひとつだとわかっているせいで、どうにも動けない。
ひとしきり唇の柔らかさを楽しむような口付けを終えると、遥は間を置かずに首筋へ顔を埋める。そのまま跡にも残らないような加減で、ちゅっと肌を吸われる感覚がした。
ぞくりと身が震え、息を溢しそうになる。
「っそういう気分じゃないんだろ」
「キスはしたいきぶん……」
熱に浮かされたような声は、言外にやはりそういうつもりはないと言っているようだった。そのくせ首筋から肩、鎖骨へと順番に口付けを落としていく。かといってやめろというようなものでもない。
どうしろというのだろう。
ぐっと込み上げるものを押し殺して、遥の気が済むまで口を噤んでいる以外の選択肢がない。下手に動くといろいろと駄目な気がした。
こそばゆい感覚にしばらく耐えていると、遥が緩慢な動きで顔を上げる。
赤みの増した頬のまま、その瞳の焦点がゆらゆらと揺れていた。
その様子を目にした礼音は、ふと気が付く。
「……ちょっと待て」
行き場のなかった両手で、慌てて遥の両肩を掴む。礼音へもたれかかるように身を寄せていたその体は、力が抜けてぐったりと重かった。呆けたようにぼんやりとしている表情をじっと見つめて、礼音はまさかと口を開く。
「おまえ、のぼせてないか?」
「……たぶん」
芯が溶けたようなその声に、頭を抱えそうになる。
てっきり甘えられているだけかと思っていたら、長湯で体がのぼせていたらしい。それにしばらく気が付かなかった自分もどうかと思うが、遥自身もわかっていたはずだろう。
「自覚あるなら言えって!」
どうして言ってくれなかったのかと声を上げる。
なにか起こる前に気付けたからよかったものの、放っていたら脱水症状でも起こしていたかもしれない。気分が悪いと言ってくれたら、体を支えてすぐ湯船から引き上げたのに。
浴室に反響したその言葉を聞いて、遥はむっと眉を寄せる。しかし機嫌を損ねたというよりは寂しげな様子で、ぽつりと呟いた。
「……はなれんの、いやだったから」
そう言って、様子をうかがうような視線を向けてくる。
空色の毛先から水滴が落ち、小さな沈黙を微かに遮った。
「……っ、それでも言え!」
離れたくなかった。
そんな理由に一瞬言葉を失ったが、ダメなものはダメだ。可愛く思えてしまっても、それなら仕方がないとは言えない。遥になにかあっては元も子もない。
これ以上、湯に浸からせているわけにもいかないだろう。そうすぐに判断して、ふらふらと危なっかしい遥の体を支えて浴室を出る。軽く体を拭いて着替えを手伝っている間、遥は大人しくされるがままだった。
あとはベッドまで連れていき、水分を摂らせて体を休ませることにした。
真っ赤な顔で横になっている遥に、やれやれと息を吐く。次から同じような提案をされた時には、気を付けなければ。そう自省しながらベッドに腰かけると、遥がぼんやりとした視線を向けてくる。
そのままゆっくりと手を伸ばして、きゅっと礼音の服の袖を掴んだ。
心許ないようなその表情は、怒っているかと尋ねているようだった。
「そんな顔するほど、怒ってねぇよ」
そう言って湿っている髪を撫でると、安堵したように遥の表情から力が抜ける。
その甘えたいという気持ちも離れがたいという気持ちも大事にしたい。しかし、遥の体も当然大事だ。ここでわざわざ怒らなければいけないほど、遥も自分の考えを理解できていないわけではないだろう。
「次から、お互い気を付けような」
「……そうする」
おずおずと頷くその様子に、よしと頷き返す。
起き上がれるようになれば、アイスでも持ってきてやろう。
そう考えながら頬に触れると、遥がそっと口元を緩めた。
――その後、持って来たアイスを食べさせてあげると、遥はころりとご機嫌になった。