タイトル未定「あぁ、こりゃまた事故だね。最近、多いなぁ。お客さん、悪いけど歩いた方が早いよ」
タクシーの運転手の声に、落ちかけていた瞼をはっとさせ、五条はその視線を前方へと向けた。
延々と続く車の列と、どこか遠くから聞こえるサイレンの音。
これなら確かに歩いた方が早そうだ。
五条は小さくため息をつきながら、高そうなカシミアのコートのポケットから財布を取り出して、札の額を確認もせずにタクシーの運転手に押し付ける。
季節は2月上旬。東京では1番寒い季節だ。
吐く息は白く、車内との温度差に思わず首を竦めながら、五条はいつもなら車で5分程度の道のりを歩き出した。
日本人離れした190センチを越す身長と、癖のないサラサラと流れる髪は白い。
漆黒に塗りつぶされたようなサングラスの隙間から覗くアイスブルーの瞳は、どこか冷たさを感じさせ、整いすぎた顔は人間味がなかった。
すれ違う人がいちいち自分を振り返るのも気にせず、五条は目的地である自分のマンションを目指してひたすら歩く。
こう見えて、寒いのが死ぬ程苦手だ。
外を歩くつもりなんてなかったから、手袋もマフラーも用意していない。
耳がチリチリと寒さで痛くなってきた。
ついてないなぁ、まったく。
別に目的なんかなかったのだから、出かけなければよかった、と内心思いながらも、自宅でじっとしているのにも限界があった。
とにかく暇だった。
することが無い。いや、あるのだけれど、どうしても、何をやってもやる気にならないのだから、仕方ない。
無心に15分程歩くと、ようやく自分のマンションが見えてきた。
五条は見た目よりも重い黒いビジネスバッグを反対の手に持ち直すと、右手に付けた腕時計を確認しようと少し立ち止まる。
その時だった。
「悟!」
悲鳴に近いような女の甲高い声に、慌てもせずにゆっくりと背後を振り返る。
見た事のある女だった。
長い髪を振り乱し、半狂乱になりながらこちらへ近付いてくる。
その震える手にはしっかりとナイフのような刃物が握られていた。
———刺される。
そう思って、普通の人間なら逃げるだろう。
が、生憎と五条悟はそういった普通の感覚を持ち合わせてはいなかった。
急所さえ避ければ、刺される感触を味わってみるのも悪くないと、どこか冷静な頭で迫ってくるナイフの切っ先を見ていた。
あのナイフが、自分の肉体に押し込まれる時、どう感じるのか、痛みは?血はどれくらい出るだろう、何よりもその時の自分の心理を知りたい。
考えるだけで、ゾクゾクとした快感に似た感情が背中を駆け上がった。唇の口角が無意識に上がる。
ここで間違えてはいけない。
五条悟はMではない。むしろ逆だ。
これは彼の職業病とも呼ぶべき、単純な好奇心だった。
「危ない!」
あと少しでナイフがこの身を貫こうとしていた所で、ドンっと誰かに力強く突き飛ばされた。
持っていたビジネスバッグが道の反対側まで吹っ飛ぶ。
五条はそのままアスファルトに尻もちを付く形で地面に座り込んだ。
あまりにも突然の事で、思わずポカンと口が開く。
目の前でピンク色をした頭が自分を振り返った。
「お兄さん、馬鹿なの?」
暴れる女を取り押さえながら、そのピンク色の頭の持ち主が、呆れたように自分を見た。
歳は若い。高校生くらいだ。少しつり目気味の瞳は、カンロ飴のような琥珀色をしている。
街灯に照らされた獣のような引き締まった肢体は、パーカーとジーンズというなんの変哲もない格好からでもよくわかった。
その瞬間五条は、雷にでも打たれたかのように、今まで感じた事の無い感情が身体中を駆け上っていくのを感じた。
刺される寸前にすら乱れなかった心臓が、ドクドクと騒ぎ出す。目の前の少年から目が離せない。
「お兄さん、この人知ってる? ケーサツ呼んだほうがいい?」
なにか返事を返さないと、と頭では理解しているのに、なぜか口が固まったように動かせない。
自分を見たまま微動だにしなくなった男に首を傾げながら、少年は女から取り上げたナイフをパチンと折りたたみ、自分のジーンズのポケットにしまった。
「・・・知り合い、というか元カノ?」
ようやく開いた口から出てきた言葉に少年はふーん、と興味無さげに呟くと、おねーさん、人懐っこい笑顔で女に笑いかけた。
「なっ・・・何よ! 悟殺して、私も死ぬの! 子供はほっといてよ!」
そのままわんわんと泣き出した女に、少年はもう一度笑顔で話しかける。
「そこのお兄さんに酷いことされた? 俺でよければ話聞くよ。おねーさん、せっかく美人なのに、こんな事で人生棒に振るの、もったいないよ」
とたんにザワリと嫉妬に似た気持ちが今度は五条を支配した。
自分以外の誰かに笑顔を向ける様がどうしても嫌だった。その笑顔は自分だけのものだと強く五条は思った。
どうしたんだ、自分は。
さっきから、初めて会ったばかりの人物の一挙一動が気になって仕方がなかった。
五条はそれらの感情を振り切るように立ち上がり、飛ばされたビジネスバッグを掴む。中身を確認してから、ふと、まわりの異様な静けさに気が付いた。
あんなに女が騒いでいたのに、野次馬の一人もいなかった。それどころか、人の気配すら感じない。
少年と女が話し始めてしばらくすると、不思議な事が起こり始めた。
女の周りがぼんやりと明るくなり始め、すーっとその姿が幻のように消えた。
有り得ない光景に、さすがの五条も目を瞬かせた。しかし、何度見ても先程までの女の姿はどこにもない。
「やっぱり、同じだったんだね」
少年はそう呟くと、五条を振り返った。
「幽霊ってやつ? お兄さんへの未練がなくなって、成仏出来たみたいだ」
にこりと笑いながら、少年は五条に近付いてきた。五条は彼の足元を見て、少しだけ違和感を抱いた。裸足だ。少年は靴を履いていなかった。
不意にザワザワと胸が騒ぐ。何かの胸騒ぎのようだった。
「触れたの不思議だったんだよなぁ。まぁ、同士なら納得かも」
そう言って少年は五条の前でもう一度太陽みたいな笑顔で笑ってこう告げた。
「俺も、死んじゃってるみたいだから」
それが、自称幽霊———悠仁と五条の最初の出会いだった。