ここから「一緒に泳げる」
そう言いながら緩やかな坂を駆け上がる。体に疲れは全く感じなかった。
一秒でもはやく会いたかった。
「俺も水泳をやる」
そう伝えたらあの子はどんな顔をするだろう。また笑ってくれるかもしれない。
こんなに誰かに会いたいと思ったのは初めてだった。
目覚めは深い溜息と共に訪れる。
時間をみれば午前四時、夜とも朝とも付かない時間だ。
「こんなところに来てまでコレかよ……」
寝巻きに使用しているタンクトップの上に学校名が入った上着を羽織る。まだ眠っていたかったが夢のつづきを見たくなくて部屋からでる。安直だが外の空気を吸うのは有効な手段だった。
誰もいない廊下もエレベーターもひどく静かだ。こんな時間に起きている宿泊客はほとんどいないだろう。
ロビーを通り過ぎようとしたとき視界の端に人影を捉えた。なんの気なしに目を向けると座っていたのは桐嶋郁弥だった。
植え込みの影に隠れて直前まで誰か気が付かなかった。知っていたら別の道を通ったのに。
内心で舌打ちをする。
外に行く気にも失って先程降りたばかりのエレベーターに乗り込んだ。
「くそっ」
苛立ちをぶつける先がなく楓は手で髪を荒っぽく混ぜた。
郁弥の手には小さいぬいぐるみが握られていた。子供っぽいしろくまだ。それもメガネをかけた。誰がそれを渡したのか一目瞭然だった。ぬいぐるみもそこに書かれた文字も、そんなことに気分が害される自分にも苛ついた。
結局無理やりベッドに潜って眠りについた。
■
試合でどんなに結果を残しても喜びは一瞬で霧散する。
メディアや他人にその功績を祝われ、讃えられるほどそれが無価値なものに思えた。
「そんなことはないよ」と敬愛する従兄弟から言われたならきっと違うのに。どれだけネックレスを握りしめても声が聞こえることはない。
金メダルを取れたら少しは晴れやかな気分になるだろうか。
「メダルを取った感想は」「水泳をはじめたきっかけは」とつまらない質問ばかりの雑誌インタビューを終えた帰り道で郁弥が持っていたものとそっくりなくまのぬいぐるみがショーウィンドウに並んでいるのを見つけた。
ホテルでの出来事と共に苛立ちも思い出された。それなのに指はショーウィンドウのガラスに触れていた。近くでみるぬいぐるみは柔らかく、握ったら心地よさそうだ。
「何やってんだ」
どうもこの間から調子が悪い。余計なことばかり頭に浮かんでくる。
ショーウィンドウから目をそらし、足早に店の前から去った。
泳ぐときはいつも一人だ。
■
そう思っていたはずなのに、どうして今こうなっているのか。
棚の前でしゃがんでいる日和の背を楓は眺めていた。真剣な目で色違いのマグカップを握っている。
郁弥のマグカップ割っちゃってさ、と聞いてもいないのに日和は言って目についた雑貨屋へと入っていった。今日が合同練習の日だからといって一緒に向かう約束をしたわけではない。
ただ予定よりはやい電車に乗ったらそこに日和もいた。電車の中で少し会話をしてなぜかこの雑貨屋までもついてきてしまった。
「ねぇ、どっちがいいと思う?」
振り返った日和の瞳に楓が映る。そのことに居心地の悪さを感じる、けれど不快ではない。
「ん」と不機嫌なふりをして左手に持っているマグカップを指さした。
「郁弥はこっち」と日和は得意げな顔を見せて右手のマグカップを軽く持ち上げた。
楓が選んだ方はもとの棚に戻され日和はレジに並んだ。
「なら聞くなよ」
一人つぶやいて選ばれなかったマグカップを見る。
なぜかこれを買ってやりたくなったが、桐嶋郁弥と揃いのものを持つ趣味はなかった。
またしても会計をしている日和の背を眺めていた。
今の楓と日和の関係はライバルでも友人でもない。けれどばったり出くわしたら話もするし、こうして買い物にも付き合う。今の自分たちの関係はなんのだろう。話かけて日和から睨まれることは無くなった。
幼い時の夢を見て苛つくこともない。
「おまたせ」
「別に、待ってねぇよ」
「そ」
日和は財布をトートバッグに仕舞いながら一本のペンを取り出した。手に下がっているプレゼント用に包装されたものとは違い支払済を示す店のテープだけが貼ってある。
「何……」
「さっき、ペン無くしたって言ってただろ」
「……ドーモ」
なんでもない雑談の一つを覚えていてくれるのが嬉しい。選ばれた色も、嫌いじゃない。
日和が自分のことを知っていてくれるのが嬉しい。
「でさぁ―――」
自然と店を共に出て、また会話をしながら同じほうに足が向いている。
さきほど取り残されたマグカップのことなどすっかり忘れてしまっていた。
この関係にまだ名前はつかなくて良い。