かわいそうなふたり もう金を稼ぐ必要なんてなかった。
乾赤音の死から、九井一はすっかり金稼ぎの目的を失っていた。それでも仕事は舞い込んできて、惰性でこなしていれば、金は溜まっていく。こんなに金を貯めたところで、なんに使えばいいんだ。金を稼ぐために手段は選ばなかった。もう後戻りはできない。その覚悟はしていた。だが目的を見失っていた。
その日はたまたま実家に荷物を取りに戻っていた。親は何も言わない。息子がしていることに気づいていながら、何も言わない。この数年ずっとそうだ。親子の縁は切れたも同然だった。
部屋にあった本や雑貨を鞄に詰め込んで、家を出たところで、玄関先にうずくまっている人物に気づいた。
「イヌピー」
「あ、ココ」
顔をあげたのは、九井のおさななじみの乾だった。彼は年少から出てきたばかりだ。迎えに行ったのは九井だけだったが、家に帰ると言っていたはずだが。
乾はいつからいたんだろう。おそらく一週間と九井は実家に戻っていなかった。そのあいだ毎日通っていたのか。そんなことはないと乾は首を横に振ったが、数日通っていたことはしぶしぶと認めた。
「居場所ねぇのか。だったら」
オレがマンションを手配しようか。金ならあるんだ。そう提案する前に、乾が口を開いた。
「ココに会いに来た」
「……」
「ココに会いに来たんだ」
乾は二度同じことを言った。まるで最後に会いに来たとでも言わんばかりじゃないか。
「先輩のところに世話になろうと思って。そうしたら、ココに滅多に会えなくなるから」
嘘つけ。先輩の世話になる奴が、まいにち九井の家に通うなんておかしいだろう。
「携帯に連絡くれりゃよかったのに。イヌピーに番号は教えただろ」
九井はできるだけ明るい声を出した。乾はきょとんとした顔をする。
「イヌピー、忘れちゃった?メモを渡しただろ」
「あ、ああ、そうか。そうだったよな。わるかった」
立ち上がろうとする乾の腕を咄嗟に掴んだ。痩せた。そう思った。
「イヌピー、飯食いに行こう」
「え」
「オレもこれから飯なんだ。だから」
必死に掴まれている腕を、乾は茫洋と見つめた。乾が親とうまくいっていないことは承知していた。だから出所の日に迎えに行った。乾の両親のことは知っている。乾を家から追い出すようなことはしないだろう。乾が年小に入る元凶になった黒龍は存在しない。乾が頼りにしていた先輩も散り散りになった。年少に入ったとはいえ、前科がついたわけではない。親子三人どうにか折り合いをつけて行くのではないか。そう願ったが、うまくいかなかったのだろう。
乾が答えないのをいいことに、九井は強く手を引いた。
「なにが食いたい?俺は昨日イタリアンだったから、エスニックかな」
「……」
「イヌピー辛いのだいじょうぶだったっけ」
もとより饒舌ではないが、今日の乾はほどんど喋らない。
「イヌピー、オレのマンションに行こうか。出前でも取ろう。それともオレがなんか作ろうか。パスタくらいなら作れるんだぜ」
「ココが作んのか」
ちいさな声だったが、ようやく反応があったことにほっとする。
「本格的なのはムリだけどな。出来あいのソースを絡めりゃ、それなりの味になるぜ。じゃあ、コンビニに寄っていこう」
「コンビニでいいのか」
「なんとかなるだろ」
「そうか。ココの飯を食ってみたいな」
乾はさみしそうに笑った。ちっとも赤音さんに似ていなかった。彼女は朗らかな人だったから。
先輩のところに行くなんて嘘だろ。そう指摘してやりたかった。
佐野真一郎は死んでしまった。殺されてしまった。初代黒龍の面子は荒れているはずだ。乾をうけいれるどころではないだろう。
手近なコンビニに入っても、乾はどこかぼんやりとしている。他に何か食べたいものある?アイスとかなんでも入れろよ、と言っても首を横に振るだけだ。九井がカゴにプリンや杏仁豆腐を入れても無反応だ。わざとペットボトルを買って、レジ袋をひとつ乾に持ってもらった。乾がどこかに逃げないように。
マンションに乾を招くのは、はじめてのことだった。さすがに興味深そうにきょろきょろしていることに、すこしほっとする。適当に座ってよ、と言えば、乾はソファーにちょこんと座った。そんなところは昔のままだ。
九井には仕事があったが、すべてキャンセルだ。あとで文句を言われるだろうし、売り上げにも影響するだろうが、すべてどうでもよかった。いまは乾だ。乾が大事だった。
とりあえずキッチンに行き、鍋にお湯を沸かす。実のところを言えば、自炊なんてしていなかった。鍋もフライパンも今日はじめて使う。いちおう一式とりそろえたものの、不要なものかと思っていたが、買っておいてよかった。
手持無沙汰だったのか、ソファーに座っていたはずの乾がキッチンにやってきた。じっと九井の様子を伺っている。
「あ、えっと、イヌピーはコップとか出しておいてよ」
「わかった」
九井の大雑把な指示に、乾は頷いた。案外てきぱきとコップやフォークを並べている。その姿を見て、本来の乾を見たような気がした。火災が起こるまでは乾家は平凡な家庭だった。そのころ母親の手伝いをしていた名残だろう。
そんなことを考えていたからか、手元がおろそかになっていた。
「あ、パスタ入れすぎた」
「あはは、さすがにそんなにたくさん食えねぇぞ」
乾が笑った。はじめて楽しそうに笑った。
九井が呆気にとられるうちに、乾は表情を引っ込めてしまった。笑ってはいけないと自戒しているようだった。
それでやっと気づいた。
イヌピーはおねえさんを、家族を、亡くしたんだ。
赤音さんを失って、かなしかった。さみしかった。くるしくて、どうしていいかわからなかった。自分ばかりが不幸だと思っていたつもりはなかったが、不幸が起きたのは乾だ。乾だったのだ。
一袋分のパスタは多かったが、どうにか二人で食べきった。もうしばらくパスタは見たくない。なんとかなると豪語した割に、パスタはあまり美味くなかったのに、イヌピーは「うまかった」と言ってくれた。
「さいごにココの飯が食えてよかった」
さいごってなんだよ。まるで最期と言っているように聞こえるだろ。先輩のところなんて嘘なんだろ。
「イヌピー、死ぬの」
「死なねぇよ」
どこに行くかを聞くつもりだったのに、気がついたらストレートに聞いてしまっていた。乾は即答した。まるで答えを用意していたみたいに。
「先輩のところに世話になるって言ったろ」
「誰だよ」
「ココの知らない人だ」
「黒龍のことなら、調べたからだいたい知ってるよ。言ってみて」
「黒龍の先輩じゃない」
「じゃあ、だれ」
「真一郎くん、の、しりあい」
嘘だ、と思った。そもそも初代黒龍の先輩にしたって二十代だ。高校にもいっていない子供の世話をするなんておかしすぎる。佐野真一郎の名を口にする乾の声は震えていた。もしかしたら彼ならば、佐野真一郎ならば、ほんとうに乾の面倒を見ると言っていたのかもしれない。けれど彼はもういない。彼は死んだ。彼もまた殺されてしまった。
「じゃあさ、イヌピー。オレに世話させてよ」
「……」
「親元から離れたいなら、先輩じゃなくたって、オレだっていいだろ。金はあるんだ」
赤音さんを救うために手に入れた金ならあるんだ。
「ココ、その金はオレのものじゃねえ」
九井が乾を知るように、乾も九井を知っていた。九井がなんのために金を稼いでいるかを知っていた。そして。
「金はあるけど、金の使い道がねぇんだ」
九井が目的をなくした事も知っているだろう。
「イヌピーまで失ったら、オレはどうしていいかわかんなくなる」
伸ばした手を乾は拒否しなかった。肩を寄せる。額を合せる。
「おまえにまで行かれたら、さみしい」
「ココ、」
「いかないでほしい」
「ココ、オレは」
「オレをひとりにしないでくれ」
「……」
「どこにもいかないで」
これではどちらが死にそうで、どちらがひきとめているのかわからない。ふたりを失ったばかりの乾をがんじがらめにした自覚はある。死を利用するなんて卑怯な手段だ。けれど乾を失わずに済むのなら、なんでもする。どんなことだってする。泣き落としで留まってくれるのなら、涙なんて安いものだ。
乾の手の上に涙がこぼれおちたのを見て、久しぶりに泣いたなと思った。涙なんて枯れたと思ったが、案外すぐに泣けるものだ。
「ココ、わかった」
気がつけば乾は九井の手を握り返していた。心配そうな顔をしている。
「じゃあ、今日からオレと暮らしてくれる?」
どうせ親元に帰るつもりもなかったのだろう。乾は戸惑っていたが、うんと頷いてくれた。
「ココはオレといたら苦しくならないか」
「イヌピーがいなくなる方が苦しい」
「ココはうそつきだな」
乾は赤音さんにちっとも似ていないくせに、ふとした瞬間に酷似することがある。そのたびに九井の心は抉られるのだろう。
「オレさ、赤音さんがいなくなってから、ちっとも笑えなくなったんだ。なにも面白いことなんてない。でもさっき、イヌピーが笑ったとき、オレも笑えたんだ」
だからいっしょにいようよ。
九井の素直な告白に乾は頷いた。
辛いこともあるだろう。苦しいこともあるだろう。でもオマエがいなくなるよりはずっといい。
「……金を稼ぐ理由ができたな」
これは乾には内緒だけれど。