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    owarishima

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    2021年にかいた影犬 長くなりそうだったのと「こういう犬飼もいるかもな〜」で書き出したら遠征試験編で本編と解釈違いになったのもあって尻切れとんぼになってます(続き書く予定は今の所ありません…)

    青く底抜けのかなしみよ 空気に満ちる水が、体表にまとわりつく日々が続いていた頃のことである。空は毎日にび色を塗りこめて重苦しかった。たまに殴るような大粒の雨がやってきてうんざりさせられることもあり、とにかく不快な季節。特に影浦にとっては、サイドエフェクトがもたらす感覚と合わさって苛つかない日が無いくらいだった。
     この毎年恒例の不快の上に、今年はある事件の余波が重なっていた。一月以上前、同級生が起こしたボーダー隊務規定違反による除隊処分である。
     A級でも名高い二宮隊がこれによりB級への降格処分を受けたことは多大なインパクトを周囲に与えたが、二宮隊のメンバーに親しい者たちは、そうでない者以上にその影響を肌で感じていた。二宮隊の銃手、犬飼澄晴──そして除隊された鳩原未来と同学年の隊員たちなど、まさに。
     
    「どうなんだ、そういえば」
     
     不意に会話が途切れた時の穂刈の言葉だった。
     この時間、ラウンジには学校問わず高校三年生の男性隊員が何人か集まっていた。理由はそれぞれ、任務までの時間潰しであったり、課題を一緒にやったりするためである。仲の良い年代なので、集まれる人間で集まって話をするのはよくあることだった。
     
    「どうって?」
    「犬飼だ。まだ変だろう、調子が」
     
     穂刈と同じ隊の荒船が会話に応える。荒船はこの場にいない犬飼と同じ高校に通ってた。     
     犬飼はこういう集まりには程よく積極的に参加し、よく喋る男だった。しかし、事件後の一ヶ月の彼といえば、友人たちを見かけても遠くから手をあげて挨拶するだけに留めたり、会話に参加してもどこか違和感の残る様子だった。あからさまに消沈しているようには見せていなかったし、傍目には喋りも変わらなく映るだろう。しかし、仲が良い人間から見ると空元気とでも言うべきものが張り付いている印象があった。
     
    「お前も見た通りだろ。個人ランク戦誘っても乗ってこねえし、学校でメシ食う時もボーダーにいる時と変わんねえよ。元気ねえけどいつも通りにしようとしてる感じで。会長はどうだ?」
    「荒船と同じ意見だな。そもそもクラスが違うから日常を多く見ているわけでもないが」
     
     影浦は姿勢悪くソファに座り込みスマホをいじりながら会話を聞いていた。ここ最近、仲間達以上に犬飼に敬遠されているらしいということは気付いていた。そのことで影浦に何か影響があるわけでもないし、何となく理由は感じ取っていたが。
     一月前を思い出す。誕生日の祝いの言葉やプレゼントを受け取って、いつも以上にうるさく回っていた口と、光が増したような瞳を。その数日後、日頃からは考えられないほど何の感情も刺してこなかった男の表情を。
     
    「原因が分かってるだけマシなんじゃないのかな。仲間が実は規定違反していて除隊の上自分たちも連帯責任で処分、なんて誰だってそれなりの衝撃だし、立ち直るのに時間がかかるのも仕方ないと思うけれど」
    「分かってるって言えんのかねぇ」

     王子の言葉に、肘をついた当真は嘆息気味に答えた。
     
    「ただの違反って感じしねえけどな」
    「当真も知らないんだろう、詳細を」
    「まーな」
    「実は聞いてるけど言えないとかじゃなく?」
    「違うっつの。いや、仮に知ってたとしても知らねえって言うかもしんねえけどよ。今回はマジ」

     当真は肩をすくめ、一瞬だけ影浦を見た。A級二位の当真が知り得ないのであれば、この場の人間が知ることは難しいだろう。その共通認識は全員が持っていた。
     影浦には、静まる場がどこか遠くのように感じられていた。このひと月、見かける度にどうにも違和感を感じさせる犬飼が脳裏に浮かぶ。犬飼と相対する度に、影浦は苛立ちを掻き立てられて仕方がなかった。明らかにいつも通りとは程遠い状態のまま、季節が移りゆこうとさえしている。
     
    「詳細が分からないのは仕方ないとして…まだちょっと元気ないのはやっぱり心配になるよねぇ」
     影浦の心を知らない北添の言葉が耳に残る。『ちょっと』元気がない、と。
     影浦は心配しているわけではない、と自分では思っていた。ただずっと、歯に何か詰まったようなすっきりしない心地が続いているだけで。
     
    「来馬先輩も大学の二宮さんを心配してたな……歯痒いが時間が解決するのを待つしか無いんじゃないか」

     自分たちができることは、いつも通りにすること以外他になさそうだ。村上の言葉を最後に、話題は別のことに移った。
     ならばさっさと時間が過ぎてしまえと影浦は思った。そうして二宮隊の話題が完全に沈黙し、犬飼も元通りになってくれれば、影浦の苛立ちは軽減される。その間に梅雨も終わってしまえば、もっといいが。
     

     *

     
     今日もじっとりと不快な気候の土曜日だった。気温は高くないが雨足はそれなりに強い。
     影浦は昼までの防衛任務の後、村上などとランク戦をこなし、十六時過ぎに帰路についた。視界は相応に不鮮明で、傘を叩く雨粒と重くなるスニーカーの感覚は鮮明だった。
     ある角を曲がろうとした時、視界の端に人影を捉えた。そこには木立に囲まれたごく小さな公園があった。その中で、進学校のブレザーに雨を受けながらブランコに座り続ける姿は、誰がみても違和感を覚えるだろう。
     その明るい髪色を見て、思わず影浦は舌打ちをした。
     そこで何をしているのか、なんて聞く気は影浦にはなかった。そもそも、影浦はその男のことが元から好きではない。勝手に雨に当たって勝手に風邪でも引いていればいい。
     
    「あー、クソ…」
     
     無視して帰ってしまえばいいのに。そう思いながら、影浦の水に染みた靴は、車止めをすり抜けて公園の中に入っていった。
     彼がブランコの横に立つまで、近頃話題の男は他人の存在に気づかなかった。ほど近いところに聞こえた砂利を踏みしめる音で、ようやく視線を向けたのだった。
     
    「…あれ?カゲじゃん。何やってるの?」
     
     犬飼は口元だけで薄い笑みを作った。影浦の肌をちくりと刺す感覚。ああ面倒くさい、とでも言うような。
     
    (それはこっちのセリフだクソが)
     
     自分からやってきておきながら、無言で顔を顰める影浦を見て、犬飼は何かを察されたと理解したようだった。が、だからといって何をするわけでもない。
     放っておいてくれないかな。無言の主張がまた影浦を刺激する。犬飼は自分の感情で影浦を動かすつもりで見つめていた。
     
    (この野郎……)

     影浦の眉間の皺がさらに深くなった。彼はイライラしていた。この一ヶ月ずっとイライラしっぱなしだった。何がなくても周囲の感情に腹が立つのに、余計なものが余計に影浦の肌に触れていく。この季節しかり、犬飼しかり、犬飼を心配する同僚たちしかり。この間の当真の視線もそうだった。お前なら何か感じているんじゃないか、と一瞬の目配せが語っていた。特にアクションのない当真以外の仲間からも、うっすらと期待をしているような淡い感触があった。この気持ちが影浦に刺さっていたら申し訳ない、という感情とともに。
     
    「どいつもこいつもうぜえんだよ」
     
     犬飼はぱちりと瞬きをした。言葉の意味を探す彼の腕を掴んで強引に立たせる。
     
    「は?え、ちょっと」
     
     動揺が刺さり、犬飼の足がもつれるが、影浦は知ったこっちゃなかった。転ばなきゃいいのだ。逃げ出さないように痛いほど力を入れて、影浦は歩き出した。なぜ、どうして、痛い、ふざけるな。色々な感情が影浦の半身を刺す。それでも彼は手を離さず、濡れたアスファルトをずんずんと進んでいった。
     十分ほどで着いたのは影浦の自宅──店をやっている表ではなく、裏の住居側の玄関である。そこで初めて、自分は傘をさしておきながら、引っ張って連れてきた犬飼を雨ざらしにしていたことに思い至った。元からずぶ濡れだったので傘に入れたところで何か変わったとは思わないが。
     振り返ると、ぽたぽたと水滴がしたたる髪の間から青い目が向けられていた。サイドエフェクトが無くたって雄弁なそれを痛みと共に受け流して、影浦はぶっきらぼうに「入れ」とだけ言って顎をしゃくった。
     

     *


     あの後、家に着いた影浦はタオルでガシガシと強引に犬飼を拭いて彼を面食らわせた。痛いんだけど何なの、そう言い募るのを受け流し、家に上げてそのまま洗面所に放り込んだ。「着替えは用意しておいてやる」と出ていく影浦を呆然として見る相手のことは振り返ることもなく無視したのだった。 
     ギイ、と浴室の扉が開いた音がした。もうすぐ犬飼が身支度を整えて出てくるだろう。影浦はソファから立ち上がって飲み物を用意することにした。始めから何もかも自分のガラではない。けれど、こうでもしなければ、これから為すことがなければ、自分の苛立ちは解消されそうにない。
     二つ年上の、射手の王なんて呼ばれるいけすかない男の顔を思い出す。てめえが何とかしとけば俺はこんなことをしていない。そう思っても言える相手はどこにもいなかった。

    「カゲ、いる?」

     犬飼の声が響いた。キッチンから顔だけ廊下に出すと、着古したスウェットの犬飼から安心した感情が刺さる。

    「暖かいのと冷たいのどっちだ」
     
     近寄ってきた犬飼に、ぶっきらぼうに問う。
     
    「あー…冷たいので」
     
     察しよい答えを得て、影浦は二つのグラスに麦茶を注いだ。それを持って自室に犬飼を入れると、相手にはベッド前の座布団に座るようにまた顎でしゃくって、自分はデスクチェアの背もたれを前にして腰掛ける。ローテーブルを挟んだ微妙な距離が二人を隔てていた。
     
    「……」
    「……」
     
     沈黙と、影浦を刺す感情のみが部屋を満たす。影浦は何も言わない。ちびちびと麦茶を飲む犬飼を見続けた。影浦に刺さる不可解と居た堪れなさが徐々に大きくなる。それでも影浦は何も話さなかった。話してやってもいいが、どう切り込むかと悩む気持ちと、自分から話すことを癪に思う謎の気持ちと、ここにきて感じたそもそも自分がこんなことをする馬鹿らしさのようなものが相まって、口を開く気になれなかった。
     先に耐えきれなくなった犬飼がついに口火を切ったのは、麦茶を飲み干し場を濁す手段が無くなってからだった。

    「…あの、さ」
    「んだよ」
    「とりあえず今日の色々は、ありがとね。服乾かしてもらってるし着替えまで借りちゃった」 
    「別に」
    「あんな雨の中で傘もささないでいたらさ、カゲだってビビるよね。心配かけちゃった?ゴメンね。ちょっと考え事してただけなんだけど」
    「……」
    「カゲ、意外と優しいんだね。知らなかった。でも公園からシャワーまでは強引すぎ。痛いし脱臼するかと思ったよホント。腕に跡ついたんだけど?責任とってよね〜」
     
     影浦は『いつもの顔』を取り繕う様を見ていた。貼り付けたような笑みで茶化しながら、立板に水のごとく犬飼は喋る。そんなのは影浦に対し無意味であると聡明な彼が分からないはずはなかった。けれど、彼は口を止めなかった。繕うために止められないのだと、影浦に刺さる焦りが如実に伝えていた。
     
    「もう全然説明しないしさぁ。マジそういうの良くないからね?普段もそうだけど。ちゃんと言葉にしましょうって小学校とかで言われてない?」
    「お前に言われたかねえよ」
     
     影浦はぐいと麦茶を煽ってグラスを机に置いた。
     
    「そもそもお前のことなんてどうでもいい」
    「ええ〜、ここにきてそれ言う?謎すぎない?じゃあ今の状況は何なのさ」

     呆れた、理解できないという顔で、同じ感情が刺さってくる。ほんの少し溜飲が下がるのを感じた。さっきまでよりはよっぽどいいと思った。
     
    「周りがどうでもよくねえんだよ。気づいてんだろ」
    「…まあ、そだね。みんな心配症だね。アハハ、俺って愛されてる?」
    「知るか。お前もアイツらもウゼェから相談するなり何なりしてとっととケリつけろや」
    「なるほど、それが言いたかったんだねカゲは」

     うーん。犬飼は視線を斜めに下げて、コップを弄ぶ。

    「そうしたいのは山々なんだけどさ。俺は何も言えないんだよね。その辺はカゲたちも察してるでしょ」
     
     その通り。そんなことはみんなとっくの昔に察している。だから時間が解決するのを待っている。『まだちょっと元気がない犬飼』がいつもの調子を取り戻すのを待っているというのに。肝心の、目の前の男ときたら。
     
    「アイツらに言えねえんなら自分とこの隊長に相談しろ」
    「無理無理。ただでさえ珍しく余裕無いのに迷惑かけたくないよ」
    「じゃあ辻か氷見」
    「もっと無理だよ。俺がフォローしてるぐらいなんだから」
    「じゃあテメェはどうすんだよ」
    「放っておいてくれればいいんだよ。そのうち大丈夫になるんだから」
    「どんどん酷くなってんのにか?」
     
     ぴたり。犬飼の視線とともに部屋の空気が静止した気がした。金と青の目が静かに見つめ合う。
     こんな話をするなんて、全くガラじゃない。けど自分しか分からない。解決するには自分が動くしかないのだ。影浦は細くため息をついた。
     
    「二宮隊でもアイツらの前でも『まだちょっと元気はないけどそのうち大丈夫になりそうなお前』は作れてんだろうよ」

     それは認めてやる、と上からものを言う影浦を見つめる目は静かで底冷えするようだった。何も知らなければひるむ人間もいたかもしれない。だがあいにくと影浦にはサイドエフェクトがあって、感じ取ったのは怯えだった。

    「みんな騙されてやがる。お前実際はもっとギリギリだろうが」


     *


     影浦はずっと、違和感を感じ続けていた。
     最初は事件の数日後、全くの無になっていた犬飼に会った時。次の機会にはある程度調子を取り戻していたが、気まずさと少しの拒絶が刺さった。犬飼が他人を拒絶するところは見たことがなかったし、どんなに影浦が邪険に扱ってもそんな感情を向けてきたことがなかった。これにまた違和感を感じつつも、事件のことも頭にあったので流したのだ。今はそっとしておいてほしいのだろうと。刺さった感情を誰かに吹聴する気もなかった。
     さらに次に会った時には、同輩たちも感じる空元気を張り付けた犬飼になっていた。拒絶は残り、犬飼はやんわりと同級生を避け、殊に影浦を避けるようになった。が、表面上は以前通りの犬飼を取り繕っていたせいもあり、完全に避け切ることもできない。週に何度かの対面の度、拒絶がチクチクと影浦の神経を逆撫でた。

    (マジでウゼェ……)

     何であれ、顔を合わせるのも感情を受け取るのも影浦の意思に沿ったことではない。最初こそスルーしていたが、ボーダーの任務上の対面や廊下でのすれ違いといった不可抗力に対する理不尽な感情に、フラストレーションが溜まって不機嫌になるまで時間は掛からなかった。
     拒絶は会うたびに大きくなり、次第に恐れと申し訳なさが混ざるようになった。しかし、影浦の受ける痛みが日々大きくなっても、犬飼はさも平然であるかのように振る舞い続けた。周囲は犬飼の顔を見て、『まだちょっと元気がない』なんて言う。バカか。おかしいだろうが。こんな感情を持ってる奴がちょっと元気がないで済むはずねえだろ!
     元々短気な影浦はこの一ヶ月と少しの間に何度も「どのツラ下げて」「今ここでキレてやろうか」「一度ぶん殴ってやろうか」と思い、虫の居所が悪すぎて胸ぐらを掴みかけたことも、仲間達の前で大声で怒鳴りそうになったこともあった。しかし、実行はされなかった。体が動きそうになる時、犬飼の一等強い感情が影浦を刺すのだ。
     ある時にふと影浦は理解した。それが、祈りに近い感情なのだと。
     

     *


    「テメェ、ずっと『やめろ』って思ってるだろ」
    「何それ?特に何かされたわけでもないのに」
    「じゃあ言い方変えてやる。『気付くな』って思ってるだろ」
    「……」

     歪な祈りだった。最初は小さかったのに、次第にあまりにも必死で大きな願いの感情となっていくのを、影浦はここ最近文字通り肌で感じていた。

    「俺をずっと拒絶して、気付くな、無視しろって思ってる。そんで俺が何か言わないか、お前がいないところで何か言ってないか気にして怖がってる。当たってんだろ」
    「そんなこと」
    「あんだよ。俺がどんだけ刺されたと思ってやがる?」
    「……」
    「何も言えねえよなァ。刺してる自覚もあったんだからよ。おかげさまでこの一ヶ月最悪だったぜ」
     
     さながら罪人を追い詰める尋問官のようだった。影浦は犬飼の傷に踏み込むことになんの躊躇いもなかった。

    「…カゲに感情刺さってたのは、ゴメン。二宮隊のことは外には言えないけど、カゲは分かっちゃうかもしれなかったからさ。それで」
    「そうじゃねえだろ」
    「そうだよ」
    「嘘だ」
    「嘘じゃないよ。そういうことにしてよ。…勝手に察しないでくれない?」

     犬飼の顔に痛切さが滲んでも、それを見据える金の瞳は静かだった。睨め付けられても怒りと拒絶が刺さっても、一つも脅威足りえない。壊れかけの虚勢でしかなかった。
     影浦はその虚勢すら粉々にする気だった。イライラしていたのだ。だってこちらは余計な痛みにさらされ続けていたというのに、刺してきた本人はこの後に及んで誤魔化そうとしている。単純に腹が立って仕方なかった。
     ポケットからボーダーの通信用端末を取り出す。隊員同士は連絡先をデフォルトで登録しあうようになっている。その中から最近B級に異動した射手の名前を探した。影浦の視界、端末の向こうで犬飼がはっとするのが見えた。

    「何してんのカゲ」
    「二宮に連絡する」
    「!!」

     顔に一気に険が走った。思わず身を乗り出した犬飼をチラリと見て、また液晶に視線を落とす。

    「そもそも隊員の管理も隊長の役目だろうが」
    「やめてよ」
    「やめねえよ、こっちは迷惑被ってんだ」

     立ち上がった犬飼の腕が勢いよく伸びて、操作する手ごと端末を強く抑え込んだ。

    「やめろって!二宮さんは関係ない!」

     影浦は鼻で笑った。痛々しい声で掴んできた手は震え、懇願の色が青い目に浮かんでいる。焦燥と恐れと怒りの痛みが肌を刺す。あまりにも切実だった。でも、影浦は躊躇う気持ちも絆される気持ちも湧かなかった。二宮は関係ないだなんて、どの口が言う?今ここでどんな話をしてきたと?そう言うと、犬飼は表情を歪めて唇を噛みしめた。
     犬飼は、ずっと冷静じゃないのだ。

    「さっきもさぁ言ったじゃん、二宮さん上からも色々あるし大変なんだよ。ひゃみちゃんと辻ちゃんのフォローも俺が手伝って、最近やっといつもどおりっぽくなってきたわけ。ここで俺のことで負担かけたくないんだよ。わかるだろ!?」
    「わかんねーな。仲間が自分に気ぃ使った結果おかしくなりましたーなんてその方が最悪に決まってる」
    「おかしくなんかなるわけないだろ」
    「なってんだよもう」

     むしろ二宮には状況を教えてやったほうが良いくらいだろう、と影浦は考えていた。自分の余裕が無かったせいで部下に何かあれば、あの男は自分を責めるに違いない。プライドが高く、部下を信頼し大切にする男であることは、外から見ても分かる。鳩原のことですでに自責とショックがあるのかもしれないとは思うが、この上犬飼まで、となればそちらの方が二宮を傷つけるはずだった。
     犬飼はその辺も分かっている男のはずだと思ったんだがな。影浦は目の前の固い表情を見て思う。

    「カゲに何が分かるっていうんだよ。俺は大丈夫になるって言ったじゃん」
    「雨が降っても傘ささないで考え事してる奴が大丈夫なもんかよ」

     犬飼はぐっと言葉に詰まった。……彼は本来聡明な人物だから、本当のところは自分の状態もわかっているのかもしれない。

    「ずっと他人のために“いつも通り“をやろうとして偉えこったよ。そのせいで自分が追い詰められてよ。うつくしー自己犠牲ってか?」
    「そんなわけない、ふざけんな」
    「ふざけてねえっつってんだろ」

     人はここまでバカになれるのか、と影浦は思った。戦場で冷徹に盤面を動かし駆け引きをする洞察力のある犬飼はどこにもいなかった。
     彼は自分自身を見ないふりをしていたのだろう。己の中にわだかまる何かがあるにもかかわらず、おいそれと他人に吐き出すことは状況が許さず、吐き出すことが許されている少数の相手を思って理性で抑え込み続けた。結果、思考は歪に固まっている。

    「おかしく見えねえように気ぃ使って、変な自分に気付くな、気付かれるのが怖いってしか考えられてねえ。はっきり言ってやる、それは異常なんだよ」
    「っ」
    「その感じだと二宮隊でもそうなんだろ。二宮はてめぇがそんな状態でいることを喜ぶのか?」
    「……」

     でも、と言ってから、言葉は潰えた。俯いてしまった色素の薄い頭を見つめる。影浦はチェアに座っていて犬飼は立っていたが、仰いでも表情はうかがえない。手は力が入って影浦のそれを端末ごと固く押さえつけていたけど、きっと犬飼は目の前の影浦をほとんど意識できていなかった。影浦の肌の上に痛みがいくらか降るが、それ以上に犬飼は犬飼自身と、こうなった原因に感情を巡らせていた。自分の中に渦巻くものに動揺し混乱している男は、いつかよりひどく頼りなく見えた。
     犬飼は聡明だ。だから、わかっていてながら自分を無視し続けて、果てに聡明さを見失ってしまった。
     影浦がガシガシと頭を掻いて立ち上がると犬飼がピクリと反応する。握り込まれているのと逆の手をつむじしか見えなくなった金髪の頭に添えると、影浦は自分の肩口に押し付けた。

    「……今度はなに」

     少し掠れて弱々しい声は、犬飼の心の反映だったかもしれない。
     今日の自分は全くもって、何もかも自分らしくないと影浦は自覚していたし、犬飼からすればより理解不能だろう。影浦が犬飼を気に食わないのはお互い承知していたし、迷惑を感じていたからといってこんな風に他人に踏み込む人間だと思われていなかったはずだ。

    「泣けやオラ」
    「はあ?何、ほんと横暴だねカゲ」

     信じらんない、とに皮肉げに笑ったような吐息混じりの声は、まだひしゃげていない。

    「今日の感じじゃどーせ二宮隊でも吐き出せねえだろ」
    「…だってもう、どう切り出したらいいか分かんないんだよ」

     ほんの少し、頭の重みが肩に強く乗る。Tシャツごしに吐息が落ちる感触がした。
     犬飼が頑固になることは一応予想の範囲内だった。影浦は、人がそのように頑なになり、発散の仕方を見失ったり忘れてしまうことを知っていた。

    「マジでバカになったなお前」
    「カゲに言われたくないよ」
    「バカだから俺に言葉でボコボコにされたんだよ。ボコられついでに泣いてけばいいだろうが」
    「うるさいな、もう」

     頭に乗せていた手を滑らせて、影浦は緩やかに犬飼の背を抱いて、親が子供をあやすように背中を繰り返し不器用に撫でる。
     影浦は苛立って仕方なかった。犬飼の感情も周囲の感情も、犬飼が周囲に隠すことも、自分以外犬飼に気づかないことも、──誰かが、苦しみ雁字搦めになっていくのを目の前で見ることも。

    「…お前が、大事な奴らのこと考えて普通でいようとしてたのはわかった」
    「……」
    「色々知られたくないのもわかった。誰にも言わねえよ」
    「……うん」
    「言っとくけど自分の隊で相談しねえのは間違ってると俺は思ってるからな。それで碌でもない感情刺されるこっちの身になれ。反省しろ」
    「…うん、ごめん」

     やがて嗚咽が二人きりの部屋に響く。犬飼の空いた手が背に回ってTシャツを握りしめた。犬飼が自分を掴む感触、乗せられた頭の重み、熱い吐息、Tシャツが濡れてゆく感覚。影浦に分かったのはそれだけだった。

    「…っ、くそ……んでだよ…、…っぐ……」

     犬飼は影浦に感情を向けなかった。ここにはいない誰かへの思いが彼を満たして溢れていく。影浦はその背を撫で続ける以外できることがなかった。





     結論から言うと、タガが外れた犬飼は泣きに泣いた。具体的な話を漏らすことはない。ただただ泣き続けた。
     影浦は自身の平穏のためにもこの際気の済むまで泣いてしまえばいいと思った。が、なかなか泣き止まないので棒立ちに疲れ、途中でベッドの上に移動し、壁を背もたれにして座りこんだ。この間もずっと犬飼は泣いていてくっついたままだった。足の間に収まった犬飼が泣き止むまで数十分、鼻水も止まるまではさらに時間がかかった。Tシャツは洗濯に直行だった。
     今日のところはお役御免になった端末はベットに乗り上げた時に適当に放り投げ、空いた手は犬飼の後頭部の丸みの下に添えていた。手持ち無沙汰でどこに置いていいか分からなかったからだ。犬飼の方の空いた手は影浦の肩にかかっていた。犬飼が静かになってもとりあえず背中を撫でる手は止めなかった。
     犬飼は静かになって少しした後、さらに近づいて一瞬だけ強く影浦を抱きしめると、すぐに緩めてゆっくりと顔を上げた。

    「ブサイクだな」
    「デリカシーなさすぎでしょ」
     
     そう言う犬飼は少し笑っていた。貼り付けたものではなく、自然に溢れたものだった。柔い感覚が影浦の肌に降った。

    「……ありがとう、カゲ」
    「今後変な感情差してきたら殺すからな」
    「うん」

     泣いてスッキリしたのか、犬飼の表情は穏やかだ。目元が腫れているのは痛々しいが仕方ない。

    「チッ、…オイここで待ってろ」
    「どうしたの?」
    「目ぇ冷やすもん取ってくんだよ」

     背中に刺さるものを受け止めて、相手の反応を見ずに影浦は自室を出た。
     フェイスタオルに包む保冷剤を探しがてら、ついでに開けた冷蔵庫から追加の麦茶を持っていく。泣きまくったんだし一応水分補給させるか。
     そうして部屋に戻って目に入ったのは、壁にもたれて船を漕いでいる明るい頭だった。

    「あ?オイ、起きろ」
    「…あー…ごめん、うとうとしちゃった」

     5分程度だと言うのによくもまぁ、と思わないでもなかったが、そういえば彼は今日雨に全身打たれている。泣いたことも含めて、疲労で体力が奪われているのは不思議ではなかった。
     手渡された保冷剤を目元に当てて、犬飼はふぅと息をついた。その間に影浦が二人分の空グラスに麦茶を注いで片方差し出すと、気配を感じて少しずらしたタオルから目を覗かせる。犬飼は小さく感謝してグラスに口をつけた。ぐっぐっと喉仏が動くのを横目で見ながら、影浦も口をつける。犬飼はそのまま一杯飲み干してしまった。よほど渇いていたらしい。

    「あーー…」
    「…そんなに眠いのか?」
    「うーん……」
    (ダメだなコイツ)

     しょうがない。影浦は早々に諦めることにした。

    「1時間ぐらいで起こしてやるから寝てろ」

     眠気に苛まれながらも遠慮してゆるく抵抗する犬飼を半ば強引に横にさせた。観念した青い双眸がぼんやりと影浦を見て、そのまま瞼の奥に隠される。寝息が響いてきたのはそれからすぐだった。
     結局この後数時間も犬飼は起きなかった。目覚めたのは時計の短針が10を超えてからで、驚いたり慌てたりした犬飼は最終的に影浦の家に泊まっていくことになったのだった。
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