『バッドエンドは投げ捨てた6-2』【親しい友人に煽られる②】
——玲ちゃんをタクシーに乗せて、自社に顔を出して……顔を出しただけで、オフィスを後にした。
もともと社内で進行中の各プロジェクトのことは進捗を把握しているし、特別に出社をしてやるような仕事もない。画面越しだと伝わりにくい社員達の空気が今も滞りないことが分かったところで、今日はもういいか、という気分になった。
オープンカフェで人の流れを見ながら、コーヒーを飲む。
今頃、玲ちゃん達はこれからの捜査方法について話し合っているはずだ。その報告が俺のところに連絡が来るかどうかは、俺には分からない。今後も捜査の核心に近い部分に協力することになるなら電話が鳴るだろうし、そうじゃないなら連絡は来ない。それだけだ。
工場長に見送られて敷地を出る時、彼に対する不快な感情を表に出してしまったのは、それまで必死に堪えていた玲ちゃんじゃなくて、平然としているフリをしていた俺の方だった。
些細なことではあったけれど、今回の視察で唯一、工場長に怪訝な顔をさせてしまった瞬間だった。
わざとじゃなかった。
どうしようもなく弱々しく……その場で何もすることのできない自身の力の無さを突きつけられて足元から崩れそうになっていた玲ちゃんを背後に隠して、俺の攻撃性が滲み出た。
改めて考えれば自分を鼻で笑いたくなるような話だ。
ドラッグも押収した。あの会社で行われようとしていることも明らかになった。社長の関与も間違いない。
俺はマトリへの協力の役目も、自分の会社を犯罪に巻き込ませないための目的も十分に果たした。
だからこれでおしまい。
そう思ったのは俺の勝手で、もし俺の最後の言動が今後、彼女の捜査の邪魔になったら、元も子もないのに。
(桧山との仕事だったら叱られそうだな。だからお前は詰めが甘い、って)
時間があると余計なことを考える。
部屋に帰らず車だけ取りにマンションに戻った。
そのままパティスリーでケーキを買って、代官山の神楽のアトリエに差し入れをして、構ってくれない神楽の仕事ぶりをしばらく眺めてから、アトリエも後にした。
気分じゃなくてオフィスを出たのに、結局いつものバーでタブレットを使って仕事をしているうちに夜になった。
車で来ているし一人で飲んでもつまらないから、カクテルのひとつも頼まずにその場で食事だけ済ませた。
玲ちゃんからの連絡は、入らなかった。
そうして手持ち無沙汰にスマートフォンを見つめて、午後に仕事で対応したいくつかの通話履歴を消して、ある電話番号をタップした。
『羽鳥? どうした?』
「あ、槙? 今日槙のところ行っていい?」
『俺のところって』
「槙のマンション」
向こうの帰宅時間に合わせて部屋に到着した俺を迎え入れた槙は、突然悪いねと一応詫びる俺に対して、相変わらず無口に「いや」と言っただけだった。
槙の家に一人で来るのは、ずいぶん久しぶりのように思う。学生時代、頻繁にとは言わないまでも、ふらりとよく訪れていた頃が懐かしい。
槙は相手の僅かな挙動から裏を読み取ることに長けているから、時には少し厄介だなと思うこともある。
ただ、その分こちらの意図を無理に曝け出させようとしないから、楽でもある。
いつも余計なことしか言わないと神楽には怒られるけれど、槙の前では俺も、まあある程度は、不要なことは言わなくなる。話す必要が無いから。
静かに時間が過ぎるこの状況は槙にとっても、ちょっと雨宿りにきた猫を眺めているという程度のもの、ということだ。
「何か飲むか」
「お構いなく。車で来てるから。あ、ホットミルク?」
「……帰るか?」
「ホントホント。槙が温めるホットミルク、美味しそうだから」
「……。砂糖は?」
「入れないでいいよ」
だったら本当に温めるだけだぞと言って、本当にレンジで温めただけのミルクは、シナモンや蜂蜜を入れて自分で作ったものよりも安心する味がした。
舐める程度、牛乳を口に含む自分の姿を客観的に考えて、いよいよ雨宿りに来た猫の様相に近づいてきたなと、少し笑えた。
「何かあったのか」
深くこちらの意図を探ろうとしないから、楽だ。そう思った槙に早々に訊ねられて、顔には出さなかったけれど内心で少し面食らった。
同時に、槙は相手の挙動から裏を読み取ることに長けていることを思い出す。
「何かあったような顔、してた?」
「まあ」
槙は何気なく相槌を打ったまま、自分のホットミルクを口にしている。
俺は……槙にそう思われるくらい、話がしたかったということなのだろうか。
今日はつくづくどうにもならない。
「玲ちゃん」
「ん」
Revelの三人には、俺が会社を不在にすること、視察先の会社で玲ちゃんとばったり会ったこと、捜査の協力をすることを話している。
だから俺が彼女の名前を口にしたのはある程度予測できた第一声だったんだろう。
けれど、それにしたって少しの意外性も感じなかったらしいことが、多少は悔しかった。
「昨日、一緒にホテルに泊まったんだけど」
言葉を省いて続けてみる。さすがに槙の周りの空気がいくらか揺らいで、でもそれだけだった。
「手、出したいって思ったことに驚いた」
「……」
「そう思ったのに出さなかった自分に、もっと驚いた」
どうしようもない沈黙も、一人で複雑に考えている時より俺自身を突き刺さない。
虚しく言葉が霧散しないのは、馬鹿みたいな独白のようなセリフも、槙がその一つ一つを内側に入れて状況を吟味していると分かるからだ。
「……守ってあげられたら良いのに、って、女の子に初めて思った」
答えが欲しいのか頭を整理したいだけなのか、俺にも分からなかった。
槙は俺の吐露そのものには応えずに、かなり長く黙っていた最後に、「夏目さんと菅野さんを見ていると」と、話が逸れたような逸れていないような不思議な口調で、俺の方は少しも予測していなかった人物二人の名前を挙げた。
「夏目くんと菅野くん?」
「ときどき、泉や亜貴と皆で飲みに行くから」
「そうらしいね。それで?」
「泉。手強いんだろうなって思って、見てた」
「夏目くんと菅野くんが、玲ちゃんを口説こうとしているっていうこと?」
「いや、そこまでじゃないと思うけど。でも、押せそうかどうかを見ることくらい、あるだろ。意識的でも、そうでなくても」
「あるね」
好きかどうか定かでなくても、嫌いじゃなければとお試しで付き合うカップルなんていくらでもいる。
手強いというのは、それすらも玲ちゃん独特の天然でかわされてしまうということだろう。そうこうしているうちに、まあ楽しいから友達で良いかと、互いの立ち位置が落ち着いていく。多くを望まないで、それがベストの状態だと無意識に思い込んで。
(俺、みたいに?)
腹の底から沸き起こる動揺を、どうにか押し込めた。少しだけ息が上がったことを、槙は見抜いただろうか。
「神楽は?」
「亜貴は、まあよく分からないけど」
「……槙は?」
「俺は、多分羽鳥に近い方」
「……」
「……なんだ?」
「あ、……いや」
槙は俺と同じで、近づき過ぎたら距離を置きたくなる方。槙は明らかにそう言おうとした。なのに俺は今、なんて問い返そうとした?
槙〝も〟玲ちゃんが気になっているの?
俺みたいに?
「……」
「羽鳥?」
「槙」
「何」
「……眠くなってきた」
喉の奥で静かに笑った槙が、ブランケットを俺に渡す。
昨日は一睡もしなかった。家に帰ったところで、間接照明の深みある明かりに浮き上がる玲ちゃんの眠る姿を思い出して、寝付けなかっただろうと思う。
(雨宿りに来たつもりで、結局全部、綺麗に洗い流された)
これだから、槙はこわいのだ。