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    liku_nanami

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    liku_nanami

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    羽鳥さんが少女漫画で人気のシチュエーションを回収していくお話、番外編。

    『バッドエンドは投げ捨てた 番外編』【巻末についているオマケページみたいな話】




    〝泉玲:宿泊の予約トラブルがあり部屋を確保できなかったため、大谷さんと近くのラブホテルに泊まることになりました〟


     誇張なしに、スマホを落としそうになった。
     捜査のため大谷さんと出張に向かうことになった泉から、無事に特急列車に乗ったと連絡が届いたのは何時間前だったか。
     予定通りに二人が動けていることに安心し、明日に備えて俺が自宅に帰ったのが23時半頃。シャワーから上がり、いつもなら寝前に缶ビールを一本……と伸ばすはずの手は今夜は控えることにして、代わりに次の連絡が来ていないかと開いたスマホの画面に映し出されたメッセージに、目を疑う単語が書かれていた。

    (ラブ、ホテル?)

     出張中の急な予定変更でこちらに心配をかけないようにするためか、移動先と思われる住所のURLが付いている。
     リンクを開くと、画面に映し出されたマップの下に施設情報が表示された。一見洒落て見えるホテル名からはそこがどのような用途の場所かは判別できないが、投稿されている写真は確かに、いわゆる、ラブホテル、だった。利用者評価は星3・4。

    「……」

     マトリという仕事に就いて、部下を持つようになって何年が経ったのだったか。
     現場では考えたことを自覚する間も無いくらい咄嗟の決断力が求められてきたし、人や状況、環境が変われば二度と同じ正解が繰り返されることの無い中で俺なりに経験も積み、多くの選択肢と向き合ってきた。
     しかし。
     こんなにも途方に暮れる部下からの報告は、どう記憶を辿っても、初めてだった。






     翌朝出勤すると、青山が先に登庁していた。「おはよう。早いな」と軽く挨拶を交わし、デスクにつく。
     今追っている危険ドラッグの輸入経路をサイバー課と共に青山と今大路が割り出したのは、三日前のことだ。昨日はその、いわゆる脱法ドラッグを個人で購入していた人物から同じものを任意で押収することに成功して、既に由井の成分解析も済んでいる。
     そして、そのドラッグ取り扱いの関与が疑われる工場に泉が潜入することになっている今日、何か状況が動く前にと、青山は別件の仕事を進めているようだった。
     もし泉と大谷さんがこれから現地で何かを掴んで来れば、転がるように話が進むことが考えられる。手元にある情報のピースは今はまだ少ないが、何も無いところからでも打開策に続く道をこじ開ける大谷さんの手腕は十分に認識している。
     一発勝負の潜入捜査で、何かが見つかるにしても、もし見つからなかったとしても、次の捜査段階に進むだけの判断材料を二人が持ち帰る確率はかなり高いと踏んでいる。だから課の皆には、今日明日、明後日の最低三日間は、何かあった時にすぐに動けるようにしておいて欲しいと伝えてあった。
     この事件は、今日、泉と大谷さんが情報を持ち帰れば話が進む。泉と大谷さんが。泉と大谷さんが……。
     額に手を当てて、机に伏しそうになった顔を支えた。デスク越しに俺を見た青山は、俺の体調を気遣うように心配げだった。

    「関さん? 大丈夫ですか?」
    「いや、大丈夫だ。すまない」

     薄く息を吐いて、思い出してしまった動揺を落ち着かせて顔を上げた。
     昨晩、泉からの報告を受けて、経緯を把握するためいくつかやり取りをした。もともとどうにもならないからこんな状況に追い込まれているんだろう泉に今から別の場所を探せと無闇に指示することもできず、俺も絞り出したように『部屋には一人でか?』と確認のメッセージを送った。最初のLIMEでは、ラブホテルの〝部屋に〟二人で泊まるのか、〝ラブホテルに〟二人で泊まるのか、判断できなかったからだ。
     『大谷さんと一緒です』と平然と返ってきたメッセージは、彼女が無頓着であるというより、もうそうとしか答えることができない、身動き取れない様子を感じさせた。『部屋が空いていなかったのか』と追って問いかければ、『はい』と即座に表示された。泉の方も考える時間を作らないように、必死に平静を保とうとしていたのかも知れない。大谷さんと通話出来るかとも訊ねてみたが、既に眠ってしまっているように見えるので声をかけにくい、と。
     何かあったら連絡くれというのも、余計な意味に受け取らせてしまいそうだった。当たり前だが言葉以外の意味は含んでいないし何も無いことも大前提だが……俺は一分ほど熟考の末、『了解』とだけ返事したのだった。


     言いにくいからと言って黙って別の場所に移動し、何かトラブルがあったらこちらも対処できない。泉の報告自体に過不足は無く、確かに正しい連絡だった。だとしても『了解』と送ってそれで終わっていいことなのかは微妙なところだった。
     この手の話は俺一人ではどうにもならないなと、泉が、その、やましいことが無いからこそ連絡をしてきたという前提で、青山にだけは少し意見を求めることにする。

    「実は昨晩、泉から山梨到着後にトラブルがあって、大谷さんとラブホテルに移動すると連絡があったんだが」
    「はい?」
    「あ、いやトラブルと言っても事件に巻き込まれたといったことではないみたいだが」

     いや、青山が訊き返したのはそっちの話じゃない。もしそんな事態になっていようものなら、俺も今こんな風に落ち着いて椅子に座っていることはない。
     分かりきった前置きをしたのは、それ以外のことはたとえ予測外であっても大きな問題ではないと、自分に無意識に言い聞かせていたのかも知れない。

    「どういう状況ですかそれ……。泉から連絡が?」
    「ああ」
    「あいつ、また何か大谷にからかわれているんじゃ」
    「いや、そういうことでもないようなんだが」
    「偶然、行き場がなくなって、ラブホテル、ですか?」
    「そうだな」
    「はあ」

     青山は納得したようなしていないような、珍しく歯切れの悪い溜め息のような返事を溢した。
     青山も俺と心境は同じだろう。泉の実直過ぎる性格は間違いなく美徳だ。場に適切に対応もしている。他に手段があるなら元よりこんなことにはなっていないだろうし、咎める気持ちなど起こるはずもない。
     だが、不可抗力にしても、どうしてそうなるんだ、という感情は拭えなかった。

    「泉が仕事とプライベートを混同させるとは思っていないが、その、仕方がなくとはいえ同室での宿泊を選択するというのは何と言うか、意外、でね」
    「そうですね」
    「上司として承諾した以上、問題があってはいけないし、心配であることに違いもなくて」

     信頼はしているが、予想外の事柄や何かしらの危険というのは、種類を問わず信じるだけでは足りない場合もある。そのフォローために上司が存在していると言ったっていいくらいだ。俺が何か打つべき手を打たなかったことで、万が一にも泉に何かあってはいけないという思いは失って良いものではない。
     俺の内心が透けて見えたのか、青山が労うように言う。

    「関さん。泉は抜けてるところもありますけど、何だかんだこれまでも色んなピンチを上手いこと切り抜けていますし、そこまで無頓着でもないんじゃないかと思います。相手が相手でラブホテルという場もありますし、関さんの心配ももっともですが……いや、誰なら良くて、誰なら悪いという話でもないですが」
    「いや、そうだな。青山の言う通りだ」

     実際問題、昨晩は深夜まで連絡を取って疲労を溜めさせてしまってはいけないと、それなりのタイミングで切り上げて、俺も就寝した。
     メッセージのやり取りだけではあったが、泉から動揺自体は感じてもそれ以外に特別引っかかる部分はなかったからだ。
     一度は大丈夫だと思い、了解した。心配を不要なものだとは言わないが、振り返って悶々とするのも今更だ。考えるのは、これからのことで良い。そう、泉の潜入捜査。
     引っかかっていたものが青山に話したことで少し晴れたように思い、よし、と頷く。
     と、示し合わせたように勢い任せに部屋に入ってきたのは、必死の形相の由井だった。

    「関さん! 青山の言う通りです! 誰なら良いという話じゃありません!」

     由井がこういう時、狙ったように姿を現すことを失念していた。

    「孝太郎お前、どこから今の話を聞いてたんだ。エレベーター降りた瞬間から走ってきてないか」
    「違う。降りて3秒後に関さんが〝同室で宿泊を〟と話すのが聞こえたところからだ」
    「ほぼ同時だろ……。その都合の良い時だけ超人的に働く耳をどうにかしろ」
    「都合の良い時じゃない。泉が危険に晒されている時に限りだ」
    「いや、由井、危険があるわけではないんだが……」

     耳に入ってくる大谷さんの女性の評判や言動の印象は確かに注意が必要だと感じるが、それだけでは無いことは今までの仕事での関わりから理解している。そうでなければ、俺も今回の件を二人だけに任せることはしない。

    「いえ、どう考えても危険です! 寝ている間に髪の毛やよだれを採取されかねません! だから出張には俺に行かせてくださいと」
    「孝太郎お前、薄々思っていたがお前以外に誰もそんなことはしないって分かっていて言ってるだろ」
    「樹こそ確証がないものを〝問題が無い〟と判断するなどどうかしている。ラブホテルだぞ。採取し放題だ。釣り堀だ」
    「釣り堀じゃない。それから問題が無いとも言っていない」
    「皆さんおはようございます。玲さんがラブホテルに泊まっているんですか?」

     そう大声で話していたわけではないが、壁を挟んでいても由井の興奮気味の声は研ぎ澄まされた神経を持つ今大路の耳に届くには十分だったらしい。今大路とエレベーターで合流して一緒に歩いて来たらしい夏目も部屋に入るなり興味津々で話題に入る。

    「え、玲ちゃんがラブホテルですか? 誰と?」
    「いや、その……」

     ……すまない、泉。
     彼女の状況は、こうして課員全員の知るところとなった。






     詮索する彼らを就業時間と共に各々の業務に取り掛かるよう促して、今更ながらあまり話が大袈裟にならないように中断した。
     俺も、昨日由井が出してくれた成分鑑定の結果から今回のドラッグの構造を指定薬物として追加する方向に進められるよう、医療薬や他の薬物との照合など、申請に必要な書類作成に取り掛かる。
     泉が東京に戻ったあとの展開はスピード勝負になることが予想されるが、こうも急では他の課から人員を動員してもらうことは難しいだろう。
     ポイントは四点。本社の社長。社員男性。そして何かがあると見込まれる工場。それから、ドラッグを集めているアパート。
     もしそれら全てに気を配らなければならないとしたら、課員を総動員しても手が足りない。より重要な人物あるいは場所、一箇所、多くて二箇所に絞って手一杯だ。誰が欠けても動けない。
     だから全員、少なくとも今日を含めて三日間はそれぞれが持っている事件を一旦置いて、今回の件に集中するスケジュールを組んでいるわけだが、逆に言えば、ここで押さえなければ指定薬物追加による違法化までのおよそ一ヶ月、脱法行為との勝負は長期戦になるはずだ。

     その懸念がほぼ消えることになったのは、昼前に入った泉からの報告を聞いた時だった。簡潔に伝えられた〝潜入捜査の完了〟〝工場長の関与〟〝証言の録音〟〝現物押収〟の成果報告。何も出ないという最悪の事態も想定していたことが嘘のような収穫ぶりに、よくやってくれた、と課内が沸き立つ。

     午後、早めに登庁できそうだと泉から連絡があり、彼女の到着を待ち構えて全員でミーティングルームに集まった。最終的な判断は工場長が話したという全容を聞いてからになるが、この段階で考え得る限りの捜査方針を検討し、任務分担も手早く終わった。
     後は泉の帰りを待つだけだ。

    「……コーヒーでも飲むか?」

     余裕ができてしまった時間に一旦一息つこうと、コーヒーを淹れるために席を立つ。「やります」と青山、今大路がすぐに立ってくれたが、俺も何となく動きたくて、やんわりと断った。
     それでもついて来てくれた青山にトレーを渡し、コーヒーメーカーから会議室までの距離だけ運んでもらう。今大路は逆に邪魔になると思ったか会議室で待っていて、青山が持ってきたコーヒーを受け取り全員に回した。
     もう一度席に落ち着いて無言で一口飲んで、示し合わせたように、ふ、と全員、吐いた息が重なった。

    「あの、やっぱり、どう考えても」

     思い出し笑いをするように口を開いたのは夏目だった。

    「玲ちゃんがラブホテルって。慌てて飛び込んだと思うとかなり面白いですよね」
    「夏目、容赦無く蒸し返すな」
    「だって樹さん、気になりません? 連れ込まれた羽鳥さんの方が動揺してたりして」

     潜入捜査の報告から、泉が心身ともに無事そうだということが分かり、安堵の表れでもあるんだろう。既に笑い話にしつつある彼らを見て、逞しいとも思う。泉もそうであれば良いが。
     それに。いつもどこか俺達と距離を置いているようだった夏目が、こんな風に笑うようになったのはいつからだったか。
     同世代で感性が通じやすいこともあったのかも知れないし、単に俺達が、夏目が面白がれるほどに面白味のない男達の集まりだったのかも知れない。
     とにかく夏目が等身大の感情を外に出すようになった相手は、泉が最初だったように思う。
     デスクの隣同士で冗談を言い合ったり、笑いをこらえたりしているのはもう日常の光景だ。
     彼女がこの場所に居ない今も、こうして課の中に存在が残っている。
     夏目につられたように今大路も笑みを深めた。

    「少しだけ、いつも玲さんを心配している関さんの気持ちが分かったような気がします」
    「俺の?」

     突然、話題に俺が組み込まれて戸惑えば、青山も同意を示すように小さく頷いていた。

    「仕事上の感情と仲間としての感情は異なることもあるんだな、と」
    「ああ……そうか」

     俺が泉の宿泊先変更に、捜査スケジュールを変えずOKを出したにも拘らず、どうにも落ち着かないというか、腹が据わり切らないというか、居た堪れない心境を隠せずにいたことを言っているのだろう。

    「いつも渡部に言われるようにもし俺が本当に彼女の保護者だったら、むしろこんなことで気を揉むこともないんだけどね」
    「確かにそうかも知れませんね。家族にわざわざラブホテルに行くことを報告する機会はそうそう無いでしょうから」

     だとすれば、今俺達が彼女を気にかけているこの感情は、何だと言うんだろう。
     保護者ではないが、仕事を超えたもの。身内……仲間。
     正直なことを言うと、と夏目の表情が神妙に変わる。

    「玲ちゃんのことを面白がってはいますけど、普通に考えて出張先で放り出されて最悪野宿決定は地獄ですよね。俺一人なら帰って来たかも」
    「せめてホテルのロビーに泊まって来い」

     そうは言っても夏目も仕事を途中で放り出すことはしない。冗談だと分かっていながらストイックな青山は突っ込みを入れずにいられなかったようだった。夏目が、まあ玲ちゃんならロビーでも布団を借りられたらそれだけで大丈夫そう、と冗談で返す。

    「とにかく大前提として、今回は玲ちゃんでなければこの潜入方法にはならなかったわけですよね。羽鳥さんとタッグを組んで、速攻を仕掛けるとか」
    「そうだな。課の紅一点というのもあるが、振り返ってみると今までこんなにも彼女だから任せられる仕事を頼んできたんだなと思うよ」

     捜査企画課創設の頃からは考えられないようなことだ。探している薬効体質者がどこの誰かも分からなかったあの頃、その人物は、〝見つけて〟〝保護する〟ただそれだけの人物だった。なのに今は、様々な心配は拭えなくても、こんな風に一人の捜査官として、仕事を任せて……。
     一人一人それぞれの感慨に耽り、今大路が「早く無事に帰って来て欲しいですね」と、ぽつりと溢し、すぐに由井が反応した。

    「髪の毛一本までも無事でなければ困る」
    「はは……」

     でも今、そのために大谷さんが一緒に居てくれているとも思っているのだ。
     慎重な大谷さんのことだ。巧妙に手を回せる彼だからこそ、悪意から身を守る術も知っている。むしろ彼女の体質を思えば、昨日の状況で大谷さんから離れることの方が危険だったかも知れない。そんなことを俺が言っても由井はいつも通りに慎重で、「関さん。人が好過ぎます」と釘まで刺されてしまった。

    「ところでなんですけど、一つ訊いても良いですか?」
    「夏目? どうした?」

     今日は夏目がよく話す。泉の頑張りに触発されているのかとふと考えたが、熱心な様子でも面白がるでもなく、世間話の延長のように訊かれた夏目の実務的な質問に、俺は現実に引き戻されたような気がした。

    「この場合のラブホテルの宿泊費って、経費として落とせるものですか?」
    「え?」

     返事をする前に、オフィスのドアが開く。

    「ただいま戻りましたっ!」

     いつもよりも少し力の入った泉の声が響いて、収穫があったことに興奮しているのだろうかと会議室を出て彼女の無事の到着を迎えた。

    「泉、おかえり……どうしたんだ?」

     その日、予定よりも早い時間に課に到着した泉はホテル変更のトラブルはもう忘れてしまったように思い詰めた顔で、すぐに本題に入った。
     「まずはこちらを聴いて下さい」と彼女が再生した工場現地での録音内容を聴けば、確かに自白とも言える重要かつ挑戦的な証言が残されていた。
     ああ、これは思ったよりも根深い話だ、と、捜査が完了した後のことを考え、苦しさのような不快感が込み上げることは避けられなかった。
     俺達もすぐに対応に取り掛かり、他のことはそれどころではなくなってしまった。


     事件が完全に民事に移って、俺達としてはようやく全てのことが収束に向かった頃に、泉が体調を崩した。
     目の前で倒れた泉を見て俺も血の気の引く思いだったが、こういう時ほど冷静でいなければならないと焦りを外に追いやれたのは、誰よりも内面を人に悟らせない、あの大谷さんが動揺しているのを目の当たりにしたからだったかも知れない。
     平静を保てていない誰かを視界に入れた時にもう片方の人間が冷静になるのは、ひとつのコミュニティを総崩れさせないための人間の本能だろうか。

     そして彼女を病院に連れて行った先で泉と大谷さんの二人の様子を見て、泉が大谷さんに他者以上に気を許している理由も分かった気がしたのだった。
     俺の印象では、大谷さんは自分が所属する以外の、それこそ他のコミュニティに属する相手を威嚇しがちだ。相手を試す意図だったとしても、遊びでも、出方を探るにしても。距離を測るにしても。
     なのに、泉に関しては、大谷さんの方が彼女に気を許しているように見えた。
     ホテルで同室に泊まると聞いた時、戸惑いつつも大谷さんを疑わなかったのも本心だが、由井ではないが100%の確証を得られない以上は〝泉が傷つくことさえなければ〟とも考えていた。
     倒れた泉への、隠しきれない不安、いっそ怯えとも受け取れる大谷さんの目を見て、ああ、彼は彼女を傷つけなかったんだなと、その時ようやく心の底から確信した。
     だから、一人で動けなくなってしまった泉を誰に預ければ良いかを考えた時、大谷さんだ、と思ったのだ。
     たった二日間の欠勤の後、泉が顔色も、精神的にも回復して復帰した様子を見れば、俺の判断は間違いではなかったと思う。


     それからまた数週間。泉は以前に増して健康的で、活力に満ちているようだった。

    「玲ちゃん、ここ最近いつも以上に鼻息荒いですよね」
    「まだ体調が悪いようなら粘膜検査を」
    「どう見ても、気合が入り過ぎてるだけだろ」

     無理は禁物と経験した直後にこれではまた目が離せないなと心配に感じるのは、半分は冗談として。
     今の彼女は空元気でも不安を仕事で払拭しているのでもない。充実した時間を過ごしていて、一歩一歩前に進むために漲る推進力のようなものが感じられた。

    「この勢いだと僕たちの方へ『他にもやることはありませんか』と飛びかかられそうですね」

     泉の背後で、本人に聞かれていると分かっていながら井戸端会議のように喋っていた青山達についに黙っていられなくなり、泉が椅子を回転させながら彼らを見上げる。

    「そこまで闘牛化してはいないつもりですが……」
    「張り切り過ぎるとまた倒れるぞ」
    「いや、調子が良いのは本当のようだ。よく見ると肌ツヤも良い」

     由井が、今にも頬に触れんばかりに泉の顔を覗き込む。彼女の顔色は見ても、肌の状態までは気にしていなかった。由井の観察眼、さすがと言って良いものか。

    「え。肌ツヤ……?」
    「何か体の内部を好転させることでもあったか?」
    「いえっ!? とくにありません! 平常運転です!」
    「いや、明らかに血色が良い。あの時俺が助言した点滴が効いたか? なら引き続き俺の特性ドリンクを飲めばもっと」
    「大丈夫です! 飲みません!」

     微笑ましく彼らの会話の応酬を眺める。
     ふと、色々あって忘れたままになっていた、夏目から問いかけられたままで終わっていた質問の内容を思い出した。

    〝この場合のラブホテルの宿泊費って、経費として落とせるものですか?〟

     囮捜査が許されるなど特権が認められているマトリの性質上、後から後ろ指を指されるような行為はあってはならない。経費として精算するものは経理の方で厳密に捜査報告と照らし合わせて精査する。そこで何か問題がありそうな箇所が見つかった場合には、修正を依頼されることもある。
     捜査上、ラブホテル自体は張り込みなどで利用する場合もあるから、経費として認めること自体は可能だ。
     だが問題はその用途が明確かどうかで、領収書に利用人数など書かれるわけではないから、申請の匙加減は俺にあった。
     つまり、説明を求められた時に俺が『間違いなく経費です』と言い切れるかどうかだ。
     大丈夫だ。迷いが混じる余地はない。
     泉も領収書を提出する準備をしているはずだ。なぜなら、そうでなければ『私用で使いました』と言っているようなものだから。

    「泉。今回の潜入捜査の経費、そろそろまとめておいてくれるか。宿泊費も」
    「しゅ、宿泊費ですね! もちろんです! 請求させて頂きます!」
    「うん?」

     ラブホテルの一件は、もはや課内で周知の事実になっていることは、泉も知っている。なのに随分と慌てる泉の勢いに違和感を覚えて、内心首を傾げる。
     青山は呆れ顔で、目を泳がせる泉をフォローした。そう、青山は泉を、フォローしようとしたのだ。

    「あのな……変に反応し過ぎると逆に何かあったんじゃないかって怪しく見えるぞ。さっきから挙動不審だし、今は輪を掛けて」
    「いえ滅相もございません! 全く何もありません! 羽鳥さんとはまだそのような関係ではなく!」
    「……まだ?」
    「え」
    「え?」




    fin.



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