『バッドエンドは投げ捨てた10』【ヒロインが過労で倒れる】
社長の思い描いたドラッグ事業構想が文字通り転落に向かったのは、工場、アパート、会社、主要人物の家宅捜索が終わって、危険薬物の廃棄手続きも済み、マトリとしてはようやく一段落かと思った、そんな時だった。
その頃には私はもう『なんかこの会社恐いので』という適当な理由でアルバイトも辞めていて、捜査に関連しない部分で社内がどうなったのかは、同じくシステム協力から手を引いてRevelとして外から情報を得ていた羽鳥さんから耳にするばかりでいた。
ワンマンとはいえ一応企業の体は成していた会社では役員会が開かれて、満場一致により社長は代表取締役を解任。工場長は解雇となった。
それに追い討ちをかけたのが、
『ボンボンエリート社長の脱法ドラッグ転落人生』
そんな安易な見出しと共に週刊誌に掲載された、ゴシップ記事だった。
面白半分か、はたまた私怨か。明らかに工場内部の人間による情報提供と分かる、裏事業の発端から社員の逮捕、社長解任までの一連の経緯が、〝危うく違法事業に巻き込まれかけたある意味における被害者〟の目線から、かなり事実に近いかたちで赤裸々に書かれていたのだった。
実名は避けられていても、企業名を特定することなんて簡単なことだ。
ネットではそれが事実だと見た人が信じ込むには十分な憶測が飛び交って、噂を発端にして会社の本事業であった健康食品、サプリメント事業の売上は暴落した。
彼らは事前投資と思っていたようだけれど、やっていることは横領に他ならない危険ドラッグの仕入れ費用全額は、当たり前だけれど元社長個人と、関わった人達全員に返済が求められている。
その上社名に深刻な傷をつけたとして、会社側が元社長や元工場長らを提訴する話が上がって、その結果、元社長は自分が興し、そしてこの先も大きくしていく展望だったはずの自社の辞職を余儀なくされた。
羽鳥さんによれば一連のことについて、界隈では記事の公開前からもう『関連業界では皆、何があったかだいたい知ってるよ。同窓会から漏れてるしね』とのことだった。
実業家や政治家を多く輩出している羽鳥さんの出身校の同窓会は、誰と繋がりを持てばメリットがあるか、誰と繋がるとリスクがあるかについて、特に敏感に察知する性質の人が多いという。
だから、たとえ昔馴染みであっても一度信頼を失った相手に好んで手を差し伸べる人はそうそう居なくて、もし居たとしても今より一層怪しげな勧誘だけだろうというのが、羽鳥さんの見解だった。
事業を成功させていた時のような収入は元社長にはもう無いし、裁判が始まれば財産も減る一方。
元社長は住んでいたタワマンをひっそりと誰にも告げずに引き払って、高級車も売ったらしいというのは、周知の事実とのこと。
世の中には見事に上手く物事が転がることもあるけれど、反対にこんなにも簡単に崩壊してしまうことがあるのだと思い知らされるばかりだった。
関さんは会社や社長自宅にあった危険ドラッグの回収後、『彼等がもし自暴自棄になってまた薬物に手を出したり、お金のために密売に加担したりしたら、それこそ俺達がしたことの意味がなくなってしまうから』と、羽鳥さんから入る情報を耳にして、タイミングを見計らって元社長や元工場長らに連絡を取ったようだった。
彼らがしたことはいっさい肯定できるものではないとしても、同時に薬物の世界から抜け出すサポートも、私達厚生労働省の管轄なのだと、関さんは次の犯罪を起こさせないフォローにも余念はなかった。
そうやって転落の一部始終を目の当たりにして、あの捜査方針決定の時、大規模な危険ドラッグの摘発が初めてだった私を関さんがなぜ気遣ったのか、ようやく理解出来たような気がした。
薬物によって社会の信頼を失うこと自体は、これまでの捜査でも何度も目の当たりにしてきた。
でも、その多くはシロかクロか……違法かどうかでさばける問題や、既に流通してしまっている危険ドラッグを差し止めて終わりだったから、辛い現場を目にしてもどこか、自分の頭では考えなくていい気持ちの逃げ場があったのだ。
だから、ショックを受けずにいられなかった。
脱法ドラッグという定義の曖昧な薬物を取り扱うことの意味。
使用者がシロだと主張しているものを、捜査を進めることでクロに変えること。
その過程で捜査官が選ぶ手段によって、法的に無罪である人間の人生を狂わせる覚悟を決めること。
その決断を、とても身近な〝誰か〟が背負っていること。
「自業自得だよね?」
「見事に割り切ってますね……」
捜査協力をしてくれた相手への礼儀として、ことの顛末をできる限り伝えるため、羽鳥さんに庁舎に立ち寄ってもらった。
けれど今回のドラッグ押収後について、今となってはマトリの方が余程羽鳥さんから情報をもらっている立場なので、報告できることはそう多くはなかった。
捜査企画課の応接室で羽鳥さんと二人。
本当はこの場で改めて協力報酬の話もするはずだったのだけれど、羽鳥さんは先ほどまで同席していた関さんを前に『捜査協力は初めから俺の方のメリットを提示し合意の上でしたので』と、追加の交渉を断った。
こちらへの協力のせいで羽鳥さんに対し恨みが向くかも知れない危険に晒してしまったことについては、『結果的にそうなっていないので問題ありません』とのことで話は終わってしまった。
関さんがお礼と共に退席し、それを締め括りに羽鳥さんとの協力関係は解消となったのだった。
せっかく来てくれたのにすぐに帰ってもらうのも何だかということで、その後は世間話のような空気になって、『正直、このような捜査が初めてだったので、少し……学ぶことが多すぎて頭がパンクしそうです』とつい吐露してしまった私に、羽鳥さんが言った言葉が、コレだった。
「自己責任の範囲内だよね」
「そうですね……」
「色々と豪語していた工場長の方も最初からそういう態度だったし。それに、こういう結果を想定しないで裏事業に手を出そうとしていたなら、最初から経営者の素質も無いっていうことだよね」
「それはそうなんですけど」
「むしろ加害者も被害者も作ることなく場を収められて、マトリとしてはかなり成功した部類に入るんじゃない?」
「それも全く仰る通りで」
「ちゃんと民事方面の責任も背負うことになりそうだしね。かなりの内容で」
「はい……あ、そういえば羽鳥さん、その、今仰られたこちらの手の届かない民事方面に関連して、羽鳥さんに一応の確認なのですが」
「うん?」
「雑誌記事、情報を提供したのって……」
「俺じゃないよ。そんなことをしても、それこそ俺にはメリットはないし」
「そう、ですか」
羽鳥さんはもともと犯罪要素を孕んだ組織に対して容赦がない人なのだというのは、出会ったばかりの頃のこととはいえ強烈に記憶に残っている。
今回の捜査後、あまりにスムーズなタイミング、かつほとんど嘘が含まれない事実が掲載された週刊誌の内容に、羽鳥さんがかつて反社会的組織の組同士を玩具のようにして抗争を煽るなんていう、とんでもない遊びをしていたことがふと蘇って、まさか、と思ってしまったのだ。
今はもうしていないと言う羽鳥さんの言葉を嘘だとは思っていないけれど、山梨で工場長との別れ際に見せた、どこか挑発的だった態度の正体を、これは羽鳥さんの敵意だ、と何故かそう感じてしまった。
要らない心配をしてしまったことが失礼だったなと思いながら、すぐさま否定されたことに安心もした。出会った頃のような、周囲の民間人の安全を人任せにするような、危うい羽鳥さんじゃないのだと思えたことは、やっぱり嬉しかった。
「まあ、現地に俺が居たことが外部に漏れないように、口止めはしたけどね。それ以外は止める義理もなかったから」
「……」
いや、やっぱり羽鳥さんは羽鳥さんか……。
もちろん羽鳥さんを責めるような筋合いも理由も、私には無い。
この口止めのお陰で、マトリとしては捜査に巻き込んでしまった、羽鳥さんとしては自分の意志で事件に踏み込んでしまったその危険から身を守ったことになるのだから。
それに、羽鳥さんが関わっていてもいなくても、転落に進むきっかけを作ったのは、確かにあの社長や工場長自身だったことにも間違いはない。
「分かりました」
情報というものが持つ諸刃の力を彼らはこうして使い分けるのだと、改めてこの目で見たような気がした。
「それでは、今回の件は以上ということになります。ご協力、本当にありがとうございました」
頷いて立ち上がった羽鳥さんに合わせて私も立ち上がる。そのまま退室のために会議室のドアを開けた私の手を心配げに見た羽鳥さんは、扉近くまでやってきて、足を止めた。
「玲ちゃん。実は今日、ここに来てからずっと気になっていたんだけど」
「なんでしょう?」
「玲ちゃん、ちゃんと寝てる?」
「え?」
今回の件は捜査中も後処理も、大規模な覚醒剤取引だとか薬物乱用現場の摘発だとかの事件に比べたら、生活時間に余裕はあった。
けれど、確かにそれが逆に余計なことを考える時間を作ってしまっていて、元社長に対する関さんのあの事情聴取の内容がふとした瞬間に蘇って、度々頭を占領することが続いていた。
もうこんな事件が起きないように、関さんが一人であんな風に言葉を詰まらせなくて良いように、捜査官として自分に何ができるのか。
膨大な危険ドラッグをどうやったら減らせるかだとか、薬物構造の包括的指定をどう広げたら捜査が行いやすくなるかだとか、薬学書を眺めているだけで眠気が飛んでしまう日々が確かに続いていた。
薬物依存からの更生だけじゃない、関連する事件、加害者、被害者、今回のように、被疑者にもならずに通り過ぎたような人の、その後の人生。再犯防止。
家でもそんな資料を眺めていると、どうしたって考え過ぎてしまう。
「寝て……ますね、桧山さんより」
「よりによって一番参考にならない返事を持ってきた」
少し開けたまま、私がノブを握りしめたままにしていたドアを羽鳥さんが一旦閉めて、なんだろう? と呆然と見上げた私の目元を確かめるように親指で触れて、優しくなぞった。
多分、そこに浮き出ていたのだろう、目の下のクマを。
「玲ちゃん」
「はい?」
「逃げないの」
「? そういえばそうですね」
「玲ちゃん」
「はい」
「熱、あるね」
「? 生きているようで良かったです」
「そうじゃなくて」
「知恵熱……?」
「じゃなくて」
重症だなと呟いた羽鳥さんは「玲ちゃん、この後の仕事は?」と言いながら今度は自分で扉を開けて、エスコートするように捜査企画課のオフィスに私を促す。
「今日はそろそろ上がりますけど、まだ少し」
「じゃあ下で待ってるから」
「え!? 待ってるって、送ってくれるとかそういう話ですか? それとも、そうと思わせて本当に待っているだけの話……?」
「さすがに違うって分かるよね? 家まで送るよ」
「いえ、それはお願いできません。まだ少しと言っても、それなりのまだ少しですし」
「無理は禁物だよ」
「無理はしていません、いつもよりちょっと考え事が多いだけで……今は仕事も落ちついていますし……」
捜査企画課のデスクの間を進む羽鳥さんは、何やら関さんや青山さんに目配せをして、溜息混じりに「頑固」と独り言のように言った。
「玲ちゃん。とにかく下で……え?」
「え?」
会議室から出て、何歩歩いたのかも定かじゃない。
羽鳥さんらしくない大きな声で、名前を呼ばれたような気がする。
ガタガタと机とか椅子だとかの音がして、羽鳥さんの驚いた顔を見たのを最後に視界が白くなる。
起きたいのに起きられない夢の中にいる時のような感覚で、力が入らない体がふわりと浮いたのが場違いに心地よかった。
(あ、れ)
頬をくすぐるちょっとクセのある長い髪の毛が、羽鳥さんのものだということは目を開けられなくても香りで分かった。
山梨行きの特急列車で肩が触れるような近くに居た時。ホテルで手をつかまれた時。タクシーの狭い空間で静かに隣に座っていた時に感じた匂い。
会社で過ごした数日間はあんなにも近くにずっと羽鳥さんがいたのだなと思い出す。
ふわふわ浮いたまま、その髪に手を伸ばしたくても一ミリも腕を上げることができなくて、そして覚えているのは、そこまでだった。