Pinky 「そうすると、大学出てから数年は実家に帰っていないのか。親不孝じゃないか、ラーハルト」
「顔は見せてる。別に親と問題がある訳じゃない」
ラーハルトはダイエットコーラを飲み干そうとして、少しむせた。
「だったらなぜ?」ヒュンケルが小首を傾げる。
「なんだろうな。なんとなく。田舎だし。こっちの空気があってるんだ」
お前にも出会えたし、と、心の中だけで呟く。
ヒュンケルと恋仲になってもう数年。暗雲立ち込めていた人生が晴れ上がり、頭痛が消え、仕事も順調になってきた。彼と話しているだけで、全てが巧く行く気がするのだ。
しかし、そんな愛の言葉は隠してほくそ笑む。ヒュンケルを付け上がらせるわけにはいかない。
「それ、」
と、突然ヒュンケルがラーハルトの左手を指さす。
「ずっと気になっていたんだが」
ああ、とラーハルトが手をかざして見せる。
小指の先が少し欠けていて、爪が無い。
「こういうこともあったしな。子供の頃だ。罠にかかった小さな獣を助けようとして、挟まれた。もうその獣は死んでいたんだが――何故だか、どうしても、解放してやりたくて」
ふうん、と、ヒュンケルが何もない指先をしげしげと見つめる。そしていきなり、
「今、どこにある?」と言った。
「?」
「小指さ」
ラーハルトは腕組みして天を仰いだ。どうも、オフィス街のど真ん中のフードコートでする話ではない様な気がするが。
「そうだな。慌てた親がジップロックに入れてどうにかしたような記憶があるんだが、定かではない」
「違う」
ヒュンケルが憮然と言い返す。
「は?」
「台詞が違う。そこは、『ねえ、そんなこと聞いたの、あなたが初めてよ』だろう」
「意味が分からん」
「『風の歌を聴け』を読んだことないのか」
ラーハルトは数秒考えて、溜息をついた。
「突然ムラカミを引用するな」
「小指って言ったらやっぱりあれだろう」
「そういえばそんなシーンがあった気もするが」
「体が欠けてるって、不思議な気分だろうな」
「そうでもない」と、ラーハルトはサンドイッチの残りを頬張った。
「慣れてしまえば、日常だ」
「俺も、結構大きなものを失くしたけど、確かに慣れたな」
と、ヒュンケルがしみじみと言う。
「何を?」
彼はそれには答えず、
「お前の小指は今頃、別の世界でのんびり散歩しているんだろうな」
と、やたら真面目に言った。
「勝手に異世界に飛ばすな。多分、実家の庭に埋まってるか、医者が処分したんだろう」
そう返しつつ、ぴょこぴょこ跳ねて去っていく自分の小指の事を考えて、ちょっと変な気持ちになった。
「それはそうと、探しに行かないか」ヒュンケルが身を乗り出す。
「何を」
「指」
「だから、どこに行ったか分からんと言ってるだろう」
「行こう」銀髪の奥に、有無を言わさぬ微笑み。
「お前が小指を失った場所に。地元、見てみたいし」
ふむ。と、ラーハルトも宙を見る。確かに……こいつを両親に紹介しておくのも、良いかもしれない。
「悪くないかもな。次の休暇、考えておこう」腕時計を見る。「もう時間だ。俺は戻る」
「ああ、それじゃまた明日」
ラーハルトは一人分のトレイを片付けると、おざなりに手を振ってフードコートを後にした。
空っぽのテーブルで、ヒュンケルはひとり、ぼおっと彼の背中を見送っている。
――いつもこの場所で、ターキーのサンドイッチと、ダイエットコーラ。
食べるのはラーハルトだけ。
虚空に向かって話していても、混みあったフードコートではイヤフォンごしに通話しているくらいにしか見えない。
だから、この場所を選んだのだ。
ヒュンケルは物思いにふける様に、頬杖をつく。
『あの』場所に戻ったら、彼はきっと、思い出すだろう。
全部、気づいてしまうだろう。
でも、いつかは、気づかなきゃいけないんだ。
少しの間でいいから、一緒に生きてみたかった。恩返しがしたかった。
でも俺もいつかは、いるべき所へと、戻らなきゃならないんだから。
――助けてくれて、ありがとう。
そう呟いて、何か小さいものを握った左手を、そっと開いた。