The Point of No Return 回帰不能点〜ダイ酒場兼宿屋は夜になってもざわめきが消えない。
人里離れたデルムリン島育ちのダイが人の気配の濃厚さに気疲れしているのを悟ったポップはダイに先に風呂へ入れと促した。
カラスの行水ですぐ部屋に戻ったダイと入れ替わりにポップが一階の風呂に行くと、ダイは寝る前の準備として二人の荷物をすぐ持ち出せるようにそれぞれのベット上の足元に置いた。
それは二人がデルムリン島から冒険の旅にでたときからの習慣だった。
不思議なことに魔王軍に夜襲をかけられたことはほとんどないが、野生動物や凶暴化したモンスターに襲われたことは何度もある。
ダイが相手を剣で切り払えば返り血で服や荷物が汚れるし、ポップがうっかり最近出力が上がり続けているメラを放とうものなら山火事になりかねない。
ポップのヒャドで軽く牽制して相手が逃げれば良し、そうでなければ体力の消耗と後始末の手間を秤にかけると結局は三十六計逃げるに如かず、なので無意識でも持ち出せるよう荷物は決められた側に置くのが鉄則になった。
いつだったか、俺たち魔王軍からは逃げないのにそれよりずっと弱いモンスターからは逃げるよな、とポップが笑ったことがある。
それに対してあいつらは魔王の邪気の影響で凶暴化してるだけだからあんまり傷つけたくないんだ、と俯くダイの頭を撫で俺だってできれば罪も無い相手を苦しめたくねぇからな、こういうのは戦略的撤退って言うんだぜ。怖いから逃げた訳じゃねえよ、とも。
夜が更けるにつれ流石に酒場の喧騒も静まっていき、風呂から戻るポップの足音が近づくのをダイの敏い耳が捉えた。
それだけで全身から湧き立つ気持ちがベットにも振動として伝わったのか、ポップの荷物が入った雑嚢が転がり落ちる。
いけない、と床から引っ張り上げると袋の口から小さな物が飛び出した。
ん?本? ダイが首を傾げながらそれを拾ったのと控えめなノックと共にポップが入室するのはほぼ同時だった。
風呂上がったぜー。どうした教本を読む気になったのか?珍しいじゃねぇか、とポップがダイの手元を覗き込む。
ダイはてへへと笑いながらゴメンよ、ポップの荷物を落としちゃったと謝った。
壊れ物も入って無いし、俺が袋の口を綴じるのが緩かったんだろ気にするなとポップも応える。
お前も魔法に本腰をいれる気になったのかと思ったのにとポップが笑うと、マトリフさんが魔法ならポップが勝手に強くなるから心配するなって言ってたじゃないかと口を尖らす。
そりゃあそうだけど、お前は紋章が発動すれば強力な魔法も使えるんだから普段からできりゃあ戦闘の幅が広がるだろ、勿体ねぇと言いながら濡れた髪をタオルで拭いている。
だって字が良く読めないんだもん、と小声になるダイに、なら魔法契約の魔法陣の所を読んでみたらどうだ?とポップは勧めた。
マホージン?とまた小首を傾げるダイに、ほらこの本の後ろ半分位の所に図が載ってるだろ、これが魔法陣だ。ブラス爺さんがお前に魔法を契約させた時に描いたのもあるはずだぞと本を開いて見せた。
魔法陣と呪文と詠唱文言が一緒に書いてあるから分かりやすいだろ。たとえばギラだとここだ。
俺が詠唱すると発動しちまうからお前読めるとこだけ読めよ、とポップが指で示した所をダイはたどたどしく詠み上げる。
古き、……めいやく、だ。盟約によりて、われ炎の……せいれい。精霊に命ず。……やみ。闇より来たりしものを……じごく。地獄の……ごうか。業火で焼きつくせ。ギラ!
ほら読めただろとニコニコするポップにダイはこんな難しい文句を覚えてられないとしょげた。
最初の内だけだよ、慣れれば呪文だけで発動するさ、とまで言った所でポップはハタと気づく。
お前今までの魔法、全部詠唱無しだったのか? 呆れ顔でダイのおデコを指でつつく。
ブラス爺さんは魔法使いを目指せと言ってたんだろ、詠唱込みで教えただろうに最初から呪文だけじゃまともに発動しねぇのは当たり前だとポップは眉根に皺を寄せた。
ほら、今までに紋章無しで使えた呪文を探して詠唱を暗記してみろよ。きっと威力が強くなるはずだと、ダイの肩越しにページをめくると本から革表紙がはずれて床に落ちた。
あぁ俺が拾うよ、とダイが表紙を摘まむと折り返しの裏に貼りつけた紙片を見つけた。
これ元はアバン先生の本だよね、こんなのついてたって知ってた?と聞きつつダイは紙片に綴られた文言を《見る》と身体を硬直させた。
呪文と詠唱文言のみで魔法陣が描いてないモノ。難しい言葉が一杯で綴りは読めないのに文言を見ただけで冷や汗がダイの背中をつたう。
どうした?とポップがダイの肩に触れるとビクッと身体が跳ねた。
何でもないよと言いつつダイはこっそり紙片を小さく折りたたみ床板の隙間に押し込もうとした。
「ダイ、動くな!」
ポップが戦いの時だけにする発声で命令されるとダイは反射的に従ってしまう。
だってポップはダイの魔法使いで俺たちの司令塔だから。
パーティの魔法使い、戦略家として高みから彼我の戦力を図り、我らの能力を最大に引き出すことで圧倒的有利な魔王軍を屠り、勝利に導くその声には自己保身無く闘う駒として冷徹な響きのみ。
故に彼の人生の長さよりも永く修羅に身を浸してきたヒュンケルやクロコダインも滅多に否を唱えない。
勇者といえど《この声》にダイは抗う術は無いはずだった。
嫌、だ。
喉の奥から絞りだした反論はか弱く、感情のみでいっそ憐れだった。
幼い反抗心に対してポップの口調は和らげたが容赦はしない。
ダイ。その本はアバン先生の形見だ。弟子から弟子へそのままの姿で受け継ぐ物だ。
俺は暗記したからお前に渡してもいいが、一文字、一頁も勝手に変えて良いものじゃないんだ、と。
床に座ったまま折りたたんだ紙片を戦闘時にドラゴンの紋章が浮かぶ右手に握りしめ更に胸に抱えこむ。
溜息をついたポップが湯冷めするぞ、とダイを抱え上げベットに座らせた。
そして吐息がかかる程近く座りダイを説得するため言葉を、魔法使いの最大の武器を紡ぎはじめた。
ダイの右拳を両手で包み、指を一本づつ羽毛で触れるほどに柔くなぞっていく。
手に隠した紙に書いてあるのは何の呪文か解ったのか?と聞けばダイはむずかるようにただ頭を振った。
じゃあ俺から言ってやる。それはメガンテの詠唱文言だ。
ダイは頑なに応えない。
アバン先生が、普通の呪文と一緒に書いてあると障りがありますから大抵の教本で別紙にして準備が整ったら読ませるようにしてあるんです、と言ったと明かすとダイは何の準備だよと呻いた。
それは人間には必要じゃない《魔法》をよすがに生きていく準備だよ。
囁きが耳朶を掠めるとダイの握りしめた右拳から僅かに力が緩む。
ポップはゆるゆると小指を擽って開いた隙間に指を差し込み掌の端を小指にしていたように撫でていく。
今まで月明かりに照らされていたポップの姿が、月が厚い雲に覆われたことによって間近にいるのに暗闇に消えた。
マトリフ師匠が言ってたよ。師匠の兄弟弟子の何割かは最初の魔法契約をした所で脱落したんだって。何故だと想う?
これは自分が思っていたモノじゃないと契約したことで理解したんだろうよ。
《魔法》はな、普通に生きる上で必要じゃないんだ。空を飛ぶ鳥に水底を歩け、水に泳ぐ魚に砂漠を走れと無理強いする物だ。
本質的に魔法は人間には必要じゃない。メラが無くても火を扱えるし、ヒャドも工夫次第で氷を保存して使うことができる。
魔法が使えないヒュンケルがあれだけ強いのは本人の努力と戦士としての天賦の才能のお陰だろう。攻撃呪文を使わなくても高みに至る道は幾らでもある。
ホイミやベホマがあれば有り難いが、薬草や医師の手当てがあれば怪我や病気を時間をかけて治すこともできる。
お前は竜の騎士だからあらゆる魔法を使えるように生まれついてるし、俺も魔法使いの適性を持って生まれて、偶々自分から魔法使いに成りたいと修行したからなれたんだ。
別に俺は選ばれた存在なんだ、って偉ぶってる訳じゃない。
心からじゃ無くても結局親父の跡を継ぎたいと思う息子の方が世間一般じゃ多いと思うぜ。
もし俺がそんなタイプなら最初から魔法になんか興味を持たないんだから、どれだけ適性があっても意味は無い。
でも俺はアバン先生に出会って村の外にも世界があると実感して、魔法っていう力に魅せられたんだ。
その時は魔王軍との戦いに巻き込まれるなんて想像もつかなかったけど、魔法使いになった事は後悔してない。
俺は魔法無しではもう生きられないんだ。どんなデメリットがあってもな。
ダイの耳元を吐息が擽る。
薬指が解けて掌に挿し込まれたポップの二本の指が螺旋を描いた。
ダイ、お前はブラスさんに幾つも魔法契約させられたんだってな。最初の契約とその次からとは何か違わなかったか?
俺は最初の魔法契約を、メラの契約をしたあと目眩がしてその場にぶっ倒れたよ。
アバン先生がスゲェ慌てて介抱してくれたけど、二回目からは興奮して心臓がバクバクするだけで倒れはしなかった。
それがさっきの師匠の兄弟弟子が辞めた理由の一つだ。魔法耐性の問題さ。
魔法タイセイ? ダイはまた分からない言葉に小首を傾げる。
言っただろ。人間には魔法なんて本当は必要ないんだ。言ってみれば毒なんだよ。
その毒にどれだけ耐えられるか、使ってみなけりゃ分からない。
どんなに魔法を使いたいと思っても初級魔法で心と身体が悲鳴をあげる人もいるし、そこを耐えてじっくり時間をかけて経験値を積んでだんだん上級魔法を身につけていくのが殆どの人だ。
じゃあポップは?ダイは記憶を辿る。
デルムリン島で遭った時でもメラゾーマを撃てて、爺ちゃんがあんな若い少年が強力な魔法を使えるなんてって驚いてたのに、マトリフさんに教わるようになってから色んな魔法をポップが覚えてくれて戦いが、探すことが、ルーラであっという間に望みの所に行けるのが当たり前になって忘れてた。
マトリフさんは言ってたっけ。もし他の魔法使いと組む時があったら遠慮なく使える魔法とレベルを聞いてからにしろって。ポップと同レベルで「使える」魔法使いは世界に何人もいないんだからと。
そんな毒みたいなモノを、世界に何人かしか使えないレベルの魔法を、魔法力の続く限り俺の為に使ってるの?
魔王軍との戦いがある度に新しい魔法を使ったり、敵味方とも度肝を抜く戦法の為に後衛職なのに敵の真ん前に飛び込んでいくのは普通じゃないんだ。
自分の考えに耽って沈黙したダイに、ポップが続けていく。
魔法の契約は可能な限り潔斎し、正確な魔法陣を描き、正しい詠唱で精霊にこの魔法を使用する許可を下さいと乞い願うものだ。
つまり一回の契約で精霊に許可を得られる魔法は一つのみのはず。だがメガンテだけは違う。
メガンテの契約を俺はしていない。
僧侶でなければ、わざわざメガンテの契約をするメリットがあるか?
契約して無いのに呪文を使えたの?
ダイは呆然とポップの声がする闇に眼を向けると、まだ月は出ていないのに目が慣れたのかポップの輪郭が淡く光った。
ダイの中指の内側をポップが何度もなぞっていく。少しずつ、甘やかされ誑かされ体温を同じくされていく。
精霊と契約をすれば呪文を唱えるだけで超常の力を揮えるなんて都合のいい話は無いとは思わないか?
俺はあの呪文を使った時に解ったんだ。メガンテは一つでも魔法を契約した者全てにかけられた呪いだ。
その呪いは心臓に棘のように刺さっていて、メガンテの術式が発動すると共に魔法を使った代償として命を抜き取られるのさ。
とうとう月光が戻りポップの姿が浮かび上がる。琥珀色の瞳に満月が射し金色の焰が揺らめいた。
既にダイの人差し指はポップの親指、人差し指、中指で爪先から根元の水掻きまで慈しまれている。
ポップは更に揺さぶりをかける。
言葉に依って得た力は、言葉に依って奪われ回収されるんだ。
一体何処へ?との問いに即座に、
力の源、精霊界へ。とポップは返した。
話が難しすぎてついていけず、ダイは目を見張るだけだった。
お前は、強い。強いから相手に手を差しのべることができる、とポップは無垢な瞳から黄金の焔で炙りだす。
人間は無力なんだ。魔族より、モンスターより、野生の獣より、暴力で奪い支配しようとする禽獣以下のニンゲンより。
自分にどうすることもできないほど力の差がある相手から、愛する者の命を守ろうとするヒトから最後の武器を奪う権利は誰にもねぇはずだ。
とうとう親指も開かれ紙片を取り上げられてもダイは抵抗しなかった。
ただ大きな瞳から涙が溢れて頬を濡らす。
ポップは頬を伝う涙に舌を這わせ、目尻に溜まる度に涙を優しく吸いとる。
「We are past the point of no return」
ポップが古く遠い世界の言葉でダイに宣告した。
俺は、俺たちはもう戻れない。
魔法を知る前には。
勇者とその魔法使いになる前の、少年たちとして出遭う前には。
俺たちは橋を渡りきってしまった。
そして今、その橋をポップの金色の焰が焼き尽くしていくのを二人で見とどける。
俺はお前の為なら何度でもメガンテを仕掛けるよ。
眼を見張り嫌だと言うダイの首に両手を巻きつけ口づけを深くする。
じゃあどの時点ならこの甘い地獄を回避できたんだろうか。ポツリとポップが自問する。
ダイ、俺と出遭ったことを後悔しているか?
後悔なんかしない。できないよ。
もしこのままポップがいない世界に行けば戦わなくていいよといわれても、ポップの心臓の音を、肌の匂いを、焼けつくような魔法力の残滓を置いてなんかいけない。
二人は後悔と未練すら置き去りにして戻ることができない世界に足を踏みいれた。