電車に乗り、空いている座席を見つけ周囲を「誰も座らないよね?」と見渡してから、そうっと座った。休日とはいえ帰宅ラッシュの夕方の電車はほどよく混んでおり、座席は埋まりつつあり立つ乗客の姿も見える。座ったと同時に、スマホを取り出した。これはもう、条件反射のようなもので、顔認証のスマホロックを外すとすぐにSNSフォルダに触れる。その中にある、紫だか赤だかよく分からないアイコンをタップするとインスタグラムが開かれ、適当に画面をスライドさせて投稿を見る。アカウントに鍵をかけた友人の一人が花屋に併設されたカフェに行った写真を載せており、次は彼氏と出かけた友人が浜辺で両手を空に向けていた。恋人と思しき男の手がぬっと画面の至近距離でピースサインを作るのが、実にわざとらしい。いいなあ、みんな充実しているな、と適当に「いいね」を付けながら見て回った。
では、私はどうなのか、というと先週彼氏と別れた。交際前は好印象だった点も付き合ってみると「なんか痛くない?」と思うことが増え、惰性で繰り返したデートの一つで別れを切り出したのは私の方だ。なんだかなあ、とインスタグラムを見続けながら、電車に揺られる。ガタン、と大きな音を出し、車両は小さな川を渡す橋に差し掛かった。
隣に座る男性が「夕食って」と話し出す。先ほどまでずっと黙っていたので、突然の声に聴覚が反応し、スマホを見ながらも耳はその男性に向いていた。「どうしますか、買って帰る? 作る?」
「あー、疲れたから適当に買って帰ろうぜ。酒も」
「いいですね。チャミスルが飲みたい。チヂミって売ってるかな」
「この前さ、コーンチーズチヂミが売ってた。ミルクソースで食べるらしい。スイーツなのかおかずなのか」
座る男性は黒髪で、どうやら前方の吊り輪を掴んでいるもう一人の男性と話している。顔を動かさず横目でちらちらと確認するところによると、表情は整ってすっきりとし、相当格好がいい。落ち着いた声色も高得点! と私は嬉しくなる。
その、甘いチヂミは最近の流行りだ。丁度手元のインスタグラムでも甘い韓国食が表れ、それは甘いチーズハットグなのだが「これです、これこれ。それ美味しいから食べた方がいいですよ」と言い出したくもなる。が、私は未成年なので酒が飲めない。つまり、コーンチーズチヂミがチャミスルと合うかどうかは定かではない。
恐らく二人で出かけたのであろう男性たちは、このあと夕飯も一緒なのか。仲がいいなあと思いつつ、ちらりと前を見ると立っている男の人は金色の髪をした外国人だった。え、と驚きたくなるほど端正な顔立ちで、思えば何かのいい匂いが彼からはしていた。
しばらくは、彼らのとりとめのない会話が続く。書き出すほど大したことはなく、「あの教授の講義は眠たくなる」だとか「カラオケの一曲目の最適な選曲をここで決めよう」だとか、有意義とも言えなくもないものを聞きながらスマホを弄っていると、一瞬会話が止まった。
あれ、と私は手元を止めて彼らを伺う。すると、金髪の男が手をちょいちょい、と黒髪の男に向けた。「こっちを見て」のジェスチャーに思える。次に、声を出さず口をゆっくりと動かす。リップシンクだ。
「あ」
あ?
「い し て る」
あ、いしてる。愛してる。え? と私はぽかんとした表情で、隠すこともなく彼らを見ていたと思う。が、二人の世界を築き上げる彼らには見えていないらしく、告げられた黒髪の男性はじっと金髪を見つめ、それから小さく笑った。ささやかな笑い声が心地よく耳に届く。
その一瞬で、私の頭は年齢や性別を超えた愛の形をまじまじと描く。恐らくインスタグラムで気軽に写真に載せられないほど、彼らの世界は複雑で繊細だ。なのだろうが、気付かれる前にとにかくスマホにまた顔を伏せながら、いいなあ、充実しているなあとありきたりな思いを抱く。
新しい恋人を作ろう。そう誓って、電車は次の駅に到着した。私の最寄り駅だ。さっと立ち上がり、金髪の男性が微笑む横をすり抜ける。お幸せに、とおせっかいにもそう思う。