仕事が終わり、日本人設計士が作ったと言われるイタリア・ナポリの街を歩いている。自由で奔放な街ではあるが、昼間はスーツ姿のビジネスマンが多くオフィス街の雰囲気で包まれていた。昼間から陽気にグラスをかかげ、オープンカフェで歌を歌うイタリア人の姿はここにない。
地下駐車場へと向かおうとしたときに、赤いフェラーリが日本の隣にぴったりとくっついた。もちろん警戒し、胸元にしまいこんだスタンガンへと意識を向かわせる。そのまま歩みを止めずに気にしないふりをしていると、ウィンドウが静かに開いた。
「すみません、ミラノに行きたいのですが高速道路の入り口をご存じないですか?」
存外に、丁寧なクイーンズイングリッシュだ。その響きにぎょっとし、のろのろとついてくるフェラーリに目を向ける。イタリア君が好きそうな、スタイリッシュでデザイン性に溢れた車。その中に乗っていたのは、まさかと思うがイギリスだった。イギリスは日本と視線を合わせるとにやっと笑う。
「なあ、あんたセクシーだな。どう? 俺と今晩食事でも。おいしいリストランテを知っている」
「ちょっとイギリスさん、何やってるんですか」
「日本、早く乗ってくれ。追われてるんだ」
「え? 誰からですか!」
なんとなく恐ろしい妄想に駆られ、――それは国の化身ならではの、何を考えているのか分からない組織や人間からの襲撃だったり、何もかもを知り尽くしたつもりの自分たちでも知らない未知だったりしたのだが、言われるとおりにスピードを落とし、完全に停車した赤い車の助手席に回る。ドアを素早く開け、それが閉じる前にイギリスはアクセルを踏んだ。ぐん、と重力が身体にかかり、シートに強く押しつけられる。
「何やっているんですか? この車は」
「レンタカー。とにかく追われてる。ほら、見てみろよ」
イギリスのハンドルさばきは手慣れている。指先でシフトチェンジを行い、変速しながらステアリングで車道を征く車やトラックを追い抜いていく。言われたとおりにサイドミラーとフロントミラーを確認すると、フェラーリの動向に惑わされている車体がいくつか見えた。
「何台?」
「えっ、左後方に一台、それから右に二台。ああ、前方のフィアットももしかすると、我々を探しているかもしれません」
「いいな! さすがだよ、最高」
突然、車体が揺れる。前につんのめりそうになる身体を支えながら、イギリスが左折専用レーンで停車していることが分かった。前方には反対方向を走る車が通りすぎ、イギリスの追手は次々と同じ車線に入ってくる。
「何が起きたんですか」日本ははらはらしながらも、身体にシートベルトを巻き付ける。「トラブルでも?」
「ぜえったいにやりたくない仕事があった。逃げてるうちにイタリアを訪れていて、車を走らせていたら好みのヤツがいたから声を掛けただけだ」
「なんだか、イタリアナイズされていますねえ。では、追いかけているのはハワードさんたちですか」
「そういうこと」
左折を示す信号機が点った。が、イギリスは発進しない。そのうちに後方車がクラクションを鋭く鳴らし、耳の奥を刺激する。
信号が変わる間際でクラッチペダルを軽く踏み、身震いのようなエンジン音をふかせた後でアクセルを思い切り踏んだ。両手でハンドルをぐっと回し同時にブレーキも踏み、フェラーリは反対車線へと回転を始める。アスファルトを走るタイヤが高い音を出す。日本は助手席で車内を混ぜるような引力に耐えながらも、何とか体制を持ち直した。次の瞬間にイギリスは赤い流星のようなスピード感を持って、直進する。
信号を律儀に守るイギリス人の乗る車が、何台か見えた。すぐに消えていなくなってしまう。「そういえば、今日は十一月二十二日だ」とイギリスが呟く。車窓から見えるナポリの景色は飛ぶように過ぎていき、カラフルな街並みが引き伸ばされて視界に鮮やかだ。
「そうですね、現地時間だと」
「イイフウフの日、だろ」
「おや、ご存じですか。我が家の語呂合わせを」
「だから付き合ってくれ。一緒に逃げよう」
誰が夫婦なのか、これからどこに行くのか、日本だって見つかるとまずいに決まっている。でも、イギリスの運転するフェラーリは止まらない。いささか乱暴な二人の逃避行は始まったばかりで、高速道路の入り口までやってきた。ミラノ・ルガーノ方面を選び、スピードをぐんぐんと上げて、追手から逃げる。バックミラーに何も映らなくなった時、日本はようやくめちゃくちゃな逃走劇に声を上げて笑った。