ラズライト【若葉の棋客】
立ち入り禁止の柵の向こうに猫が居た。
確かにそこは陽がよく当たるし、新たな家庭ゴミが出ない分カラスも来ない。ここなら安全ですと言わんばかりに欠伸をして、茶色い尻尾を白い身体へ上手に沿わせて呑気に蹲っている。おれのような人間たった一人だけが律儀に看板の言う事を聞いて、安全な方の道端で立ち尽くしている。
「おいで、」
小さく声を掛けてみたが、やはりと言うべきか、黒い片耳をぴくりと動かしてくれただけでとりつく島もない。暫くの間しゃがんだり舌を鳴らしたり、あれこれ試してみても可愛いあの子からはつんとそっぽを向かれたままだった。手元に釣れそうな食べ物は無いし、そこから先を勝手にやると負いきれない責任が伴う。
お手上げだった。足音を立てると余計奥へ行ってしまうかもしれないから、どうか強かに逃げておくれと思いながらそっと離れる。君のそばに大きな赤い文字であぶないはなれてと書いてあるのでその通りにしてみませんかと、伝える術をおれは持たない。それに野良の動物が警戒区域に住み着いてしまうのは、残念ながらおれが此処へ来る前から、よくある話だと聞いている。
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将棋を学んでみようと思ったのはその頃だった。丁度自分がランク戦で足を引っ張ったせいで負け、順位がひとつ下向きに入れ替わってしまったのだ。学校帰りに警戒区域で猫を見逃した翌日の事だった。
何か気落ちする出来事が重なって、それらを払拭したいと願う時、おれは決まって新しい事を始めた。何もプロ並みにきちんとやってやろうという話ではない。例えば将棋なら、先輩の思考の片鱗をもう少しだけ度の良い眼鏡で覗き込んで、それを正しく知ってみたかった。要するに手っ取り早く解像度を上げてみたいのだ。あわよくば楽しめるのだから何も悪いことはない。その前に手を出した卓球では卓球部のクラスメイトに乞うて練習を重ね、空振り三割から問題なくラリーが続く程度にまで上達した。なんならスリッパでだってそれなりに戦えるようになった——お行儀が悪いとマリオに嫌な顔をされたので一度きりでやめてしまったが——ので、結果としてかなりの気分転換になったのであった。
おれは半ば躍起になっていた。だって難解な参考書がすぐ隣に居るじゃないか。生き字引と言ったって良い。そう思うといてもたってもいられず、おれは気が付いたその日に扉を叩いたのであった。正確には連絡を一本入れた、だ。返事はいつになく早かった。
『作戦室のやつ使うから、明日早めに居れよ』
了解の意で送ったスタンプにはすぐに既読がついた。自分もこの人も筆まめではないから、こういう一瞬のテンポに息遣いが滲むのが嬉しい。恋という言葉を持ち出すとしたらきっと今なのだろう、と端末を握り締めてにやにやしながら思う。
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