今はここにないだけの何か。最低な始まり方だった。
ファンの女の子達に囲まれながらだらしのない面をした彼にどうにも自分の想いを抑え切れず、涙が溢れてしまった。
更に、ロナルド君に物申す、とジョンが意気込む姿を見て、私はこんなにも情けない主人だったのかと落胆もした。
いいんだよ、ジョン、これは私の気持ちなのだから彼は何も悪くない、ただ今日は事務所に帰りたくはないから何も言わずロナルド君の傍にいてあげて、ううん、私はいいんだ、ちょっと気持ちの整理をつけたい。
凄く、物凄く渋々承諾したジョンは何度も私を振り返りながらもロナルド君の元へ歩んで行った。
ごめんねジョン、聞こえないけれど心の中で謝罪を繰り返す。
1人になろうとも、慣れ過ぎてしまったこの街はどこもかしこも明るくて、見知った顔も多くて気付けば街灯もない裏路地に立ち尽くしていた。
適当なバーにでも入ろうかと思った時、
「お前さん何やっとるんや」
彼の声に似た、彼ではない声。
顔を上げれば彼と同じ髪色、彼と同じ瞳。
仕事終わりなのかいつもの隊服ではない、黒のジョガーパンツにグレーのジャケットを着こなす、彼のお兄さん。
「隊長さんこんばんは。良い夜ですね」
平気な顔を、いつもの顔をしなければならない。
彼と同じでとても勘のいい人だから。
そう思いながらにこやかに挨拶を交わす。
「なんかあったんか?」
鋭い感覚の持ち主のその人は、素早く私の元まで足を運んで下から真っ青な瞳で覗き込む。
何も無いですよ、と防御を張る私の手を取り自分の腕に絡ませる。
「最近いい店見付けたから、ちょぉ付き合って」
こちらの事は聞かず、それでいて1人にしない、エスコートの仕方もスマートで、でもいやらしさは感じない。
何をとっても慣れている、流石生粋の女ったらしである。
髪を下ろし付け髭もない、幼い表情を私に向けながら腹減ったなぁ、と場を和ませる。
思ってはいけないと分かっているのにどうしても比べてしまう。
ああ、彼とは本当に正反対。
照れたり鼻の下を伸ばすような事もない、相手に負担をかける事もない。
連れられるがまま小洒落た店に入り、個室に通され向かいの席に腰を下ろし、
「奢りじゃ」
と、高いワインまで出される始末。
吸血鬼の心得までこの人は習得しているのではなかろうかと疑うくらいだ。
でも今日は、そのお言葉に甘えよう。
傾けたワイングラス。
最初は当たり障りない他愛もない日常の話から。
しかしそれでも私の顔色が晴れないと分かると核心を突く。
「なんかあったんやら?」
優しい声調。
何故こうも兄弟で違うものか、急に全てが馬鹿馬鹿しく思えて声高々に笑い声をあげる。
「全く!何一つ分かっちゃいないんだ、あの若造め!私が、この私が!……ジョンにまであんな顔をさせてしまった…」
八つ当たりだと理解している、頼まれた訳でもない料理も掃除も全部私が始めた事だ、見返りを求める方がお門違いなのだ。
想いを寄せたのも、私が勝手にあの馬鹿を好きになってしまった、それに想いを返せと言う方がおかしい。
あの青の瞳に私だけ映して欲しい、等とうら若き乙女のような恋心を抱いてしまった私が、最初から馬鹿だったのだ。
グラスに残るワインを煽り、伝う涙に気付かないふりを決め込んでボトルに手を掛ける。
それを制止したのは他でもない、青の瞳だった。
テーブルの向かいに座っていたはずのその人は、私の隣に位置し、私の涙を拭いとった。
不覚にも動きを止められた瞬間にボトルまで取り上げられた、が、そのボトルの中身は私のグラスへ傾けられる。
「呑むか」
謝るでもない、何を弁解するでもない。
今それをされたら私は立ち直れない程惨めだっただろうに。
自分のグラスにもワインを注ぎゆっくりとそれを飲み下す。
一つ一つの所作の美しさと彼が似た容姿をぼんやりと眺めながら私も注がれた赤を飲む。
ボトルが空になる寸前に新しい物が運ばれてくる。
開封されたばかりのワインは私のグラスへ、前のワインは自分のグラスへ。
細かな事にまで気を遣う人だ、と素直に賞賛する。
言葉少なく酒を煽っていたからか、気分のせいなのか、くらり、と酒に酔った感じがした。
「もうすぐ夜明けじゃ」
空のグラスをテーブルに置いたその人の右手が、まるでそれが当たり前かのように私の頬に触れた。
「どうする?」
左手は私の右手を捉えていて、指先で手袋の端から掌を撫でられる。
ソレが分からない、なんて言う程、私は初ではない。
「どう、したいですか?」
彼の青に、私が映っていた。
頬にある彼の手に左手を重ねる。
「見栄っ張りじゃの」
瞳を細めた彼にそのまま手を取られ店を出た。
絶妙な力加減で丁寧に彼は私を抱いた。
死ぬ事もなく、少しも砂になる事なく。
1枚1枚焦らされるように衣服を脱がされ、私がどれだけ乱れているかを囁きながら溶かされるように。
文字通り頭のてっぺんから足の指先まで、全てに彼が染み込んだよう。
会話という会話はなかったが、ただ一つ、
「ヒヨシ」
名で呼べと、それだけ。
私は何度も呼んだ。
やはりこんな事は、の意味を込めて呼んだ
「…ヒヨシさん」
噛み付かれるようにされた口付けの中に消えた。
幾人もの女性を魅了した彼の目下に生まれたままの姿が曝され、若干の気恥しさと共に零した
「ヒヨシさんっ…」
その見た目よりも逞しい体躯に抱き締められる事によって一緒に閉じ込められてしまった。
全身を愛撫されてぐずぐずに解かされたソコに滾った熱を押し込まれ、あまりの熱量に助けを求める手と一緒に伸ばした
「ヒヨ、シ……ん」
打ち付けられる水音に消えたと思っていたのに、彼はそれれを聞き逃す事なく拾い上げ
「可愛い顔しよる…」
と応えてくれた。
全ての熱を吐き出し、熱を吐き出され、身体中の力が抜けベッドの住人と化した私に、彼は言った。
「いつでも呼べばええ」
涙を吸い取るように目尻に唇を落とされて、優しく微笑み、額にも唇を降らす。
温かい腕に抱かれ安心感に襲われながら自分にダメだ、と言い聞かせる。
こんな、まるで、彼を代わりにしているみたいな。
みたいではない、完全にそれではないか。
しかし不思議な事に、最中、代わりだと言う彼の人の影を見る事は1度もなかった。
ヒヨシさんの声で目が覚める。
頭だけで声の方を向けば隊服を着ながらすぐ向かう、と指示を出していた。
窓から差し込む日はない。
もぞもぞと身体を起こそうとすれば、全身に甘い痺れが走る。
「起こしてしまったか」
ベッドの端に座り私の髪に触れたヒヨシさんは悪いな、と目を細める。
触れられた手が優し過ぎて私は何も言えない。
「ゼンラがいつもの如くコゼンラを大量発生させたお陰で街は花畑、ハンター達が対応しとったが民家の庭先までコゼンラが侵入して人手が足りん。非番じゃったがちょっとばかり出てくる。ああ、起きんでいい。お前さんはまだゆっくりしとけ。水と鍵、ここ置いとくで」
お暇を、と起こしかけた身体をベッドに沈められ、指先で頬を撫でられた。
サイドテーブルにペットボトルとかちゃり、と置かれた鍵。
慣れた手つきでタイまで締めたヒヨシさんの背を見ながらふと鍵、と呟く。
連れられた際にヒヨシさんの家だという事は知らされたが、鍵まで預かる事になるとは予想だにしなかったので若干の焦りを感じた。
「予備の鍵じゃ。その内、返してくれればいい」
その一言に意識を手放す前に聞いたいつでも呼べばいい、と言われた真意を見出す。
辛ければこの鍵を使ってまたここへ来ればいい、と。
果たしてそこまでしてもらう義理はあるのだろうか。
失恋の痛みを抱えただけの、更に言えば弟のビジネスパートナーである吸血鬼の私に。
「ロナルドには」
突然発せられる彼の人の名に無意識に身体が強ばる。
「偶然会って一緒に飲んで、飲み潰れたからわしの家に泊らせた、と言うてある」
何も、間違いではない。
脱がされた服の中から私のスマホを取り出したヒヨシさんはそれを私に渡しながら続ける。
「わしはお前さんを気に入っとるから、また『飲みに誘う』つもりでおる」
スマホを渡した右手でまた髪を撫でられる。
「お前さんからの『飲みの誘い』も待っとるぞ」
そのまま唇を奪われ、深くなる前に離された。
「行ってくる」
ゆっくり寝とき、とヒヨシさんは念を押して出掛けて行った。
がちゃん、と鍵のかかる音を聞いて私はまたベッドに身体を沈めた。
溜め息が自然と出てしまう。
どうしたものか、横たえる身体を仰向けて天を仰ぐ。
何にしろ、ここまで愛されたのは久方ぶりの事だったものだから身体が思うように動かない、満たされた身体は思考をも停止させる。
ヒヨシさんの香りが強く残るシーツに顔を埋めてもう一度溜息を吐いた。
(隊長、非番に申し訳ございません)
(サギョウ、お前もご苦労じゃったな)
(…何かいい事でもありましたか?)
(ん?)
(顔に出てますよ)
(んーいや、猫を拾ってな)
(ヤラシイ顔になった)
(その猫が可愛くてな)
(うげ、その猫可哀想、隊長に捕まってもいい事なさそう)
(何じゃおみゃその言い草は)
(早く逃してあげた方が良いですよ)
(なぁにたわけた事言っとる。やっと手の内に落ちてきたのに)
(うわぁ、やっぱり隊長人でなしですね)
(なんとでも言え)
「何だ若ぞ…煩い煩い、電話口でそう騒ぐな。だから言っただろう、先日隊長さんにお世話になったからそのお礼に食事を振る舞いにお宅にお邪魔するって。事務所?君がいたらお礼が謝罪になるほど面倒くさい事になるだろうが。冷蔵庫に生姜焼き入れてあるからそれ食べて原稿でもしてなさいな。ジョン含め皆VRC検査で明日の夕方迎えに行く事になってるから。はいはいじゃあね」
通話を切ったスマホはテーブルに置いた。
目の前ではニヤついた顔を隠しもしないヒヨシさんが私の腰に腕を回す。
「『お誘い』ありがとな」
片手で器用に私のシャツのボタンを外していく。
そんなヒヨシさんの膝の上に座る私は彼の首に腕を回して正面に向き直る。
「これは先日のお礼、ですから」
そうかそうか、と含み笑いをしながらもヒヨシさんの手は止まらない。
「じゃ、お礼の品頂くとする」
腰から上がってきた手が私の首に沿わされ引き寄せられると同時に、その弧を描く綺麗な唇が近付いて温かいそれに包まれる。
代わりでもいいと彼は言った。
申し訳ないと告げたら、お前さんでもそんな風に思うのかと笑われた。
その優しさに似た狂愛、私は、彼は、全てを受け入れた。
(おはようござ…隊長顔気持ち悪ぃっす)
(サギョウお前もうちょっとオブラート包まんか)
(その前に隊長、その顔隠した方がいいですよ)
(すまんすまん)
(前言ってた猫、懐いたんですか?)
(…まぁ、な)
(本当早く逃がしてあげた方が)
(誰が逃がしてやるもんか)
(顔怖ぁ)