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    aoitori5d

    落書きを投げ込む場所
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    aoitori5d

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    ローコラと旗揚げ組と星の話。ローにとっての美しいもの、大切なもの、二度と失いたくないものについて。

    #ローコラ
    low-collar

    蛍火はここに 夜空に瞬く星の光。朝焼けに白く輝く雪原。東から昇っては西に落ちていく太陽の動き。鳥の歌うような囀りに、風が木の葉を揺らす密やかな音。おはようと言うとおはようと返ってくる声。パチパチと油を跳ねさせるソーセージの音と、挽きたてのコーヒーの香り。
     トラファルガー・ローが、自然の姿や日常のささやかな出来事に美しいと、愛おしいと思えるようになったのはここ最近のことだ。スワロー島はローの育ったフレバンスとも、三年の時を過ごしたスパイダーマイルズとも異なる、“北の海”を象徴するような極寒の冬島だった。それでも、この島で出会った二人やシロクマのミンク族などは慣れているようで、毎朝薄氷が張った桶の水で顔を洗い、燃え尽きた灰を掻き出して薪を追加する。そうして部屋が十分に温まったあと、ようやく起き出してきたローに向かって明るい声でこう言うのだ。
    「おはよう、ローさん! もう飯できてますよ!」

     ***

     ある朝のことだ。珍しく早朝に起きて、カーテンを開ける。どこまでも続く雪原に、太陽の光が凍った樹木を照らし出す。雪の上で、狐が一匹佇んでいた。狐の目が、二階にいるローを見た気がした。
    「……きれいだな」
     美しいと思った。まるで、世界の時が止まったかのようだった。自然と口から零れた言葉に驚き、ローはハッと誰に見咎められてもいないのに口を覆う。
    ──美しいと? あの人がいないこの世界が美しいと、いまそう自分は思ったのか。
     ゾッ、と全身の血の気が引いていく。指先が冷え、小刻みに全身が震えて歯がカチカチと鳴った。は、はっ、と息が上がる。恐ろしかった。なんてことのないありふれた光景に心動かされた自分が。窓辺からふらふらと後退る。フローリングがギシッと軋んだ音を立てた。 
    もう、狐の姿はどこにも見えなくなっていた。

     ***

     家族が殺されてから、故郷が滅びてから。ローはきっと、自分の心が壊れてしまったのだと思った。食事の味はなく、世界は色褪せて見える。それまでローは特に好き嫌いはなかったけれど、あの日からパンが嫌いになった。パンは味がしないくせにパサパサといつまでも口の中に残る。ドフラミンゴのところでは焼き立てのパンが朝食に並んでいたが、いつまでもスポンジを噛んでいるように思えて陰で吐きだした。目聡くそれを見つけたドフラミンゴは、フッフッと小さく笑ってローを膝の上に抱き上げるとテーブルの端、コラソンの前に置かれていたおにぎりを一つ寄越した。
    「おまえもパンが嫌いか? フッフッ、構わねえさ、ここには他にたくさん食い物がある」
     その言葉に違わず、テーブルに乗りきらないほどの料理が毎朝毎晩並んだ。フレバンスにいた頃には食べたことも見たこともないようなご馳走の数々に、ベビー5やバッファローは喜んでむしゃぶりついていた。幸せね、こんなにおいしいものが食べれて本当に幸せ! ベビー5がそう言ってドフラミンゴの脚に縋りついた。若さま、あたし若さまのためならなんだってするわ! ……愚かなこどもだった。生きる場所を彼らは選べなかった。いいや、選べるだなんて思いもしない。ただ温かく、残飯でもなく、腐ってもいない食事が当たり前に与えられることが普通ではないと知っているだけだ。そしてそれ以上の幸福を知らない。何の見返りもなく、ただ愛によって抱き締められ、庇護されて然るべきなのだということを。ローも知らなかった。フレバンスの街の外で、学校にも通えない、親もいない、悪い大人にいいように使われて死んでいく子供のこんなにも多いことを。
     だが、ローはスパイダーマイルズでの食事をうまいと感じたことは一度もなかった。人殺しの特訓に、医学の勉強。コラソンに見つかってはくず鉄の山に投げ飛ばされるかゴミ溜めに蹴飛ばされる日々。子供嫌いだというコラソンは、なぜか子供の溜まり場を目聡く見つけてはローやファミリーの門戸を叩く子供たちを投げ飛ばし蹴飛ばしていた。腹はペコペコに空きはするものの、何を食べても味を感じることもない。ただ単調作業のようにおにぎりを口に押し込み飲み物で流し込む。これは死ぬまでの過程に過ぎない。余命という目盛りが日々短くなっていく。ゼロになるまでに早く力をつけて、全部ぜんぶ壊せるだけの力を、この世界すべてをめちゃくちゃにできるだけの力を。
     空は相変わらず灰色で、唯一色のあったものは憎々しいコラソンの吸う煙草の灯だけだった。
    ──炎の色。血の色。白い街を覆いつくした破壊の色。
     コラソンはローがおいしくもなさそうにおにぎりを頬張るのをじっと、暗く瞳の窺えないサングラスの下で見つめていた。彼は普段子供たちを見かければすぐに手や足がでたけれど(そしてそのうちの何回かは足を絡ませて転んでいた)、食事のときだけは何もしなかった。ドフラミンゴを中心に囲む食卓の席で、ローたち子供は末席に追いやられるのが普通であったが稀にファミリーの人員が少ないとき──序列に厳しいトレーボルやグラディウスなどが仕事で席を外しているようなときには、ドフラミンゴのそばに侍ることが許された。ベビー5はドフラミンゴの膝に座ってミネストローネを口まで運んでもらっている。バッファローはセニョールに酒を注いでもらって舞い上がっていた。どれもローは興味もなかったが、ベビー5に連れられてドフラミンゴとコラソンの間に座らされた。ナイフとフォークを使って血が滴るレアステーキを切り分け、口に運ぶ。とっとと食べ終えて部屋に戻ろう、そう考えて無心に味気ない食事をしていたのだが。
    「……ご飯粒飛ばすなよッ! 食器もガチャガチャ鳴らすなッ‼」
     コラソンはドジで猫舌のくせに、がつがつと品なく食べる男だった。勢いよく搔っ込んでは噎せて吐きだすくせに。肘がドンドンとローに当たる上に茶碗から米粒が飛んでくる。
     ──なんだコイツ! いい歳して、ラミでももっとずっときれいに食べてたよ!
     思わずハンカチを取り出し、男の頬についた米粒を拭い取ってやると、不気味に耳元まで伸びた口紅がよれた。
    「あっ……!」
     その時、広間にいた人間すべての視線がローとコラソンに集まっていた。シン、と静寂が落ちる。ベビー5は元々大きな瞳を零れ落ちそうなくらいに見開き、バッファローはポカンと口を開けている。セニョールは顔を背け肩を震わせ、ジョーラは突然泣き出したデリンジャーに慌てて広間を走り去る。
    「……フッフッフ。ロー、面倒をかけるな」
     ただ一人、ベビー5を膝に乗せたドフラミンゴだけが普段と変わることなく笑みを浮かべていた。そうして、食べ終わった彼女を下ろすと弟に向き直る。
    「こいつは昔から食べるのが下手なんだ……ほら、コラソン。礼を言いな」
     兄の大きな手がサングラスを抜き取ると弟の両頬を包み込み、額を突き合わせる。
    「なに? 頼んだわけじゃない? フッフ、そう拗ねるな。兄上の言うことがわかるな?」
     コラソンは赤い瞳をじっと兄に向けていた。唇は真一文字に引き結ばれたまま一言も発さない。だがドフラミンゴは弟の言わんとすることを理解しているようで、珍しく笑みを困ったようなものに変えている。
    「……」
     ──知っている。ローはこの光景を、よく知っていた。だってローもしたのだもの。ラミが母に怒られたときだとか、友達と喧嘩したときだとか。

     ──おにいさま、ラミ悪くないもん!
     そう言ってボロボロと涙を零す妹の、濡れた頬を拭ってやった。スカートの裾を握りこんで立ちつくす妹の前に膝をつき、力を込めすぎて強張る拳から指を一本ずつ解していく。
    「わかってるよ。ラミは悪くない……でも、母様に少し言い過ぎたって、そう思ってるんだよな」
     ──かあさまのばか! きらい、きらい! あっち行って‼
     ぐす、と鼻を鳴らしてパチパチと瞬きを繰り返す妹が、しばらく間を空けて小さくコクンと頷く。それを見て、妹の手を取って立ち上がる。
    「いい子だな、ラミ。さ、行こう。兄さまも一緒に謝ってあげるから」

    「……っ、な、なんだよ」
     こつん、と帽子越しに頭を突かれて優しい記憶の海から意識が浮上する。顔を上げれば、唇の端をむいっと下げたコラソンがぺらりと紙を一枚眼前に突き出した。
    『ごめん、ありがと』
    「……い、いいよ別に。おまえもいい歳してアニキ困らせんなよな」
     大したことではなかった。少なくとも、ローにとってご飯粒をとってやるくらいのことは、見返りや謝礼を求めてするような大層なことではない。ぷい、と顔を反らしても、コラソンは紙をグイグイとローに押し付けてくる。
    「なんだよ……! 受け取れって? いらねえよ!」
     怒鳴っても少しも応えた様子も見せず、ただ頬へ押し付けてくるコラソンに根負けしてとうとうローはその紙を受け取った。途端にコラソンは仕事は終わったとばかりに席を立ち、二階の幹部用の談話室へと向かっていった。
    「なんだ、あいつ……」
     ポカンとその黒い背中を見送っていると、背後でドフラミンゴがクックッと喉の奥で笑った。
    「すまねェな、ロー。だがおまえにもわかるだろう? 弟妹ってのは、何をしていたってかわいいもんなんだ」
    「……」
     妹の、ラミのすることはなんだって許せた。ローの教科書に落書きをしても、おねしょをローのものだと嘘をつかれても。お兄様、と己を呼ぶ妹の笑顔。母の手作りのクッキーを一枚多く分けてやったときの、瞳をキラキラと輝かせるさま。父の穏やかな声が紡ぐ物語を、ベッドの上で並んで聞きながら眠気に抗おうとして格闘していたときの顔。自転車の補助輪を外してやって、後ろを支えながら走ったときの必死な顔。すべて、すべて余すことなく覚えている。愛している。愛していた。なによりも大事で、大切だった。
     けれど、もうローの手から零れ落ちてしまった。妹は、もう二度と笑うことも、怒ることも、悲しむこともない。自分のついた嘘を信じて、炎に巻かれて死んでしまったから。
    「……大事なら、あのドジを少しは治させろよ」
     ぼそりと呟く。その言葉に、ドフラミンゴは言って治るようならおれだってさせてるさ、と珍しく弱った声を上げた。ワイングラスを手に取ると、いそいそと再び膝に乗りあがったベビー5のオレンジジュースの入ったグラスと軽く腹を合わせる。そうしてワインを飲み干すと、誰に言うでもなく呟いた。
    「あれは、母親にべったりだったからな」
     最初で最後だったと思う。ドフラミンゴが、過去の話をしたのは。サングラスをかけたドフラミンゴの表情を窺い知ることはできなかったが、いつも薄く刷いた笑みを消し、遠くを見つめるように少し顎を上げた横顔は恐ろしい海賊団のボスとは全く違う──ただの家族を憂う兄のように見えた。
     それから暫くは食事のときにコラソンたちの近くに寄るような好機もなく、ロー自身もベビー5らと幹部たちの“仕事”の手伝いをするようになってますます一日が忙しくなった。刻一刻と迫ってくる命の期限と、一向に進んでいる様子の見えない破壊への道。ドフラミンゴは相変わらず何を考えているのかわからない笑みを浮かべたまま、コラソンはいつしかローたちに暴力を振るうことも稀になった。ほかの大人たちは、あの子供嫌いもようやく諦めたんだろうさ、などと言って笑っていた。こいつがそんなタマかよ、とローは苦々しくコラソンを横目で眺めて嘆息を吐く。相も変わらず不気味な化粧の下で、男はじっと兄を見つめていた。
    そうして“あの日”を迎えることになる。

     ***

     コラソンとの二人旅は最悪だった。船とも言えない小舟で外洋を渡るだなんて狂気の沙汰だ。それも気候が比較的穏やかな“東の海”でもない、北の果てでなど。それでも、普段のドジが嘘のようにコラソンは航海中は一つのミスも犯すことはなかった。ローもドフラミンゴの下で航海術を齧ったけれども、コラソンの技量は齧った程度で済む話ではない。正式な訓練を受けた上等な水夫のそれだった。この時から、ローはコラソンが海兵なのではないかしらと疑い始めていた。彼が時折する通話の先の、厳格な壮年の男の声。間違っても敵対組織のチンピラが出すような声ではない。それでも、コラソンはローの疑いを知ってか知らずか、穏やかな波の夜にはローを抱え、空を見上げて星を指さしてあれは何々、これは何々と話していた。
    「目印にするのはあの星。動かないんだ。海の男にとって、あの星は導きの星だ」
     天の中心に位置する星を指してそう話すコラソンの声は少しだけ震えていた。胸に預ける形になった背中から、規則正しく脈打つ鼓動を感じる。
    「いいか、ロー。諦めるな。病気は治るし、これからもっと楽しいことがおまえを待ってる……!」
    「……そんなの、嘘だよ。おれは死ぬんだ。この白が、身体中を覆ったその時に」
     コラソンの赤い瞳が、宝石のように暗闇の中で燦然と輝く赤い瞳が揺れる。ぎり、と唇を噛みしめ、そうして震える声でばかやろう、と呟く。
    「嘘じゃない! ……本当さ。おまえは知らないだろう? 世界はずっとずっと広いんだ! おまえを治せる医者は必ずいるし、うまい食い物も、かわいい女の子も……そうだ人魚だって、ミンク族だって巨人族だって! たくさん、たくさんいるんだ……!」
     凪いだ海の、すぐに転覆して藻屑と消えそうな小舟の上でコラソンは笑った。
    「その中に絶対、ぜったい居るんだ……! おまえの友達になるやつが、これから先をずっと一緒に生きる人が──‼」

     病院巡りはローの心を疲弊させた。食事は相変わらず味気ないし、世界はどこまでもモノクロのまま。ただ、コラソンを彩る色が一つ二つ増えていった。煙草の灯。赤い瞳。金色の髪に、蒼白い肌を彩る化粧。彼の周りだけ色がつく。

    「ロー、今日は調子がよさそうだな」
    「歩くのが辛いか? ほら、背に乗れ」
    「水を一杯でもいい、頼むから飲んでくれ……そう、いい子だな」

     どうしてこのひとはおれを見捨てないのだろう。センゴクとかいうひとのところへ戻らないのだろう? 
    どうしておれをこんな風に、宝物のように抱いて微笑むのだろう。

    「コラさん……」
     熱に浮かされ、カラカラに乾いた喉で男の名を呼んだ。黒いファーコートをローに巻き付けるようにして抱いていた男が、閉じていた瞼を開ける。
    「……どうした、ロー?」
    「──……」
     赤い色。白い街で映えた、妹のスカートの色。家族が揃って団欒の時を過ごしたリビングで、赤々と燃えていた暖炉の色。休日の母の指に嵌まっていた、自分と妹が生まれた記念に父から贈られた指輪の宝石の色。
    「ん、どうした……?」
     少しの刺激が体調に大きく作用するようになってきたローを気遣う、夜に溶けて消えていくような低い声にローはくすくすと笑った。きょとんと眼を瞬かせるコラソンに、ローは熱で関節が固まったせいでうまく動かない身体をグッと伸ばし、耳元で囁いた。
    「呼んでみただけ」
     そう言って、にししっと笑う。しばらくポカンと固まっていたコラソンだったが、やがて肩を震わせ始めた。顔を俯かせ、時折ぐすっと鼻を啜る音が聞こえる。そして、優しくローを抱き締めなおした。
    「何度だって呼んでいいんだぜ。コラさんはな、ローの声には絶対に答えるから」

     ***

     “凪”をかけられた身体は、なにをどうしたって音が鳴ることはなかった。ドンドンと宝箱が揺れるほど叩き叫んでも、板一枚挟んで目の前にいる人間にはまるで聞こえない。その代わり、ローの耳には雪の降りしきる静寂の中交わされる兄弟の声がよく聞こえた。互いが撃鉄を起こす、重いような、軽いような音も。
     シュボッ、とコラソンが煙草に火を灯した。そのまま深く息を吸い込み、紫煙を吐きだす。ドフラミンゴがそれを見て、眉間に皺を寄せる。だがそれをふっと解くと、首を横に振って笑う。
    「その悪い癖は、どうにも治せなかったな」
     今から命を奪おうとしている割には、ひどく穏やかで諦観が混じった穏やかな声だった。
    「……煙草はいつ覚えた?」
     銃口が上がる。真っ直ぐに、目の前の男の胸を狙う。コラソンはその声に、煙草を口から離してフッと小さく息を吐く。煙草の煙ではない、寒気が生み出す白い呼気が、凍てつく夜の闇に溶けて消える。
    「……ドフィ。おまえの手配書を見た日からだよ」
    「フッフッフ、そうか。それはずいぶん、海兵にしちゃ悪いことをさせちまったな」
    「構わねェさ。一々兄上にお伺いを立てるような……ガキじゃあねえからな」
     それから一呼吸の間、二人の間に沈黙が落ちた。そうして、互いの向け合った銃口がぴたりと動きを止める。コラソンは震える脚で立ち上がった。ドンドンドン! いくら叩いても音は響かない。
     
     ──コラさん、コラさん‼ なあ、殺されないって言ったよな⁈ 大丈夫だって、隣町で落ち合おうって……! なあ、あんたそう言ったよな⁉
     
    「言い残すことは、それだけか?」
     ドフラミンゴの指が引き金を引く。その瞬間が、やけにゆっくりと、ストップモーションのように止まって見えた。

     世界はずっと色褪せたままだ。故郷が滅びてから。仲の良かった友人が、敬愛するシスターが、愛する家族がゴミの様に殺されてから。
     ──ローの世界に再び色を灯した、あのひとが殺されてから。

     ***

    「あっ、おはようございます、ローさん!」
    「遅いっすよ。また夜遅くまで本を読んでいたんでしょ?」
    「あっ、ローさん! ねえねえ見て! おれ魚を獲ってきたんだよ!」
     賑やかな声だ。ピィピィと小鳥の囀るようなそれらの声に応えつつ、新聞を受け取って机に向かう。この島に辿り着いてから一年。彼らはまるで鳥のヒナのようにローのあとを付いて回る。歳の割に子供っぽい仕草だった。それでいて、彼らは妙に達観した顔をしているときもある。その顔はドフラミンゴのところでよく見ていたものだ。彼らは大人に期待しない。期待したってしょうがないことを知っている。
    「おー……」
     ミルクをたっぷり入れたカフェオレを、ペンギンが椅子に腰かけたローの目の前に置いた。ここで新しくできた、自分のマグカップを持ち上げ、湯気を立てるそれに口をつける。
    「ん。うまい」
     そう声に出せば、ペンギンは嬉しそうに頬を染めた。極北の極寒港で育った彼らは、雪の様に肌が白かった。
    「へへっ、よかったです」
     そう言ってペンギンがタタッと背を向けて小走りで台所の方へ駆けていく。その背中を見送り、ローは新聞をぺらりと捲った。まず一番はじめに読むのは海の戦士ソラの欄だ。今日も間違いなく面白い。ジェルマ66は憎らしい悪役で、ソラは気高き正義のヒーロー。ジェルマが卑怯な手で人質をとり、ソラが窮地に立たされたところで“次回に続く”と終わる。そうしてようやく次の欄へと視線を向ける。今年は世界会議のある年のようで、“聖地”マリージョアへと向けて各国王族が出発したという記事が一面。ペラペラと新聞を流し読みし、その合間にカフェオレとクッキーを摘まむ。
    「新聞、面白い?」
     ベポの言葉に、ローは視線をちらりと向けてああ、と頷く。
    「知識は武器だ。たとえどんな小さなことだろうが、いつか巡り巡って自分を助けることがあるかもしれない。いま何が起きているのか、この出来事は何によって引き起こされたのか」
     もっと知ろうとすればよかったんだ。フレバンスから採れる珀鉛がどうして他へ影響を及ぼすのか。どうしてあの街は白かったのか。豊かな暮らしの前で、小さな疑問や不信はかき消されていく。
    「……」
     知らないことを知るというのは、恐怖でもある。ローは知りたくなかった。あの人が何者であるのか。何を願っていたのか。何のために兄を騙していたのか。気づくチャンスはいくらでもあったし、事実ローはわかっていたはずだった。彼がどうして航海術に長けていたのか、その理由を。何度も電話をかけた先を。そう、すべてだ。すべて、ローの賢い頭は理解していた。あの人は海兵で、海賊である兄を止めるためで、死にかけのローを連れて逃げようとして、そうして、そうして。

     ──なあ、ロー! 想像してみろ、この先を生きるおまえの周りに友達がいて、仲間がいて、世界中のいろんなところを旅しているところをさ! 海は広いんだ、なんでも知ってる。世界のはじまりも、終わりも、全部。ぜんぶさ。……そうだな、まずは手始めに、隣の島に行こう。地図はわかるな? ……そう、いい子だ。じゃあ、この町で。

     彼の身体から、赤い華が咲いた。いくつも、いくつも。夜の闇と、雪の白。ダン、ダンッと銃声が鳴り響くとともに、彼の身体が何かにぶつかったかのように前後に大きく揺れた。
    「コさッッッ‼」
     最後、彼を見たとき。道化の化粧の下で、彼は微笑っていた。ローをただ一人逃がして、隣町で会おうと嘘をついて。自分の泣き叫ぶどうしようもないほどみっともない声が鼓膜を震わせたとき、その瞬間に、ローは今度こそ絶望に脚を止めそうになった。
    音が聞こえる……なんで。なんで!
    決まっている。彼が最後にかけてくれた魔法が解けたのだ。そしてそれは。
    「なんで、なんでェ……!」
     なんで死んでしまったの。どうして。隣町で会おうって、殺されないってそう言ったじゃないか。
     それでも歩みは止めなかった。ローがここで死んだら、彼が命を擲ってまで救った意味がなくなると知っていたからだ。彼の生きた意味が。彼の美しく気高い志が。

     ***

     それからずっと世界は暗いままだ。だってローの世界に唯一色を取り戻してくれたひとが、永遠にこの世界から喪われてしまったから。どれだけ悔いても嘆いても、過去に戻れるはずもない。彼とはもう言葉を交わすことはできない。彼が笑うのを見ることはできない。すべてを置きざりにして、ローの手が届かない場所にいってしまった。彼のすべてをローに与えて。
     しかし、時はすべてを平等に過去に押し流していく。ローの絶望も怒りも悲しみも、癒えることは永遠になくとも一歩下がって冷静に見ることができるようになる。
    あの朝、太陽が雪原を透明に照らし出したのを見たとき。狐の黒い瞳が真っ直ぐにローを見つめたとき。当たり前に営まれる普通の日々を、自然の移ろいを美しいと感じたとき。ローは恐怖に怯えた。おれはあのひとのいない世界に慣れて、故郷を、何の罪もないフレバンスの人々を滅ぼした世界政府への憎しみを忘れて生きることができるのだと、突き付けられた気がしたから。そうして震える脚で階下に降りたとき、彼らがローを出迎えた。炊き立ての米の甘い匂いと、魚が焼ける香ばしい匂い。
    「あのね、昨日ローさんに借りた本、半分まで読んだよ!」
     ベポが航海術の本を手に笑う。
    「もうすぐ春ですよ。だんだん水が温くなってきた」
     素潜りをしてきたあとなのか、濡れたシャツを絞って暖炉の前の柵にかけながらシャチが言う。
    「今日もいい天気になりそうだ。みんなの分のシーツを洗濯しちゃうから、バケツの中に出しておいてくれよ」
     井戸のある勝手口からペンギンが顔を出して叫ぶ。
    「ねえローさん。今日は、なにを教えてくれるの?」
    扉のドアノブを掴んだまま固まっていたローは、その声にゆっくりと顔を上げた。
    「……そうだな。そう……今日は、星について話そう」

     彼のすべてを覚えている。星を見上げる、どこか物寂しそうな横顔だとか。林檎をもごうとして転び、ローが大笑いしたのを見て気恥ずかしそうに頬を掻いたことだとか。南へ渡っていく渡り鳥の大群を、海の上で眺めたことだとか。波飛沫をあげて泳ぐ、イルカの群れを見て歓声を上げるあの人の、存外子供らしい姿だとか。そのときの潮の香り、海を渡る風の音。歩くことも儘ならなくなった自分を抱きかかえて歩くあの人の温もりだとか。ローを元気づかせようとつまらない冗談を言っては面映ゆそうに微笑ったあの人を。
     すべて覚えている。すべてを覚えていた。ガラス細工のように透明で、宝石のように輝いていた世界の美しさを、全部。ぜんぶ。
    それに気づいたとき、ローの世界に一つ、二つと色が戻っていった。空の青。海の青。太陽の光を浴びて輝く木々の碧さだとか、鉄のフライパンの上に落ちる卵の黄色だとか。挽きたてのコーヒーの香りに、シロクマのミンク族の少年のポカポカと十分陽に温まった毛皮の匂いだとか。

     トラファルガー・ローは愛されて育った子供だった。愛されていたから、食事をおいしいと感じることができたし、世界は美しいと信じられた。太陽の陽射しも、海の煌めきも、風の吹き渡る音の美しいことも。子供は大人に媚びる必要もなく、大人は子供に悪意を唆すこともない。そんな世界が正しいのだと知っている。

    「なあ、ベポ。あの星を知っているか?」
     その日の夜、家の前の広場でローは宙のある場所を指さした。隣で仰向けに横たわっていたベポが、ローの指す場所に視線を向ける。そうして、ふるふると首を横に振った。
    「全然わかんない。なあに? あれ」
    「……導きの星」
     きらきらと暗い夜空で輝く蒼白い一等星。ベポが、わあ、と口を開けてクリクリとした黒い眼を輝かせた。

     ──あれを目指せ。動くことのない星を見つけろ。ロー、おまえのこれから長く続く人生の、決して揺らぐことのない星を。

    「……見つけた。見つけたよコラさん。おれの、導きの星」

     いつか終わりが来るのだとしても。いつか壊れて消えてしまうものだとしても。たとえ運命という呪わしい輪の上を歩かされているのだとしても、ローが歩みを止めることはない。ローが生きている限り、この鼓動が続く限り美しいあのひとは生き続ける。

     世界は美しい。光の当たらない闇が存在するのだとしても。いや、光こそが正しいわけでもない。スパイダーマイルズにいた子供たちにとって光は確かにドフラミンゴだった。無知につけ込み、心を縛り付けていたとしても。それでもローはその光に背を向ける。
    「おおい。寒いでしょう、ホットミルク作ってきましたよ」
    「それとマシュマロ! 焚火で焼いて、ビスケットと挟むとうめえンすよ!」
     ペンギンとシャチがローとベポを見つけて駆け寄る。二人からカップと竹串に刺さったマシュマロを受け取り、パチパチと燻る焚火に炙る。ベポが焦げたマシュマロに悲鳴を上げ、それを見て二人がゲラゲラと笑う。膜の張ったホットミルクに口をつけ、夜空を見上げた。燦然と輝く天の星。悠久の時を超えて届く、過去の光。黙りこくったローを見て、三人が真似するように空を見上げた。おっ、とシャチが天を指さす。
    「なあ、あれを繋ぐとベポに似てね?」
    「ええ、どれさ」
    「何言ってんだバカ」
    「ほら、あれだって!」
     シャチが必死に指をあれとあれとあれと! と指さすのを見る。その方角と位置に、ローはああ、と頷いた。
    「おおぐま座だな」
    「えっ、知ってるのローさん⁈」
     ペンギンが驚きの声を上げる。それを見て、シャチがほら見ろ! と鬼の首を取ったかのように鼻の下を擦る。
    「ちっと星の位置は違ェが、ま、大まかには合ってる」
    「どんな星座なの?」
    「ああ、ベポ。それなら……」
     星座の本を捲る。それを三人が覗き込んで、見えただの全然見えないだのと言いあっている。まったく、賑やかで落ち着きのない連中だ。ローは焼けたマシュマロをビスケットに挟んで齧る。とろけたマシュマロが糸を引き、舌の上でぺっとりと張りついた。
    「つッ!」
    「あは、ローさんやっちゃった?」
    「みんな通る道だよ、クールなローさんでもドジるんだな」
     ペンギンとシャチがいたずらそうに笑う。ひりひりと痛む舌を突き出して冷ましながら、ローはハハッと小さく笑った。
    「おい、こんなのをドジだなんて言うなよ。おまえら見たことがないんだな? 本当のドジってやつを」
     それからぼすんと横に倒れたローを見て、二人は顔を見合わせて首を傾げた。
    「ほんとうの……」
    「ドジ?」
     キョトンとした声に、ローはああ、と返す。
    「ドジってのはな、口ン中のマシュマロを噴き出したり、そもそもマシュマロを燃やしたり、ホットミルクだって手に持った瞬間にぶちまけるようなことを言うんだよ」
     そう答えると、ますます二人は腕を組んで首を九十度に傾ける。
    「そうかなあ……?」
    「でも、ローさんが言うならそうなのかも?」
     うんうんと唸り始めた二人を置いて、ローは瞼を閉じた。

     ──世界を旅しよう。こんな小舟じゃなくて、“偉大なる航路”を苦も無く乗り越えていけるような立派な船と、頼れる仲間と。
    それは偽りの約束ではなくて、いずれ真実になる言葉だ。
     広い世界を。見たこともない景色を。ローの胸で力強く脈打つ心臓と、燃える心がそれを叶える。あのひとの夢を。あのひとが最後に願った祈りを果たすために。

    「……好き、好きだよ……好きだったんだ」
     あのひとのいない世界はそれでも美しい。家族を喪って、あのひとを喪ってもう二度と自分に大切なものはできないと、世界に輝きが戻ることはないと絶望したけれど、愛おしいものがいくつもできた。そうして今度こそこの手で守る。あのひとが与えてくれた能力で、必ず。
     相も変わらず太陽は東から昇って西に沈んでいくし、腹は空くし、最近は身体が軋むように痛んでは身長がグングンと伸びていく。もう一年前のローとは見違えるほど大きくなって、もしかしたらあのひとはローだと気づかないかもしれない。いや、すぐに気づいて駆け寄って、その途中で盛大に転んで、それでもすぐに立ち上がってローを抱き上げてくれるかもしれない。生きていたら。この町に迎えに来てくれたら、きっと。それは夢だ。きっと叶うはずもない、ただの夢。それでも、ローは夢想せずにはいられない。旅をしていれば、仲間と世界を回っていたら、もしかしたら、もしかしたら──!
     涙が頬を伝う。横でまたあれこれと話している三人には気づかれないように、ローはそっと涙を拭った。
    「果たしてみせるぞ、あんたの本懐を……!」

     長い夜をあのひとはどう過ごしたのだろう。ローを抱えて、誰にも言えない秘密を抱いて。ローが名前を呼んだだけで泣いて喜んだようなあのひとが、どんな思いで、どんな気持ちで。兄を裏切り、海軍を裏切り、そうして死を目前にして何を思って微笑んでいたのだろう。
     もう知る術もない。だが、それでもよかった。彼のすべてを、彼と過ごした日々の一つ一つをすべて、昨日のことのように思い出せるから。彼から貰った愛を、そのすべてを忘れることはない。なぜならローに残っているからだ。彼の生きた証が、ローを生かした輝きがすべて。胸の内から溢れる光が、ローを照らし、ローが歩む道を照らし出していた。それはまさしく

    「コラさん……おれの、おれだけの導きの星」




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    Every Little Thing:『good night』
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